第11話 お勉強

 購入した飲み物を手に、美術室に戻った。

 まだデッサンは続いているようだった。アリナは全く座り疲れている様子はなく、寧ろ活字に集中していた。微動だにしないので、美術部員が描いているアリナは現実と全く同じ体勢だった。


 しばらくして休憩となった。アリナも席を立って休憩に入る。

 ぼーっと窓外を眺めているアリナに俺はさっき買ったココアを手渡した。


「お疲れさん。差し入れだ」


 目を丸くしてアリナは両手で受け取った。


「なんだ、どうした?」

「……むかし、よくこれと同じココアを私にくれた人がいたような気がするのよ」


 本当に亜紀先輩とアリナは知り合いなんだな。

 『むかし』という言い方に引っかかった。アリナは高校に入って亜紀先輩と会ってないのだろうか。しかも「いたような気がする」って忘れてんじゃねえか! アリナの人間関係にみだりに介入するつもりはないが気になってしまう。喧嘩でもしてるのか?

 俺は健康志向なのでトマトジュースを啜り、アリナはココアを飲みながら読書を続けた。


 慎司がこちらに近づいてきたので休憩がそろそろ終わるのだろう。


「アリナさん、ありがとうね。次で終わるからよろしくお願いします」

「ええ」


 再び文庫本を手にとって元の椅子へと座りにいった。

 俺はトマトジュースを飲みながら考える。アリナはどうして人と関わることを避けるようになり、忌み嫌うような発言をするようになったのか。それとも元からなのか。亜紀先輩のちょっとした話でも、中学生のアリナは普通の学校生活を送っていたように思える。

 アリナの口ぶりからして、高校に亜紀先輩がいるのを知らないのかもしれない。亜紀先輩自身もアリナに話しかけていない。すると中学で何かがあったとしか考えられない。

 アリナにはもっと深い謎があるようだ。

 






「頭に何かを詰め込むと何かが犠牲になるよな」


 俺は薔薇園で呟いた。独り言ではない。ちゃんともう一人女子生徒がいる。


「世の中全部合わせるとゼロになると思うんだよ。誰かが笑えば誰かが泣く。誰かが上がれば誰かが下がる。プライマイナスゼロになると思うんだよ」


 隣で黙々と勉強するアリナに問いかけてみる。


「なあ。勉強ってさ、絶対寿命縮めるよな」

「うるさい。シャーペン耳に挿し込むわよ」


 中間テストが近い。

 高校のテストはかなり重要だ。特待生制度、奨学金制度、推薦入試等にとても響くのだ。適当にやっていると絶対に後悔する。しかし頭で理解していても大抵の生徒は実行に移さない。単に面倒だからだ。それをやるかやらないかで未来の自分が過去を憎むか褒め称えるかの二つに一つ。どちらかに帰結する。

 俺は最後には笑っていたい人間なので、アリナにご教授願った。というもののアリナは黙々と一人でやるのでご教授など毛頭なかった。


「中間テストが終わるまで部活の支援は中止だ。俺も勉強しないとやばそうだ」

「そ」


 俺と赤草先生の思惑によって常にベスト10を維持するアリナの成績に傷をつけてしまうのは心外である。テストが終わって後味の悪い雰囲気にはしたくない。まがりなりにもアリナのためにある部だ。書類上存在しない幽霊的位置付けだが。


「アリナ」

「……」

「アリナさん」

「……」

「アリナちゃん」

「……」

「アリーー」

「うるさいわね、地球のガン細胞」

「勉強教えたことあるか?」

「……ない」

「ちょっと俺に教えてみて。今英語をやってるんだけどさ、効率のいい単語の覚え方とかない?」

「あんたに教えてもいいことない」

「いや、あるぞ。妹が喜ぶ」

「妹がいるのね……」

「どうした、なぜこめかみを押さえる」

「こんなのが兄だなんて可哀想だわ……」


 本気で哀れんでいるので少々傷ついた。すぐ塞がるがね。


「で、教えてくれよ。英語。あんまり英語は得意じゃないんだ。助けてくれ、聖母アリナ。希望の光」

「音読してなさい。あうあう言ってれば覚えるわ」

「あうあうー」

「窓、開けとくわね。ほら、いつでも飛び降りてもいいから」

「わかったわかった。悪かった」


 その後は俺も真面目に勉強した。アリナも文庫本には手を触れず、ひたすらペンを走らせていた。

 今日の放課後は少しの罵倒と沈黙で幕を閉じた。




 テストが近づいてきて、ちらほら休み時間を削って教室で勉強する者が現れてきた。単語帳やら計算やら各々の勉強をして多種多様の忙しさに追われている。

 俺の成績は大体、中の上ぐらいで平均より少し高い程度の中途半端な成績だ。

 高成績を取りたい気持ちもあるので今までは帰宅部権力で自宅で猛勉強だった。時間はあったので後は自分にあった勉強法を身に付ければよいのだが肝心のそこが微妙だったのである。


「真琴よ、学力はいかほどなのだ?」

「普通」

「そうか。回答が普通すぎて何も言えん」

「本当に普通なんだよ! 特に目立つわけでもなくひどいわけでもないからね。今回もそんな感じになりそう」

「みんな悩んでるんだなあ」

「そうだね」


 昼休み、真琴との食事会を終えて俺は図書室に行ってみた。アリナがいることを期待して行ってみたものの珍しく不在だった。アリナのクラスを覗いてみてもいなくて、危うく次は女子トイレに行ってしまうところで薔薇園の可能性を思いついた。

 薔薇園に足を運んでみると案の定アリナが勉強していた。


「あなたの顔は放課後だけで十分なのだけど。いつになったら整形するわけ?」

「会って早々辛辣すぎる。勉強してんのか」

「そ」


 俺は一つ誤解をしていた。

 成績がずば抜けて良い奴は天才肌なのだから勉強などあまりやらないと思っていた。アリナは常にトップ10に滑り込む成績優秀者なので、同例だと勝手に認識していたが俺が浅はかなだけだった。逃げずに実行する奴が優秀なんだ。

 嫌いだがやらないといけない。言い訳を無意識に探したり、できない理由を作って自分を納得させる。俺もそうだし大抵の人がそうだろう。勉強法や効率を良くする方法など知るわけもない。やってこなかったんだから。楽してやろうとする怠慢が燻っているうちは何も進展しない。

 彼女は逃げずに勝負しているわけだ。


「やるしかないよな」

「飛び降りるなら早くして」

「死なねーよ。俺も勉強します」

「そ」


 アリナに並んで昼休みに勉強した。



 放課後になっても彼女は勉強している。倣って俺も苦手な英語をやるが中々頭に入ってこない。何か良い勉強の仕方がないか考えていると以前アリナが言っていた何気ない一言を思い出した。

 

「英語ってさ、喋ってれば伸びるのか?」

「うわっ。なんで死んだガマガエルが横にいるのよ……ホントに最低……」

「ホモ・サピエンスだ。前言ってたろ、喋ってればいいって」

「そうね」

「あれ、適当に言った? それとも本気?」

「本気よ」

「解説してくれないか。なんで声に出すことがいいのか」


 アリナはとても面倒そうでやつれた表情になった。


「頼む。みんなの聖母アリナ」

「はあ。一回しか言わないわよ。そしたら勉強しなさい」

「了解」

「日本人が英単語を覚えられない、文法構造が解らない、のは単に日本語と英語の意味の汲み取り方が全く違うからよ」

「ほう」

「英語が使用する文字はアルファベット文字。このアルファベット文字を並べて単語を表すのが英語。そしてアルファベット文字は、『表音文字』と分類される文字なの」


 始めて聞いた単語だった。


「表音文字というのは、漢字の通り『音を表した文字』っていう意味。表音文字の特徴は単語を見るだけで発音できるということ。普通に思えることかもしれないけどこれはとても便利なのよ。初見の長い単語もなんとなくでも発音できる」


 アリナは俺の英語の教科書を指差して、


「この単語だって意味は分からなくとも発音はできる。それが表音文字の利点で、最大の特徴。ここまでいいかしら」

「おう」

「次に日本語。日本語の場合は平仮名と片仮名という表音文字と漢字の3種類の文字を活用する言語。平仮名と片仮名はアルファベットと同じように一つの文字に意味を持たない表音文字。

 けど漢字は違う。漢字は表意文字と呼ばれる文字で、『意味を表した文字』なのよ。特徴は、読めなくても見るだけで意味がわかる。長ったらしい漢字の羅列で、正しい発音がわからなくても見るだけで意味を伝達できる便利な文字。

 私、さっき表音文字って言ったけど『ひょうおんもじ』って音だけじゃ意味が汲み取れなかったでしょ? 同音異義語が多すぎるから当てはめる漢字の候補も多すぎて単語ひとつじゃ適切な漢字が解らないの。だから私たちは小学生の頃、漢字の勉強はひたすら書いて覚えさせられたのよ。漢字は視覚的に覚えるのが一番だから。音はあまり重視されてないのよ」


 アリナは少し間を置いて話を続けた。


「英語の欠点を話してなかったわね。英語は漢字のメリットが発揮されないの。つまり初めて見る単語は、意味を汲み取れない、そういうこと。漢字と英語は逆なのよ。勿論スペルは大事だけど音の方が圧倒的に重要な言語なの。同音が日本語ほど多くないのも特徴ね。一つの発音に複数の異なる意味が重ならないっていうこと。つ、ま、り」

「はい」

「英語を覚えるときは、音と意味をリンクして覚えるの。書く必要はあまり無いわ。ちょっとした一文を何度も発音して頭に叩き込みなさい。ちゃんと文の意味も理解するのよ。

 もし長文読解で見たことはあるけど意味が思い出せない単語に出会ったときは頭の中で発音してみなさい。そうすればその単語が含まれている何度も発声してきた文章を思い出すはず。そしてその文章の意味を暗記していれば、逆にその翻訳された文章から翻訳文のどの部分がどの英単語に該当しているかを照らし合わせ、そこでやっと忘れた単語の意味を思い出せる。そういうやり方で英語は勉強すべきっていうことで、あうあう喋ってれば英語は伸びるってことよ」

「確かに言われてみれば英語と日本語って全然違うんだな」

「そ。よく日本人が英語を喋れないってことで馬鹿にされるけど異国の言語を喋る必要がある国なんてたかが知れてるからほっといていいのよ。母国語で生きていけないことの方が恥ずかしいわ。だから劣等感を覚える必要なんてないのだけどね。

 日本だけでなく、他国も母国語をもっと愛したほうがいいと思うわ。国内では英語を話す需要があまりないのもあるけど一番は教育方法ね。さっきも言ったけど日本では発音させるより、何度も単語を書かせることばっかしてる。ちょっとした文法ミスでもゼロ点。文法恐怖症なのも話せない要因の一つね。漢字を覚える上では有効的な勉強法だけど英語じゃあまり効率がいいとは言えない。その日本語と英語の違いを正しく理解すれば、誰だって英語の成績は伸びるようになる。わかった?」


 俺は息をのんで頷いた。アリナの説明に唖然とした。彼女の英語の分析を、俺はしたことも聞いたことも考えたこともなかった。新しい概念が生じて、新鮮な気分になる。

 つまり、アリナはしゅごい。


「とてもためになりました。心が洗われました」

「そ。勉強しなさい」

「はい」


 俺は放心状態に陥った。凄すぎたのだ。まさか高校生でこんなドン引きされるような知識と思考を持っている人が身近にいるだなんて。不通ならこの類いの話をすれば苦笑いされて流されるが、俺にとっては好奇心が沸き起こる『面白い話』だった。

 もっと聞いてみたい。そう思ったがアリナの勉強を妨げることになるので自重した。

 いつかできればいい。

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