メイドカフェ 八

 翌日の昼休み、西野は教室で端末を眺めていた。


 金銭的な自由を取り戻した昨今、ローズに弁当を乞うこともなくなった。昼食は売店で購入した惣菜パンとジュース。手早く食事を済ませた彼は、自席で都内の観光スポットをチェックしていた。


 今週末、自称サバサバ系をデートに誘おうと考えてのことである。


 昨日はそれなりに格好いい姿を見せつけることができたと、自己評価をしているフツメンだ。このタイミングでデートに誘ったのなら、もしかしたらワンチャンあるかもと、異性交流に希望を見出していたりする。


 傍から眺めたのなら、股の緩い女に騙された童貞の図。


 しかし、彼自身はそういった可能性も想定した上で、そこから始まる少し大人な恋愛も悪くはない、などとシニカルシンキング。過去に幾度となく経験した異性からのトラップも手伝い、多少のことでは傷つかない。傷ついてもすぐに癒える。


 どこまでも前向きな、迷惑極まる存在となっていた。


 そうした青春に心を滾らせる童貞野郎から、二つ隣の席での出来事である。


「委員長、今日の放課後って暇?」


「え? あ、リサ……」


 昼食を終えたリサちゃんが、委員長の下まで絡みに向かっていた。


 手製のお弁当を食べる志水の席の周りには、普段から行動を共にする女子生徒の姿が二、三人ほど見受けられる。リサちゃんと委員長は仲良しだが、普段行動しているグループは別だった。


 リサちゃんが比較的派手な女の子の揃うグループを形成しているのに対して、委員長の周りには大人しめの女の子が多い。それは例えばスカートの長さや身につけたおしゃれアイテムからも窺えた。


「もしよかったら、ちょっと話をしたいんだけど」


「えっと、今日の放課後はちょっと……」


 予期せず話し掛けられたことで、返事に躊躇してしまう委員長。


 一方で元気よく攻めて見せるのがリサちゃんだ。


「っていうか、委員長、またおっぱい大きくなった?」


 何気ないふうに呟いて、椅子に座った志水の背後に回り込んだリサちゃん。その手がわきの下から伸びたかと思えば、制服の上から委員長の胸をぎゅっと掴んだ。十代にしてはたわわに実ったそれが、下から上に持ち上げられるように揉まれる。


「ちょ、ちょっとリサってば!」


「いいなぁ、私もこれくらい大きかったらなぁ」


 昼休みの賑やかな教室内、少し過激かもしれないけれど、ないこともない女子同士のじゃれ合いであった。委員長の席を囲む生徒たちも、リサちゃんの呟きを耳にしては、同意の意志を示して、口々に志水のおっぱいを羨ましがってみせる。


 そうした只中のこと、リサちゃんの指先が動いた。


 胸を揉みながら距離感を図っていた中央の突起に向かい、人差し指と親指が左右から迫った。制服やセーター、ブラといった衣類に阻まれながら、それでも的確に狙いすました一撃は、委員長の敏感な部分を力強くコリッとした。


「っ!?」


 志水の乳首に刺激が走る。


 決して未知とは言えないが、他人から与えられるには驚愕の感覚が走る。


 それは若干の痛みと共に与えられた快感だった。


 予期せぬ刺激を受けて、手にした箸を取り落としてしまう委員長。ただ、彼女の意識は床に転がったそれよりも、自らの胸に当てられたリサちゃんの手に向かっていた。彼女の脳裏を走ったのは偏に嫌悪感である。


「ちょっと、そういうの止めてよっ!」


 だからだろうか、咄嗟に声も大きく叫んでしまった委員長だ。


 同時に相手を遠ざけようとして肘を動かす。


 するとこれが上手いこと、背後のリサちゃんの鳩尾を殴打。


「うぐっ……」


 これまた決して小さくない悲鳴が響いた。


 一連のやり取り受けては、自ずとクラスメイトから視線が集まった。周りで食事を共にしていた女子生徒のみならず、教室に居合わせた生徒の大半が、何がどうしたとばかりに目を向けている。


「あっ……」


「ご、ごめん、委員長。ちょっと調子に乗りすぎたかも」


 お腹を抑えながら謝罪の意志を見せるリサちゃん。


 委員長としてはバツが悪い状況だった。


 しかし、ここで下手に出て同じようなことを繰り返されても困る。


 おかげで上手い返事が浮かんでこない。


 そうこうしている間にリサちゃんは撤退を決めた。


 ガブリエラからの助言に従い、一歩踏み込んでみた彼女だが、これが中々上手くいかない。じゃれ合いに見せかけて刺激を与える作戦は、想像した以上に敏感だった志水の肉体を前に失敗した。


「それじゃあ、私は席にもどるね。邪魔しちゃってごめん!」


 そそくさと逃げるように自席へ戻っていく。


 そこではリサちゃんと仲のいい女子生徒が待っていた。彼女たちは鳩尾を抑えた彼女に対して、身体は大丈夫かと気遣いの言葉を掛けたり何をしたり。傍目には普段と大差のないじゃれ合いとして映ったようだ。


 一方で不安げな表情を浮かべるのが委員長の周りの生徒である。


 内一人が心配気に声を掛けてみせた。


「志水、どうしたの? 急に大きな声を出したりして」


「いや、そ、その……」


 まさかリサちゃんが同性愛者で、更に自身の乳首を狙っていたとは、素直に伝えることも憚られた。しかし、そうなると弱いのが委員長の立場である。事情を知らない生徒からすれば、今し方のやり取りは彼女が一方的に拒絶したように見えたことだろう。


「ちょっと胸に怪我をしてて……」


 志水は当たり障りのない言い訳を並べて、この場をやり過ごすことにした。


 ただ、そうした彼女の判断は後々、二年A組の女子生徒に対して、とても大きな影響を与えることになる。




◇ ◆ ◇




 同日の放課後、西野の席を訪れる男子生徒の姿があった。


「なあ西野、ちょっといいか?」


 帰りのホームルームを終えた直後、いざ席を立たんとした際の出来事である。フツメンが机の上の鞄に向けられていた視線を挙げると、席の正面には鈴木君の姿があった。彼はニヤニヤと笑みを浮かべながら、声を掛けた相手を見つめている。


「なんだ? 鈴木君」


「これから俺ら、西野がバイトしてるメイドカフェに行こうって話になったんだけど、オマエって今日はシフトは入ってるの?」


 その視線がチラリと教室の隅に向けられる。するとそこには鈴木君と仲のいい、カースト上位に位置する生徒数名の姿があった。既に帰り支度を終えた面々は、言葉を交わす二人の様子を遠巻きに眺めている。


「ああ。入っているが、それがどうした?」


「せっかくならクラスメイトが働いているところを見たいじゃん?」


「なるほど、そういうことか」


 実際には事前にガブリエラ経由で、西野のシフトを調べていた鈴木君である。ガブちゃんに対して確認を行う際も、足がつかないように他の男子生徒に頼み込んでと、なかなかの気合の入りようである。


 その目的は当然、まだ見ぬフツメンの女友達を確認する為だ。


 一方で彼に付き合うクラスメイトとしては、西野というよりも、共に働いているローズとガブリエラの存在が大きい。同じタイミングでシフトに入っていることが判明してから、今回の企画は彼らの間で話題に上がっていた。


「とは言っても、自分はキッチン担当なので表に立つことはないが」


「オマエの言ってた女友達はどうなんだ?」


「ああ、そっちも同じ時間でシフトに入っている筈だ」


 昨晩、明日また職場で、と挨拶を交わして別れた西野と五十嵐だ。


 だからこそ本日の昼休み、熱心にデートスポットを漁っていた彼である。丸一日悩んだことで、どうにかこうにかフツメンはデートコースのチョイスを終えていた。後は本人に声を掛けて承諾を得るばかりである。


「マジ? それじゃあせっかくだし俺らにも紹介してくれよ」


「分かった、事前に話を通しておくとしよう」


 一方的な提案にも関わらず、西野は意気揚々と頷いてみせる。


 おかげで面白くないのが鈴木君だ。


 てっきり渋ってみせるとばかり考えていた彼である。


 未だ西野と五十嵐の交遊を信じていない。


「……それじゃあ、また後でな?」


「ああ、わざわざ声を掛けてくれたこと感謝する」


「っ……」


 力強く頷いて、教室を去っていくフツメン。


 その姿に苛立ちを感じながらも、鈴木君は仲間の下に戻っていった。




◇ ◆ ◇




 その日、西野は普段より気分良くバイト先に足を運んだ。


 クラスメイトが自身のバイト先を訪ねてくる、そんなイベントに青春の片鱗を感じているフツメンであった。しかも仕事の合間には、気になる異性をデートに誘うという、一世一代の挑戦が待っている。


 否応にも胸の高鳴る童貞だ。


 おかげで彼と共に歩むローズとガブリエラは、妙に機嫌良さげに映るフツメンを眺めて、何がどうしたと勘ぐるばかり。まさか自称サバサバ系と何があったのではとは、当たらずといえども遠からず。


 しかしながら、そうした彼の高揚は短いものであった。


「あ、来たみたいだよ」


 バイト先に到着、制服に着替えた三人を出迎えたのは、休憩スペースに大勢集まったスタッフのメイドたちだ。ちょうどシフトの入れ替わりの時間帯とあって、人口密度が増して思える。そして、彼女たちは取り分けローズとガブリエラに注目していた。


 声を上げたのは名前も知らない従業員の一人。


 集団の中には自称サバサバ系の姿もある。


 彼女は西野たちの姿を確認して、ビクリと身体を震わせた。


「何かあったのかしら?」


 三人を代表するようにローズが問い掛ける。


 答えたのは居合わせたメイドの一人だ。


「ローズちゃんとガブリエラちゃん、この子のこと知ってる?」


「五十嵐さんよね? 知っているけれど、それがどうかしたの?」


 休憩スペースに居合わせたメイド一同は、同じくメイド姿の従業員を皆々で囲うように立っていた。中央に窺えるのは五十嵐である。彼女は西野たちから視線を逸して、何を語ることもなく顔を伏せていた。


「この子、二人のこと喧嘩させようとしてたんだよ」


「……喧嘩?」


 要領を得ない発言を受けて、首を傾げるローズとガブリエラ。


 こと喧嘩に関しては、五十嵐に何をされることもなく、普段からぶつかってばかりの二人である。わざわざ他者から求められるまでもない。おかげで相手が何を言っているのかさっぱりだった。


 ただ、それも続けられた言葉を受けては一変する。


「二人の隣にいる男の子、西野君だっけ? この店のオーナーと仲良しなんだってね? この子ってばバイト先で楽をしたいから、西野君に取り入ろうとして、二人が喧嘩するようにあれこれ悪いことしてたみたいなんだよね」


 メイド姿のバイト少女は得意げな表情で語ってみせる。


 その言葉は同店のメイドたちの総意であった。目障りな自称サバサバ系を職場から放逐する為の算段である。口上を続ける彼女の周りでは、同じくメイド姿に着替えた従業員一同が、五十嵐をニヤニヤと見つめている。


 職場での工作がバレてしまった自称サバサバ系だった。


 おかげで彼女は言葉もなく顔を俯かせるばかり。


 プルプルと小刻みに震えている。


「前にガブリエラちゃんの制服にマヨネーズが掛けられていたこと、あったじゃん? あれってこの子がやったことらしいんだよね。そういうことしながら、平然と二人と話をしてたとか、信じられなくない?」


「ちょっと待って、そ、それは違うからっ!」


「えー、嘘を吐くの?」


 マヨネーズなる単語を耳にして、ふとガブリエラは思い出した。そうして語ってみせるメイドの女性は、いつぞや彼女の服が汚されていた一件について、犯人が五十嵐であるとタレコミを寄せた人物である。


「その子たちがお互いに悪口を言っていたことを伝えたのは本当だよ。でも、服にマヨネーズを掛けるとか、そんなことしてないから! この子たちの服、どれもブランド物でしょ!? そんなの酷いじゃない!」


「だからこそ掛けたんじゃないの?」


「だからしてないってっ!」


 語る自称サバサバ系は必死だった。


 ただ、それでも一部は容認していた。


 だからだろうか、その口からは続けざまに言葉が漏れる。


「……あの、ご、ごめん」


 西野たちに向かい、素直に頭を下げてみせた。


 彼女は喉を震わせながら言葉を続ける。


「西野君に近付こうと思って、ローズちゃんとガブリエラちゃんが反発しあってたこと、利用しようと考えてたのは本当なの。だから、ごめん。二人には心配してもらったばかりなのに、本当にごめん」


 西野に対する意識はさておいて、罪状そのものについてはまるで興味がないローズとガブリエラである。その程度のことで謝られても、とは素直な思いだ。そもそも事実として、日頃から悪口を言い合っている。


 おかげで割とどうでもいい二人だ。


 しかも心配なんて全然していない。


 むしろ彼女たちの方こそ、家主が留守の間に自宅へ忍び込み、宅内を物色するという犯罪行為を行っている。しかもその事実を無かった事にして、しれっとバイトを続けている。とんでもない極悪ロリータたちだ。


 ローズに限って言えば、西野を陥れる為にどれだけ暗躍したことか。委員長との諍いも日常的なものである。影に隠れて悪口を言う程度、彼女たちの殺伐とした日常からすれば、わざわざ報告を受けるまでもない。何気ない日々のワンシーンだ。


「あら、そうだったの?」


「う、うん……」


 おかげでどうして返したものか言葉に悩む。


 ただ、この状況は彼女たちにとって好ましいものだった。


 五十嵐の不正が西野の前で公開された。当然、彼との距離は大きく開くことだろう。また、周囲の従業員が自称サバサバ系を職場から排除しようと動いていることは、これまでの問答から彼女たちもなんとなく理解できた。


 排除できるのであれば、排除してしまいたいとは素直な思い。


 しかし、西野の手前とあって激しくバッシングすることも憚られる。


 そこで彼女は、居合わせた女性従業員の話題に乗っかることに決めた。


「たしかにあまり褒められたことではないわね」


「そうですね。人として誠実さに欠けていルと思います」


「……そう、だよね」


 自分たちのことは棚に上げて、ぬけぬけと語ってみせる。


 五十嵐はしゅんと頭を下げて応じた。


 どうやら本心から悪かったと感じている様子だ。昨日には危ういところを助けられたことで、西野と併せて彼女たちにもまた、少なからず恩義を感じているのだろう。これを利用しない手はないロリータたちである。


 そして、自称サバサバ系はそうした思惑にまんまと掛かった。


「私、今日でここを辞めるね」


 ボソリと小さく呟かれたのは辞職の意思。


 彼女たちを囲っていた女性従業員一同、内心ガッツポーズである。これが聞きたくて、わざわざ結託していたメイドたちだ。


 会話の端々に散りばめられた五十嵐の自称サバサバ系アピールは、職場の同僚からそれはもう嫌われていた。発言の回数をカウントされるほどだ。


「ローズちゃんとガブリエラちゃんが西野君のこと必死なのも理解したし、私みたいなのが口を挟むのも違うよね。だからその、ごめん。それと私なんかのこと、わざわざ気にしてくれてありがとう」


 謝罪と感謝の言葉を粛々と述べてみせる五十嵐。


 おかげで慌てたのが西野である。


 このタイミングで辞められてはデートもへったくれもない。更に本日のバイト時間には、二年A組のクラスメイトが訪れる予定となっている。そこで五十嵐を紹介することをフツメンは約束していた。


 五十嵐が近づいてきた理由については残念である一方、出会いのきっかけとしては、そういうこともあるのではないかと、早々に納得を見せた西野である。相手が業界関係者でなければ、これでなかなか懐が広いフツメンだ。


「仕事を辞めるほどのことだろうか?」


 そこから始まる恋だっていいじゃない、と。


 過去、そういったラブコメを漫画や文庫本で読んだ覚えのある彼だ。


 必死になって説得を試みる。


「この場で決める必要はない。もう少し時間を掛けて……」


「ごめんね、西野君。君を裏切るような真似をしちゃって」


 しかし、五十嵐の決意は頑なであった。


 どうやら彼女の中では、既に気持ちが固まっているらしい。昨日の出来事が、西野やローズ、ガブリエラといった面々に対して、彼女の思いを真っ直ぐなものにしていた。フツメンの助力は残念ながら、彼の目的に対して真逆に働いていた。


「……それと、今まで色々とありがとう」


 自称サバサバ系は皆々の前で深々と頭を下げて見せた。


 時間にして数秒ほどのこと。


 再び頭を上げた彼女は、西野の傍らを通り過ぎると、駆け足で休憩スペースから去っていった。パタンとドアの閉まる音と共に、パタパタと足音が遠退いていく。更衣室を過ぎて、そのまま勝手口から外に出ていったようだ。


 居合わせたメイドたちはその背を眺めて、ニヤニヤと笑みを浮かべるばかり。誰一人として彼女を呼び止める同僚はいなかった。サバサバ系を自称する彼女は、二年A組における西野さながら、同僚たちから嫌われていた。


「…………」


 結果的に今回の一件、西野の一人負けである。




◇ ◆ ◇




 槍玉に挙げられた五十嵐は、早々にバイト先を去っていった。


 本来ならオーナーから苦情が入りそうなものだが、一連の出来事を事務スペースから覗き見ていた彼は、そこに西野やローズ、ガブリエラの存在を確認して見て見ぬふりだ。下手に首を突っ込んで、火傷をしては堪らないとばかり。


 おかげでフツメンは、同日の予定を全て失う羽目となった。


「…………」


 バイト先を訪れる直後とは雲泥の差である。


 五十嵐が去っていった直後、彼は電話を掛けてみた。しかし、何度繰り返しても留守番電話に繋がるばかり。メッセージアプリにもコメントを送ってみたが、既読にこそなれども、反応は一向に返ってこない。


 こうなると一生懸命に考えたデートコースも用無しである。


「…………」


 期待していた分だけ、落差は大きいものだった。


 頭の中は真っ白。


 それでもここ数日にわたり勤めたことで、キッチン仕事に慣れた身体はテキパキと動く。次から次へと運ばれてくる食器を淡々と洗っていく。シンク前に足を運んで以降、フツメンは食器洗い機と化した。そうすることが救いであるかの如く、ただ黙々と。


 そうこうしていると、どこからともなく声が聞こえてきた。


「そういえば、マヨネーズの件ってどうなったの?」


「あれだったら全然バレてないよ?」


「マジ? あの子って馬鹿だよねぇ」


「おかげで色々と上手くいったよね。清々するよ」


「だよね。あの自称サバサバ女、めっちゃウザかったし」


 声の出どころはキッチンに面した廊下である。


 どうやら従業員同士で話をしているようだった。ドア越しにメイド仕様のフリフリとしたスカートがチラリと垣間見えた。言葉を交わしていたのは束の間、彼女たちはそのままホールに向かい消えていった。


「…………」


 マヨネーズという響きには、なんとなく覚えのあるフツメンだ。しかし、傷心の彼にはそこに気を回す余裕はなかった。遠のいていくメイドたちの足音を他人事のように耳にして、そのまま見送る。


 手元には未だ汚れたままの食器が山と積まれている。


 これを無心でザバザバと洗っていく。


 手を動かしていることで、辛うじて救われる心があった。スポンジを擦り付けることで、こびり付いた油やクリームが落ちる。蛇口の水流に濯がれてピカピカになる。暗鬱に覆われた自らの心もまた、これと同時に少しずつ晴れていくのを感じる西野だ。


 この調子で皿を洗っていれば、いずれは自身の行く先も晴れ渡るのではなかろうか。などと自分に酔ったことを考え始めているシニカル野郎である。とりあえず今日はゆっくりと皿を洗って過ごし、ここ数日で得た学びを整理して次に繋げようと考え始める。


 どんなときも前向きな思考を忘れない。


 しかし、彼にはそう悠長にしている時間はなかった。


「ちょっといいですか?」


 いつの間にやら、すぐ隣までガブリエラがやって来ていた。


 他の従業員と同様にメイド仕様だ。


 普段からゴスロリを好んで着用する彼女だから、メイド姿も非常によく似合っている。そんな相手が手を伸ばせば届く位置に立って、じっと上目遣いにフツメンを見つめている。その手の趣味がなくとも、愛らしさから目を奪われそうなものだ。


 だが、それもワンチャンを失った童貞には響かない。


 彼は普段と比較しても幾分か取っ付きにくく感じられる仏頂面で応じた。


「……なんだ? 新しい洗い物か?」


「っ……」


 おかげでビクリと肩を震わせる羽目となるガブちゃん。


 興味や関心と共に、未だ多少なりとも畏怖を持ち合わせているようだ。


 それでもどうにか彼女は言葉を続けて見せる。


「二年A組の生徒が、貴方を連レてこいと言っています」


「あぁ……」


 どうやら鈴木君率いる二年A組のクラスメイト一同が、宣言通りフツメンのバイト先まで客としてやって来たようである。


 教室で大口を叩いてしまった手前、これ以上ないピンチの西野だった。







---あとがき---


 書籍「西野 ~学内カースト最下位にして異能世界最強の少年~」の5巻が4月25日に発売されました。また本日発売の「月刊コミックアライブ 6月号」では、本作のコミカライズが絶賛連載中となります。

 これと合わせまして、超豪華キャスト(本来であればありえないような、とても凄い方々が演じて下さっております)によるオーディオドラマ「ある日の学校での出来事(ディベートの授業)」がamazonやiTunes Storeなど、各配信サイトにて好評配信中となります。

 どうか皆さま、何卒よろしくお願い致します。

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