竹内君 一

 場所は変わらず、中間試験の打ち上げ会場となるカラオケ店。


 西野の何気ない発言が、会話の空気を一変させた。


 分かりやすいのは委員長とリサちゃんの二人だ。賑やかにしていたのも束の間、驚きから口を閉ざした彼女たちは、その視線をローズと竹内君の間で行ったり来たり。え、それってどこ情報? といった表情で二人の様子を窺い始める。


 一方で竹内君は緊張に表情を強張らせる。この場を駕ぐための言い訳を考えて、その脳裏では目まぐるしい勢いで思考が巡り始める。まさか素直に頷いては大惨事である。今後の学校生活にも影響を来しかねない。


 逆に何故かドヤ顔なのが西野だ。


「もしもアンタにほんの僅かばかりでも、人として信頼のおける部分があるとすれば、それは竹内君との関係だ。その一点において俺は学内での生活に、アンタの存在を認めてもいいと感じている」


 毅然とした態度で竹内君をプッシュする。


 憧れのイケメンと距離を縮めたいフツメンだった。


 これでもかとポイントを稼ぎに来ている。


 おかげでフォローされた本人はダメージ大だ。


「なぁ、西野。オマエ何か勘違いしてないか?」


「勘違い?」


「言っておくけど俺は、ローズちゃんに相手になんてされてないぜ」


「そうなのか? だが、前に聞いた話では……」


 会話の流れから、過去のやり取りをポロリしそうになるフツメン。その口上を危ういところで遮って、竹内君は自身のターンを継続。問題の発言が相手の口からこぼれる前に、率先して対処してしまおうという算段だ。


「ローズちゃんが彼女になってくれたら嬉しいけど、俺なんかが相手じゃ無理に決まってるだろ? そりゃ一度くらいだったらものの試しに、みたいなことはあるかも知れないけど、その隣にって話になったら並の男じゃ無理でしょ」


「そうなのか?」


「だから、変なことは言うなよな? ローズちゃんに迷惑じゃん」


 曖昧な言い回しを利用して、過去に一度くらい、ものの試しに語ってしまった自らの失言を拭おうと、竹内君は西野の説得を試みる。すると相手は彼が想像した以上に、素直に頷いてみせた。


「ああ、わかった」


 おかげで竹内君はホッと胸を撫で下ろす。


 この場にはローズの他に委員長とリサちゃんの姿もある。昨今では二年A組女子のツートップと称しても過言ではない二人だ。彼女たちからの評価は、竹内君であっても無視できないものである。その面前で醜態を晒すことは憚られた。


 しかし、彼の危地は依然として去ってはいなかった。


「ねぇ、西野君。一つ訪ねたいことがあるのだけれど」


「……なんだ?」


「以前に聞いた話というのは、どういったお話だったのかしら?」


「っ……」


 金髪ロリータからの問い掛けを受けて、竹内君の表情が再び強張る。


 自ずとその口は動いて、フツメンの返答を差し押さえ。


「そう大した話じゃないんだよ、ローズちゃ……」


「私は西野君に聞いているのだけれど?」


「…………」


 ここへ来て、いよいよピンチの竹内君である。


 委員長とリサちゃんの表情にも疑問が浮かぶ。


 学内カーストの頂点に位置するローズから、直々に指摘を受けたとあっては、如何に竹内君であっても無理を通すことは難しい。西野に対して見せたパワープレイは、相手がカースト下位であるからこそである。


 ただ、そうした彼のピンチは予期せぬ相手によって救われた。


「別に大した話じゃない。いわゆる恋バナというやつだ」


「……恋バナ?」


 ローズの表情が訝しげに歪んだ。


 委員長など苛立ちから眉間にシワを浮かべている。


 よりによって恋バナだ。


 フツメンの口から恋バナだ。


「あまり突っ込んでやるな。同性だからこそ話せる話題もあるだろう」


「…………」


 まさかの空気を読んだフツメンである。


 おかげで九死に一生を得た竹内君は、なんとも複雑な気分である。目の前の相手に苛立てばいいのか、感謝すればいいのか。一方的に恩を売ることはあっても、恩を売られる日が来るとは、夢にも思わなかった竹内君である。


「……そう、分かったわ」


「この話は今ので終わりだ。構わないな?」


「ええ、そうね」


「ならいい」


 ローズが納得を見せたことで、西野もまた話題を引っ込める。


 同時に彼の意識は、手元に用意された選曲用のリモコンに向かった。


「さて、せっかくの機会だ。カラオケでも始めるとしようか」


「え?」


 予期せぬ西野の台詞を受けて、ローズはぎょっとした表情を向ける。


 まさか彼の方から声が上がるとは思わなかった様子だ。そして、これは居合わせた他の面々もまた同様である。え、コイツ何言ってんの? といった様子で、端末に手を伸ばしたフツメンを見つめている。


 そうした皆々の面前、実は割と乗り気なのが西野だ。


 これでなかなか、クラスメイトに対してはサービス精神旺盛なフツメンである。しかも現場に委員長とリサちゃん、二年A組の綺麗どころが居合わせたとあらば、青春大好き野郎としてはまたとない機会である。


 竹内君に気を遣いつつ、自らの欲求も満たす。


 一石二鳥の選択に、満更でもない表情でリモコンを操作し始めた。


 ただし、場が盛り上がるか否かは、また別の問題である。




◇ ◆ ◇




 同日、カラオケからの帰り道を西野はローズと共に歩いていた。


 後者が前者に声を掛けての帰路である。


 同じ部屋で歌っていた竹内君と委員長、リサちゃんの三名は、二年A組の面々の元に戻っていった。これから友達の家で三次会をするのだという。外では口にできなかったお酒を入れてのお楽しみ、といった塩梅だ。


 一方で西野とローズ、ガブリエラの三名は、店を後にした時点で解散していた。ただし、内一名はフツメンの後をこっそりと付けており、偶然を装い駅で合流した次第である。おかげで素直に自宅に向かったガブちゃんだけ、一人で寂しく帰宅だ。


 駅構内を歩くフツメンに対して、ローズが隣から声を掛ける。


「西野君、今日は私の家に泊まっても構わないわよ?」


「何故だ?」


「このまま家に帰っても眠れないでしょう?」


「ベッドさえ無事なら、他はどうとでもなる」


「現場の様子を確認したけれど、汚物のようなものが掛かっていたわね」


「……そこまでされていたのか」


 彼女の誘い文句は完璧である。


 日中帯に遭遇したフツメン宅の惨状、これを引き合いに出してのお誘いである。このためにローズは、一緒に捜索を行っていたガブリエラには内緒で、西野のベッドやリビングのソファーに尿を垂れていた。それこそ犬のマーキングさながらである。


 ガブちゃんに提案してみせた宅内での別行動は、その為のものである。一連の作業に当たっては、少なからず興奮してしまった彼女である。取り分けベッドや毛布に引っ掛けるのが良かったわ、とは本人の談だ。


「ああいう手合いは同じ人だと思わない方がいいわ。犬畜生以下よ」


 ローズのせいで一方的に人格と品位を貶められるならず者たち。


 まさか、罪状に放尿まで加えられているとは思わない。


 一方で自らの行いを欠片も感じさせない彼女の語りっぷりは大したものだ。ニコリと可愛らしい笑みを浮かべて、愛しい彼と共に歩む帰路に胸を高鳴らせている。いつフツメンが戻ってきても対応できるよう、部屋の準備は万端のローズ宅の客間だ。


「随分と手酷く汚されていたから、毛布の一枚も怪しいと思うけれど」


 このまま帰っても寝る場所はないと、傍らを歩む彼に語り掛ける。


 わざわざ下半身を露出してまで、下準備を進めていた彼女だ。同じ家屋にはガブリエラも居合わせていたため、非常にリスキーな行いであったと言える。それでもこの瞬間の為に最後の一滴まで絞り出してきたのだ。


「部屋のベッドはそのままにしてあるから、好きに使うといいわ」


「…………」


 未だ確認の取れていない自宅の惨状を思い、気を滅入らせるフツメン。彼は立て続けに与えられた情報から、今晩の宿をローズ宅に決めた。流石の彼も夜遅くに帰宅してから、ベッドやシーツの交換に励む気力は失われていた。


 そもそも寝具を取り扱う店が開いていない。


 近場でホテルを探すという選択肢もあった。しかし、そろそろ日も変わろうという時間帯、チェックインが可能な部屋を探すのも大変である。同時に一度は世話になった場所という点が、フツメンの精神的なハードルを大きく下げていた。


「自宅が元に戻るまで、しばらくは好きに使ってくれて構わないわ。それと部屋に居たペットのハムスターだけれど、現場で保護して六本木の彼のところに預けてあるから、暇を見て取りに行ってちょうだい」


 そこへ畳み込むように、ペットの存在が話題に上がった。


 飼い主としては生存を絶望視していた愛しきハム公である。


「生きていたのか?」


「とても賢い子ね。ケージから逃げ出して、物陰に隠れていたわよ」


「……そうか」


 これには思わず声が漏れたほど、喜びの湧き上がったフツメンだ。


 自ずとその胸に温かいものが満ちた。


 おかげで本日は、彼女の世話になりっぱなしの西野である。こうなってくると彼女からの提案を受け入れることにも前向きになる。それが目の前の相手に対する気遣いになるのであれば、などと考えての応対だ。


「……気遣いに感謝する。すまないが一晩、屋根を貸して欲しい」


「それじゃあ決まりね。この時間だと電車も数が減っているから、外に出てタクシーを拾いましょう? ここからだったら、そう時間も掛からないわ。それとスーパーによって夜食も買っていきたいし」


「分かった」


 両者の間に流れる雰囲気は、過去になく円満なものであった。少なくともローズはそのように感じていた。それこそ文化祭より以前、まだ碌に言葉を交わしていない時分と比較しても、大差ないまでに縒りを戻して思われた。


 そんな彼女の幸福をフツメンの何気ない一言が切り裂く。


「だが、本当によかったのか?」


「なにがかしら?」


「話を蒸し返すようで悪いが、カラオケでの一件、もしも竹内君がアンタに気遣っているのだとしたら、今もアンタとしては竹内君に対して、引け目を感じるような行いは避けるべきだと思うんだが」


「……それってどういうこと?」


「竹内君に捨てられたんじゃないのか?」


「っ……」


 どうやらフツメンの中では、竹内君大なりローズ、といった式が成り立っているようであった。問われた側としては、これ以上ない屈辱だろうか。しかもそれを口にした人物が、意中の相手ともなれば尚のこと。


「そういう下らない冗談は大嫌いよ」


「違うのか?」


「当然じゃないの。むしろ、どうしてそう思い至ったのかしら?」


「だが、ヤッたんじゃないのか?」


「は?」


 続けられた言葉にローズの歩みが止まった。


 なにそれ、言わんばかりの表情だ。


「……違ったのか」


 そこまで確認して、ようやく西野は竹内君の嘘に気づいた。


 壮大に勘違いしていたフツメンである。


 同時に目元をひくつかせるローズを目の当たりにして、彼はしまったと感じた。どうやら彼女にとって、イケメンの吐いた嘘は、決して看過できない代物であったらしい。それを西野もまた、コミュ障ながら理解した様子である。


「ねぇ、西野君。教えて欲しいことがあるわ」


「なんだ?」


「それは貴方の勘違いかしら? それとも彼が言った言葉なの?」


「……俺の勘違いだ。変なことを言って悪かった」


「そう、彼の言葉なのね」


「…………」


 ほんの一瞬、言い淀んでしまったフツメンである。


 その僅かな間を読み解いたローズは、続けざまに問い掛けた。


「これは決して西野君を責めている訳ではないから、素直に答えて欲しいのだけれど、

以前から売女呼ばわりされていた理由は、もしかしてこれが原因なのかしら? 確かに貴方からしたら、私が二股を掛けているように見えたかも知れないわね」


「…………」


 まさかの直撃コースである。


 この期に及んでは何を語ることもできない。西野としては竹内君の軽口が、そこまで深刻な問題を引き起こすとは、まるで考えていなかった。十代の少年にありがちな見栄であったと、真実を理解した今でも思っている。


 しかしながら、目の前の彼女にとっては死活問題であった。


 これまでの作戦がどれも碌に成果を上げていなかった理由を、遂に理解したローズである。三ヶ月という約束の期日も残すところ半分を過ぎて、いよいよ焦り始めた金髪ロリータだから、腸が煮えくり返る思いだろうか。


「その、なんだ。アンタを悪く言ったことは謝罪する」


「別にいいのよ? 西野君はなんにも悪くないのだから。むしろ問題があるとすれば、それは人のことを勝手に自分の女呼ばわりした人物じゃないかしら? 一口に嘘と言っても、言っていい嘘と悪い嘘があると思うの」


「だが、竹内君も決して悪気があった訳では……」


「悪気の有無に関わらず、この国の法律には過失という言葉があるでしょう? 知らなかった、で済ませられるのは小さい子供だけよ。もう十分に分別の付く年齢なのだから、自分の行いに対しては責任を持つべきだとは思わない?」


「……アンタの言うことは尤もだ」


「そうでしょう? 西野君ならそう言ってくれると思ったわ」


「…………」


 ローズ、珍しくも完勝である。


 同時に彼女は理解した。


 目の前の人物が意外と処女性を大切にしていることに。


 そこで彼女はぶっちゃけることにした。


「西野君、一応言っておくけれど、私は処女だから」


「……それはこんな場所で伝えるべき事柄なのか?」


「だって貴方、言うべき時に言わないと聞く耳を持たないじゃない」


「…………」


 まったくもってその通りのフツメンである。


 おかげで周囲を行き交う人々が、何事かとばかりにローズを振り返る。見た目も麗しいブロンド且つロリロリな彼女だから、その処女宣言を耳にした多くの人々が、好奇の視線を向けていた。男性のみならず女性までもが注目している。


 彼女の隣に並んだ西野としては、あまりにも居心地が悪い。


「話の続きはアンタの家で聞こう」


「今後とも私の話には耳を貸してくれると嬉しいのだけれど」


「分かった。それで構わないから、タクシーを拾うぞ」


「あら、うれしい」


 素直に応じたローズの顔には、ニコリと深い笑みが浮かんでいた。




◇ ◆ ◇




 同日、委員長は三次会への参加を辞退して自宅に戻ってきた。


 多くの友達が参加する一方で、それでも彼女が帰宅した理由は、ひとえに飲酒を忌諱しているからである。大学進学に当たり、場合によっては推薦入試も考えている彼女だから、万が一にもお酒を飲んだ事実が露呈した日には目も当てられない。


 そこで頑なに真面目を貫いている次第だった。


 欲を言えば参加したくて堪らない委員長だが、そこには一線を引いている。


 そんなこんなで本日もまた、仲の良い友達と分かれて一足先に帰宅した彼女は、自宅で勉強に励んでいる。机の上に並べられているのは、試験科目で点数の悪かった教科だ。次の試験に向けて、重点科目の洗い出しと、勉強プランの作成の真っ最中だった。


「やっぱり、暗記科目がネックなのよね。塾の試験もあるし……」


 ブツブツと独り言を呟きながら、ノートにペンを走らせる。


 卓上に配置されたスピーカーから鳴っているのは、最近発売されたお気に入りのロックソング。もれなく太郎助の曲である。これを延々と繰り返し再生しながら、ああでもない、こうでもないと頭を悩ませている。


 するとそんな彼女の手元で端末が震えた。


 どうやら通話着信のようだ。


 多くの若者がそうであるように、彼女もクラスメイトとは通話をほとんどしない。大半はデータ通信の音声会話アプリだ。自ずと相手は限られてくる。最も可能性の高い家族は既に寝静まった後だ。誰かしらと首を傾げながら、志水は画面を確認する。


 するとそこには、フランシスカなる文字が浮かんでいた。


「…………」


 数日前、喫茶店で会った際に連絡先を交換していた二人だ。


 結果は電話で連絡するわね、とは事前に伝えられていたものの、こうして実際に掛かってくると引いてしまうのが委員長である。ただし、出ない、という選択肢はない。未だ苦手意識のある金髪美女に対して、恐る恐る通話ボタンを押す。


「はい、もしもし……」


「ごめんなさい、もしかして眠っていたかしら?」


「あ、いえ、ちょっと勉強をしていて」


「そう? それなら今から少しいい?」


「はい、大丈夫ですけど……」


 電話の向こう側から聞こえてくる声は、以前と変わらないハキハキとしたものだった。苦手意識こそ持ち合わせているものの、見た目麗しくキャリアウーマン然としたフランシスカの姿は、委員長にとって将来の理想像に等しいものである。


 自ずと会話も下手に出てしまう。


「まずは報告からだけれど、チャンネルの件、とても助かったわ。貴方が話を通しておいてくれたおかげで、無事にこちらの都合の良いように事を運べたの。私はあまり人を褒める方じゃないのだけれど、これは想像した以上に上手くいったわ」


「あ、いえ、それはどういたしまして……」


「それで貴方に対する報酬なのだけれど、振込先を教えてもらえないかしら? もしも現金がいいようなら用意しても構わないけれど、どっちにする? 個人的には振込だとありがたいわね」


「それって普通の銀行口座でも大丈夫なんですか?」


「ええ、大丈夫よ」


「それなら、あの……」


 フランシスカに言われるがまま、委員長はお小遣いを貯めるのに利用している口座を伝えた。世の中の大人からすれば、そう大した額が入っている訳ではない。ただ、それでも彼女にとっては大切な貯金である。


 おかげで伝えた後に不安が押し寄せてくる志水だ。


「それじゃあ明日中に振り込んでおくから、改めて確認して頂戴」


「あ、はい」


「それともう一つ、本題はこっちなのだけれど……」


 財布にキャッシュカードを戻しつつ、委員長は首をかしげる。


 まだ何かあるのかと、少なからず警戒してのことだ。


 フランシスカの背後にはローズがいることを彼女は知っている。下手に関わっては碌なことにならないと、賢い委員長は過去の経験から十分に学んでいた。この電話もさっさと切って勉強に戻りたいと考えている。


「貴方って英語を使った仕事に関心があるのよね?」


「え? な、なんでそれを……」


 予期せず当てられた自らの将来の目標。


 デスクの上に並んだ教科書から、路上に面した窓に視線を移して、志水は背筋を強張らせる。まさか見張られているのかと、根拠の知れない疑いが脳裏を過った。そして、それは半分正解で、半分外れである。


 フランシスカの手元には、西野を筆頭とした二年A組の調査資料がある。


 そこには当然、委員長の身辺について纏められたものも存在していた。


「英語を使った簡単なバイトがあるのだけれど、挑戦してみる気はない?」


「……え?」


 続けられた言葉は、まるで想定外の提案であった。




◇ ◆ ◇




 試験明けとなる翌日、学校は全学年揃ってお休みである。


 それでも登校している者がいるとすれば、部活動に熱心な生徒か、仕事に追われた教職員くらいなものである。当然、一部の教室を除いて大半の部屋は無人だ。鍵が掛けられて人が出入りすることもない。


 そうした人気の少ない学内でのこと。


 殊更に物静かな体育館裏のスペースに並び立つ生徒の姿があった。


「ローズちゃんから連絡だなんて珍しいね。どうしたの?」


「どうしても聞いておきたい話があるの」


「そ、そう?」


 竹内君とローズである。


 交わされた言葉の通り、後者が前者を呼び出してのことである。


 おかげでシャツの下、冷や汗を垂らしているイケメンだ。


 その脳裏に蘇ったのは、つい先日、カラオケ店で話題に上がった一件である。ローズとの恋愛を急ぐあまり、西野に対して嘯いてしまったイケメン。そのツケが日を跨いでやって来た様子だった。


「先日、カラオケで彼が言っていたことなのだけれど」


「あぁ、あれは西野の勘違いだよ?」


 竹内君は西野に責任を押し付ける形で言葉を返す。


 それが彼にとって一番の失敗であった。


「本人も言ってたと思うけど、俺は……」


「貴方のこと、この場で殺してしまいたいわ」


 次の瞬間、ローズが動いた。


 地を蹴って飛び出したかと思えば、竹内君に肉薄している。右手が首筋に伸びて、正面から相手の首を鷲掴み。指先に力が込められるのに応じて、血液から気管までが、万力で挟まれたように締め付けられる。


「っ!?」


 勢いに負けて自重を崩したイケメンは、その場で後方に倒れた。


 背中を打ち付けて息が詰まると同時に、後頭部を地面にぶつけて目を白黒させる。一瞬意識が飛びそうになるが、続けざまに訪れた痛みから危うくも覚醒を得る。身体の随所から走った痛みと、急に苦しくなった呼吸とが、全身を激しく硬直させる。


「貴方のせいで私は時間を無駄にしたわ」


「ロ、ローズちゃん? ……どう、したの?」


 苦痛から顔を歪ませながらも、ニコリと笑みを浮かべてみせる竹内君。同時に身体を起こそうと地面に立てた腕が、即座に伸びてきた相手の左手に捕らわれて、ピクリとも動かなくなる。その事実にイケメンは笑みの裏で背筋を寒くする。


 西野との関係の為には、どこまでも冷徹になれるのがローズである。彼女は相手の狼狽える姿にも構わず、淡々と言葉を続けてみせた。その眼差しは瞬きさえ忘れてしまったように、ギロリと竹内君を睨みつけている。


「貴方が吐いた嘘のせいで、私は貴重な時間を無駄にしたわ」


「……に、西野から……聞いた?」


「私とヤッたですって? どこの誰が貴方に股を開いたのかしら?」


 確定である。


 投げ掛けられた言葉を耳にして、竹内君は観念した。


 しかし、それでも彼はコミュニケーションを継続する。


「もしかして、ローズちゃん、き、君って西野のこと……」


「だったら何だというのかしら?」


「…………」


 僅かなやり取りながら、コミュ力に優れる竹内君は、目の前の相手が何に対して怒っているのかを理解した。自身を地面に押し付ける恐ろしいまでの腕力にこそ疑問を抱いてならない。だが、それが振るわれる理由については、すぐさま把握した。


 おかげで驚きも一入である。


 どうして西野なんかが、そう思わずにはいられないイケメンだ。


 しかし、それを口にしたら目の前の相手が、今以上に怒り出すことは間違いない。呼吸もままならない彼は、相手を宥めるよう進路を取った。これ以上首を締め付けられては、そのまま殺されかねないと判断である。


「嘘をついたことは、ま、間違いないよ。ごめん、ローズちゃん」


「貴方が謝ったところで、失われた時間は戻ってこないわ」


「じゃあ、ど、どうすれば……いい、のかな?」


 朦朧とし始めた意識を危ういところで保ちながら、竹内君は言葉を続ける。


 もしもこれが鈴木君であったのなら、パニックから全身を激しくバタつかせたところで、酸欠からすぐにでも気を失っていただろう。対して竹内君は全身の力を抜くと共に、視界へ意識を集中することで、気を保つことを優先する。


 とてもではないが、腕力で目の前の相手に敵う気がしない彼だった。


「どうすればいいのかしら? 私にもわからないわ」


「……西野に事情、説明……しようか?」


「それじゃあ意味がないのよ。貴方のような人間には理解できないでしょうけれど。むしろ、勝手にそんなことしてみなさい? 死ぬよりも苦しい目に遭わせてあげる。実家が病院なんですってね? 色々と素敵な未来が思い浮かぶのではないかしら」


「……どういう、こと?」


 段々と意識が危うくなってくる竹内君。


 顔色は真っ赤だ。


 唇に至るまで色が変わってきている。


「いっそのこと貴方を殺して、彼から追われる側に回ってみるのも、悪くないかも知れないわね。少し時間が掛かるかも知れないけれど、このまま彼と分かれるよりは、余程のこと明るい未来が待っているのではないかしら」


「…………」


 竹内君はローズが冗談を言っているようには見えなかった。まさかとは思いながらも、その眼差しに殺意を感じていた。ジッと彼を見つめる瞳は、ダンスイベントの舞台で目の当たりにした松浦さんのそれと比較しても、殊更に恐ろしいものであった。


 松浦さん、松浦さん、松浦さん。


 その名前が頭に浮かんだところで、イケメンはふと思った。


 目の前の相手もまた、彼女と同じ人種なのではないかと。


「ローズちゃん、もしかして西野のこと、殺したいほど好き、とか?」


「殺したい? 冗談ではないわね! むしろ殺されてしまいたいわ! でも、普通に殺されるのでは駄目ね。彼の脳裏から絶対に離れないように、決して忘れられないように、未来永劫、私を殺したことを彼が思い続けるように殺されたいわ!」


「…………」


 似たようなものだろう、とイケメンは判断した。


 そうなると彼もまた、続く言葉に選択肢が幾つか浮かび始めた。まさかこのような場所で殺されては堪らないイケメンだ。同時に目の前の相手に対して、自分というブランドを壊させない為の工作も必要になってくる。


 細々とした要点を瞬く間にまとめた竹内君は、ローズに短く語り掛けた。


「ローズちゃん、時間を無駄になんて、してないよ」


「それは私が判断することよ」


「むしろ、チャンスだって」


「命乞いかしら?」


「アイツはローズちゃんが、これまで他人に股を開いてたって、そう思っているんだろ? だったら、そのギャップで絶対に、ローズちゃんのこと、意識するって。アイツ童貞だから、そういうのに弱いんだって、知らなかった?」


「…………」


「俺でよければ、協力、するけど」


 なんら迷うことなく西野を童貞扱いである。


 そうした彼の言葉に、ローズは少しばかり考える素振りを見せた。


「……そうねぇ」


「ぜったいに、ローズちゃんの役に立つから」


 いよいよ限界が近い竹内君である。


 手を伸ばせば触れられる位置にある相手の顔が、その輪郭も危ういほどに、ぼんやりと歪み始めていた。同時に視界の隅から黒いものがじわりじわりと滲み寄ってくる。このままだと数分も持たないだろうとは、学業の傍らに齧った医学書からの知見である。


 そんな彼に対して、ローズは最後通達を行った。


「それでもやっぱり、貴方には死んでもらうわ」


「っ……」


「ここで貴方を殺せば、きっと彼の意識も私に向かうわ。ずっとずっと……」


 ローズの右腕に力が込められた。


 竹内君の首に激痛が走る。


 骨が軋みを上げる。


 それは絶命を意識させられる痛みだった。


 竹内君の脳裏に浮かんだのは、これまでの人生の走馬灯である。物心ついてから本日に至るまで、幼い頃の記憶が現代に向い、段々と成長してゆく自らの肉体と併せて、目まぐるしい勢いで流れていく。


 その大半は異性とベッドに入った経験だ。


 あの子は可愛かった。


 あの子は締りが良かった。


 あの子は乳頭が綺麗だった。


 いずれにせよパイパンは良いものだ。


 そうした思いが、今まさに死にゆくイケメンの脳裏に過ぎていく。


 誤って中に出してしまい焦ったことは数え切れないほど。前日に他の女と会っていた為、一発目にも関わらず量が少なくて困ったことがあった。逆に勢いが良すぎて髪にたっぷりと掛かり、洗うのを手伝う羽目になることもあった。


 どれも彼にとっては大切な思い出だ。


 掛け替えのない青春のワンシーンだ。


「…………」


 やがて辿り着いた先、その意識に投影されたのは、休日の学校に呼び出された自身である。次はこの子と決めて、それでも一向にものにできていない金髪でロリロリの女の子。そんな彼女からの連絡を受けて、緊張と共に足を運んだ校舎裏。


 その可愛らしい姿を記憶の中に眺めて、竹内君は思った。


 今のままではヤリ足りない、と。


 もっともっと女とヤリまくりたい。ローズちゃんとヤラないで死ぬなんてあり得ない。ガブリエラちゃんとだって絶対にヤリたい。二人と3Pできないまま死ぬなんて、断じて許容できない。そんな素直な想いがイケメンの胸中で荒れ狂う。


 訪れたのは、類まれなる性交への渇望。


 ただただ女とヤリたいという、決して枯れることのない思い。


 死に対する恐怖にも増して、より大きなものとして膨らんだ欲求。


 所定の条件を満たしたイケメンの切なる思いが、その肉体に奇跡を起こす。彼の周りで暗躍している彼や彼女と比較すると、幾分か弱々しい奇跡だ。見劣りする。しかしながら、それは確かに同様の過程で成された代物であった。


「え……?」


 不意にローズの口から疑問の声が漏れる。


 それは組み付した相手の肉体の変化を受けてのことだ。


「っ、あ、あぁっ……」


 竹内君の喉から、呻き声のようなものが漏れる。


 同時にその肉体が淡い輝きを発し始めた。


「な、なによ、これっ……」


 首を掴んだ指先に刺激を感じた彼女は、大慌てで腕を引っ込める。


 目を白黒させるローズが見つめる先、指先は紫色に変色していた。更に相手の皮膚に接していた部分は、皮膚が溶けて肉が見えてしまっている。しかも困ったことに、何故か再生者としての能力が上手く働かず、治癒の速度が普段と比べて段違いに遅い。


 その事実に慄いたローズは、大慌てで竹内君のもとを離れた。


 一方のイケメンは、気道と血流が確保されたことで息を吹き返す。


 顔色が良くなるのに応じて、失いかけていた意識が復活する。


「っ……」


 閉じかけていた瞳がくわっと見開かれた。


 直後に肉体の輝きが失われる。


 深く吸い込まれた空気が、肺全体に行き渡るよう流れていく。意識が鮮明になると同時に、反射的に竹内君は上半身を起こした。身体のあちらこちらが痛みを訴えるが、これに構う素振りは見せない。ここは格好つけてなんぼだと考えたイケメンだ。


 何故ならば同所に居合わせた相手は、とても可愛らしい意中の女の子。


「貴方、まさか彼と同じなの?」


 すると相手は、いつの間にやら距離をおいて、竹内君に警戒の姿勢を見せていた。腰を落として身構える姿は、戦隊モノのアクションシーンさながら。その姿と台詞に疑問を感じて、彼は恐る恐るといった様子で声を掛ける。


「え? あの、ロ、ローズちゃん?」


「体液がこんな強力な毒に……」


 ローズの爛れた指先には、竹内君の口から漏れた唾液がべっとりと付着していた。その付着部分が皮膚や肉を溶解するように、彼女の体組織を侵食していく。まるで強い酸でも掛けられたようだった。


「……毒? え? 毒って、な、何?」


「しかも私の治癒を滞らせるなんて、相性は最悪かしら」


 訳がわからないと言わんばかりの竹内君。


 これに対してローズは、緊迫した様子で彼を睨みつける。


「随分と上手く擬態していたようね? まるで気づかなかったわ」


「擬態? 擬態ってもしかして、カ、カメレオンとかの?」


「けれど、こうして表に出てきたからには、そう安々と逃したりはしないわ。この場は引かせてもらうけれど、覚えていなさい? 何が目的なのかは知らないけれど、近い内に生まれてきたことを後悔させてあげる」


「え、ちょ、ロ、ローズちゃんっ!」


 竹内君が名前を呼ぶも虚しく、ローズは踵を返すと駆け出した。


 相変わらずな彼女の健脚は、サッカー部でエースを勤める彼であっても、追いつくことは困難だ。駆ける姿勢も綺麗なものである。おかげでその背は瞬く間に遠退いて、校舎の陰に隠れると共に見えなくなった。


「ローズちゃん、毒ってなんなの……」


 後に残されたのは、事情を理解しないイケメンが一人である。

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