部活動 九

 翌日、二年A組に松浦さんの姿はなかった。


 朝のホームルームを迎えても彼女の席は空のまま。担当教師が体調不良で欠席の旨を伝えるに過ぎていった。どうやら学校には事前に連絡を入れていたようで、これといって問題になることもない。


 流石の彼女も、西野の隣ポジは堪えた様子だった。


 おかげでクラスの女子も言いたい放題である。同日を経たことで、松浦さんの学園カーストにおける序列の変遷は、確たるものとして定着する運びとなった。これを覆すことは並大抵ではないだろう。


 一方でその評価を勢い良く上げているのが竹内君だ。


 珍しくも教師の欠席から自習となった二時間目の授業。進学校ならいざ知らず、これ幸いとお喋りに花を咲かせるのが、普通極まる同校の生徒たち。自ずとイケメンの周りには人垣が生まれていた。それも大半は女子生徒である。


「竹内君、ダンスイベントで踊ってきたんだってっ!」「え、マジっ!?」「うっそっ!? それ絶対に見たかったっ!」「動画とか上がってないの?」「私も行きたかったぁっ!」「なんかもう、めっちゃ気になるよっ!」


 ダンスイベントの件がどこからか漏れたらしい。


 囲まれている本人としては、あまり触れて欲しい話題ではない。ステージでは対して活躍することもなく過ぎた上、下手くそな女装から周囲より浮いてしまった竹内君である。向坂は大層喜んでいたが、彼としては完全に黒歴史である。


「いや、そんな大したもんじゃないからさ……」


「そういう謙遜なところも格好良いんだよねっ!」「わたし、竹内君と一緒に踊ってみたいなぁ」「あ、それずるーい、私も踊りたいなぁっ!」「竹内君っ! 私、バレエだったら踊れるよっ!」「え、それ男子関係なくない?」


 平素にもまして、キャッキャと黄色い声が教室内に溢れる。


 それはもう、とても楽しそうな光景であった。


 青春という青春を尽く突っ込んだ楽園が、そこには広がっていた。


 他方、閑散としているのがフツメンの席周りである。


「…………」


 そこには青春のセの字も見つけられない。


 性交のセの字など、遥か遠い彼方の伝承事。


 教科書など眺めて時間を潰しているが、内心、誰かと話をしたくて堪らない西野である。自分も竹内君と一緒にイベントに参加したのだと、共に同じ舞台の上で踊ったのだと、自らの言葉で訴えたくて仕方がない彼だった。


 しかしながら、腹の中に抱えたシニカルの神様が、自ら他者へ声を掛けることに待ったを掛ける。それはクールじゃないと。それはイケてないと。故に彼は自席に腰を落ち着けて、平然を装い教科書のページをペラリ、ペラリとめくる。


 手にしているのは、授業の為に用意した生物Ⅱの教科書だ。文字や数式ばかりが並ぶ他の科目とは異なり、図表の多彩な同科目は、これといって頭を使うことなく、それでいて目を楽しませることができる。暇を潰すには都合が良い教材である。


 他に何をするでもなく紙面を眺めるフツメン。


 そうこうしていると、ページを捲る指先が止まった。その視線が向かう先には、食物連鎖のピラミッドを描いたイラストがある。肉食動物、草食動物、植物の順番で段々と裾野を広くするよう下に向けて並んだ、この世界における絶対の理である。


「…………」


 自ずと最下層に描かれた植物の層に視線が向かうフツメンだろうか。


 学内における自身の立ち位置を意識させられる図である。


 しかしながら、紙面に描かれた植物は、同じ層にあって実に様々な種が葉を茂らせている。それはとても賑やかで楽しげなものだ。他方、教室で自席に腰掛けた西野の周りには、他に誰の姿も見られない。


「……なるほど」


 植物の層に描かれた稲の一房。


 その物言わぬ稲穂に、お前とは違うと文句を言われた気分の西野だった。


 自ずと脳裏に浮かんだのは、つい先日に眺めた標準偏差のグラフである。


「何がなるほどなのかしら?」


「っ……」


 孤独な遊びに興じる彼に対して、すぐ近い位置から声が掛かった。


 自ずとフツメンの視線が教科書から上げられる。


 するとそこには、いつの間にやら志水の姿があった。


 二年A組が誇る美少女委員長である。


「どうした? 俺に何か用か?」


 そういう台詞を出会い頭に言ってしまうから、他者が周囲から離れていくのだと、こちらのフツメンは未だに気づかない。一風変わった生活環境から与えられたコミュニケーションの方向性は、彼の骨の髄まで染み付いていた。


「相変わらず西野君に声を掛けるとイライラするのよね……」


「こちらの言動が勘に触ったのなら謝る。すまなかった」


「…………」


 おかげで一向に治る気配がない。


 それが素敵なんじゃないの、とはローズの談だ。


「……これ、机から落ちていたわよ」


 苛立たしげに西野を見つめる委員長。その腕が彼に向かい差し出された。


 手の平には四隅の角を丸くした消しゴムが乗っている。その絶妙な曲線は、差し出された側もまた目に覚えのあるものだ。一つ前の授業でも利用していたのだから間違いない。購入から半年を経て、だいぶ小さくなった彼の持ち物である。


「すまない、助かった。気づかないうちに落としていたようだ」


「私のところまで転がってきたから、仕方なく届けただけなんだからね?」


 念を押すように語ってみせる志水。


 どうやら西野の机から落ちた消しゴムを届けに来てくれたようだ。


 語って早々、ぷいとそっぽを向いての受け答えである。


「ああ、大丈夫だ。ちゃんと理解している」


 二つ隣の席の彼女が、どうして自らの下まで転がってきた消しゴムの出処を正しく理解しているのか。その理由に関しては、恐らく本人に訪ねたとしても、正しい答えが返ってくることはないだろう。


「っていうか、西野くん。貴方も……」


 続けざまに委員長から西野へ、その口が開かれる。


 これを遮るようにして、二年A組に大きな声が響いた。


「うぉ、スゲェっ! 本当にローズちゃん踊ってるっ!?」


 それは学年一のマゾヒスト、十九本浩介の席から聞こえてきた。


 いや、正確には彼の席の傍らに立った、彼の友人の口からだ。


 彼らは二人並んで、十九本の席に置かれたノート型の端末を見つめている。その視線は画面に映された映像に注目していた。教室に響いた大きな声も相まって、他の生徒もまた彼らに意識を向ける。自ずと端末に流れる映像の詳細も目に入る。


「それってもしかして、竹内君が参加したダンスの動画?」


 彼らの席に程近い女子が、端末の画面を目の当たりにして問うた。


 その指摘通り、画面にはダンスイベントの舞台が映されている。


 これを耳にしたことで、瞬く間に生徒たちが十九本の席に集まり始めた。


 途端に教室は賑やかになった。


「本当だっ! これヤバい、ローズちゃんめっちゃ可愛いっ!」「ローズちゃんがチアガールとかマジかよっ!」「え? そんなの俺も生で見たかった」「っていうか、竹内君は? 竹内君っ!」「竹内君いなくない? 全部女子っぽいし」「え、マジ?」


 どこの学校でも、年に一度はどこかの教室で見られる光景。オタク男子の所有アイテムが、キラリと教室で輝く瞬間だった。気づけば十九本の席の周りには、男子と女子の垣根を越えて、クラスメイトが大勢集まっていた。


「そう言えば、に、西野くんも参加したのよね? ダンスの大会」


 委員長から西野に向けて、念願のトークイベントが発生。どこからか既に情報を仕入れていたらしい彼女である。おかげでフツメンは驚いた。まさか委員長からブレイクダンスの話題を振られるとは思わなかった次第である。


「あぁ、少しばかり手伝いをすることになった」


「ふぅん?」


 自ずと二人の意識もまた十九本の席に向かう。


 席を立って見に行こうか。腰の浮きかけたフツメンである。しかしながら、同所は既に多くのクラスメイトに囲まれて、近づくにも苦労しそうである。そう大きくないノートパソコンの画面を覗き込むのは難儀に思われた。


 そうした只中の出来事である。


「っていうか、このギャルっぽい子だれ?」「この学校の生徒じゃないよね?」「だよね? ぜんぜん見たことないし」「なんかめっちゃ遊んでそうじゃない?」「言えてるー」「でも化粧が厚い割に、腕とか足とか妙に肌が綺麗だよね」「あ、それ思った」


 予期せず話題に挙がったギャル西野。


 どうやら彼女たちは、その正体に気づいていないようである。


 そうとなれば、ここぞとばかりに声を上げるのが竹内君だ。


「あぁ、そいつ西野」


 一蓮托生、まさかフツメンばかり逃す訳にはいかないイケメンである。


 自身の女装カミングアウトに先んじて、事前に生贄を用意だ。


 おかげで間髪を容れず、教室に居合わせた誰もの視線が、妙に肌の綺麗な男に向けられた。誰一人として例外なく、え、なにそれ、言わんばかりの反応である。まさか映像に映ったギャルが、目の前の冴えない童貞野郎だとは思わない。


 すると、これを受けては動く者の姿があった。


 他の誰でもない、二年A組の一番槍、剽軽者である。


 彼は瞬く間に距離を詰めて、西野の机の前、委員長の隣に並び立った。際しては、あ、いい匂い、ふわりと香った志水の体臭に股間を震わせる。その芳しいスメルに勢い付いた彼は、教室の隅から隅まで響くよう、声も大きく言い放つ。


「ハァ? 女装? マジでキモいんですけどぉぉおおお!」


 手にした自慢の槍を、目の前のフツメン目掛けて遠慮なく突き刺した。


 剽軽者の剽軽な声は、教室中に響き渡った。


 彼としては絶好のネタを手に入れた瞬間である。これでしばらく、剽軽者の学内における地位は安泰だと、胸中ではホッと安堵から溜息など一つ。なんだかんだで日常的に剽軽を演じることに疲弊を感じ始めている剽軽者だった。


 しかしながら今回に限って言えば、彼の判断は大変な失態であった。


「あのさ? それを言うと、今回は俺も女装してたんだけど」


「えっ……」


 竹内君から剽軽者に向けて、睨むような眼差しが向けられた。


 両者の力関係は一方的だ。その間には決して越えられない壁が存在している。顔が格好良いか、格好良くないか。イケメンからの鋭くも美しい眼差しを受けて、剽軽者はその大して格好良くもない瞳を驚愕から大きく見開いた。


 これを受けては間髪を容れず、女子からも声が挙がる。


「だよね! やっぱり、この一番右側の背が高いのって、竹内君だよね!」「あ、私も思った! めっちゃ背が高いもんっ!」「っていうか、ダンスで女装とか竹内君おちゃめ過ぎ」「竹内君のスパッツとか、絶対に生で見たかったし」


 それはイケメンに対するフォローだ。


 クラスの女子から愛されている男子だけが迎え入れられる優しい空間。


「っていうか、この動画の竹内君、ヴィジュアル系バンドみたいで格好良くない?」「あ、それ分かる」「衣装とか変えたら、これ絶対に股キュンだってば」「ちょっと、股キュンとかアンタの顔で言わないでよ」「私はチアガールの衣装も悪くないと思うけどな」


 竹内くんを囲って殊更に賑やかとなる二年A組。


 剽軽者の発言権は完全に喪失していた。


「…………」


 顔を青くした彼は、続く言葉を失って自席へと戻るばかり。


 その寂しげな背中には、誰が言葉を投げ掛けることもない。


 剽軽者とは修羅の道。


 一度その道に足を踏み込んだのなら、もう戻ることはできない。自身より低いカーストの相手を出汁にして、笑いを取り続けなければならない。そこに癒やしはなく、猶予もない。ただ延々と学校を卒業するまで、剽軽し続ける他にない。


 どれだけ心が疲れようとも、剽軽者に立ち止まることは許されないのだ。他人を貶すことに抵抗を覚えても、これを否定することは許されない。そうでなければ、下へ落ち行くのは、他の誰でもない彼自身である。


「彼って面白いけれど、ちょっと口が悪いのよね……」


「そう言ってやるな、委員長」


「言っておくけれど、貴方も同じなのよ? 西野君」


「…………」


 どこぞのフツメンがクラスを引っ掻き回し始めたおかげで、段々と規律の乱れてゆく二年A組。松浦さんの登校拒否も、剽軽者の意気消沈も、全ては始まりに過ぎないことに、未だクラスメイトの誰一人として気づいていなかった。




◇ ◆ ◇




 同日、午前の授業を終えて直後、昼休みの出来事である。


 ローズから弁当の配給を待つ西野の下へ、足を運ぶ生徒の姿があった。


「西野君、ちょっと顔を貸してもらえない?」


 リサちゃんである。


 四時間目の授業が終わって早々のアプローチであった。


「……構わないが、どうした?」


 すると例によって、二人の距離感をぶっちぎった物言いが教室に響く。声を掛けた側の神経を否応なく逆なでる。私と西野君、別にそんなに親しくなかったよね? 喉元まで出掛かった台詞を飲み込むのに必死のリサちゃんだ。


 おかげでこれを受けてはクラスメイトからの注目も一入。


 ローズの転校を受けて影響力を落としているとは言え、元々は学園のマドンナとして君臨していたリサちゃんである。そんな彼女が学園において最下層に位置するフツメンに声を掛けたとあらば、何事かと勘ぐる者たちも少なくない。


「西野のヤツ、今度はリサちゃんに何かしたのか?」「マジかよ? 本当に節操ないヤツだな」「もしかして、リサちゃんも西野に弱みとか握られちゃったの?」「えぇー、ひっどーい!」「マジ最悪じゃん西野っ!」「リサってばかわいそぉー」


 そうした喧騒から逃れるよう、リサちゃんが西野の腕を取った。


「ちょっとこっちに来て」


「ああ、分かった」


 二人は早歩きで二年A組を後にした。


 リサちゃんに先導されて向かった先は、二年A組が収まる棟の屋上だ。


 フツメンにとっては何かと縁のある場所である。ここ最近はローズと共に昼食を食べるのに利用している。お昼休み、弁当を携えた彼女と共に同所へ向かうのが、毎日の日課となっていた。その事実は他の生徒の間でも、少なからず噂になっている。


 曰く、西野がローズちゃんを脅して弁当を作らせている。


「この前のこと、絶対に誰にも言わないでよね?」


「……なんのことだ?」


「と、とぼけないでっ! 私がファザコンだってことっ!」


「あぁ……」


 割と容易にぶっちゃけたリサちゃんである。


 彼女は自分の性癖が世間的に真っ当でないことを正しく理解していた。その上でこれっぽっちも、その趣味を改めるつもりがなかった。何故ならば、今の自分こそ正常であり、毎日が満ち足りていると感じているからだ。


 伊達に毎晩お布団の中で、パパのことを脳内逆レイプしていない。


 好みの体位はちんぐり返し騎乗位。


 更に言えば彼女にとっての西野とは、取るに足らない下層カーストである。


「どうなのっ!?」


「親子仲が良いのは良いことだ」


「……殴るわよ?」


 リサちゃんの目元が鋭くなる。


 その表情には妙な迫力が感じられた。


「大丈夫だ。たとえ腹を割かれようとも、リサちゃんの趣味は口にしない」


「……本当に?」


「ああ、本当だ。なんならこの左目を賭けてもいい」


 ローズから貰ったばかりの碧眼を指し示て、偉そうに語ってみせる西野。それは怨敵から一方的に与えられた、本人としては素直に感謝できない、それでも少なからず恩義を感じている、なんとも複雑な贈り物。


 故に少し雑に扱ってみたくなるシニカル野郎だ。そうすることで生まれる愛着もまたあるだろうと、やたらと面倒臭いことを考えている。おかげで自ずと、その口は動いていた。勢いから格好つけたことを謳っていた。


 事情を知らないリサちゃんにとっては、これ以上ない苛立ちとなる。


「西野君って他人を苛立たせるの得意だよね?」


「いや、そんなつもりは毛頭ないんだが……」


「…………」


 委員長にも増して素直に伝えてくるリサちゃん。


 しかしながら、彼女の思いは彼の下まで届かなかった。しゅんとするフツメンは、本当に申し訳なさそうな態度だから、これがまた殊更に苛立たしい。おかげでリサちゃんもまた、相手に悪意がないことは理解できた。


「昨晩のことが勘に触ったのなら謝罪する。すまなかった」


「だからあのさぁ? そういうことじゃないんだけど……」


「ではどういうことだ?」


「西野君って、話してみると面倒臭い性格してるって言われない?」


「いいや? 今まで言われたことはないな」


「…………」


 流石のリサちゃんも、これ以上の問答は時間の無駄だと判断したようだ。彼女は委員長ほど人付き合いがよろしくない。伝えることは伝えたので、さっさと話題を切り上げるよう語ってみせる。


「まあ、それならそれでいいけど、私のことは誰にも言わないでね?」


「大丈夫だ。重々承知している」


 キリッとした表情となり、深々と頷いてみせる西野。


 どんな時でも一向に決まらないのは、それもこれも彼の顔面偏差値が普通極まるが所以。厚ぼったい一重の瞼は、いつだって彼の意志を、二つ三つグレードを落として、相手に伝える。真面目な表情となったことで、殊更に仏頂面が際立つ。


 おかげで疑心暗鬼の眼差しを西野に向けるリサちゃんである。


 こればかりは致し方なし。


 かと思えば、そうした二人の会話に割り込むよう、他所から声が届いた。


「あら、西野君は近藤さんのどんな秘密を知ってしまったのかしら?」


「っ!?」


 ローズだった。


 階段室へ通じるドアの正面、いつの間にやら金髪ロリータの姿があった。


 傍らには金魚の糞が如く銀髪ロリータの姿もある。依然として西野を毛嫌いする彼女は、同時にローズに対する愛情もまた決して冷めることなく、こうして連日に渡り付き纏っている。西野もまたローズに対する牽制として、それを素直に迎え入れていた。


「こんにちは、近藤さん」


「え、ローズちゃん? ど、どうしたの? こんなところで」


「これから彼とお昼なのだけれど、近藤さんはどうされるのかしら?」


「え、それって……」


 リサちゃんの視線は、ローズが胸に抱いた箱状の包みに向かう。彼女の脳裏に思い起こされたのは、生徒たちの間で昨今、あれこれと噂されている西野とローズの関係である。曰く、西野がローズのことを脅迫して、毎日弁当を作らせている、云々。


「それ? それって、なにかしら?」


 ジッと相手の瞳を見つめるローズ。


 その眼差しには彼女が持つ芯の強さが窺えた。線のような薄っぺらい西野の瞳とは雲泥の差である。まさか自ら望まずに同所を訪れたとは思えない。そこには彼女が自らの意志で湛えた、確たる想いが感じられた。


 そして、コミュ力に優れるリサちゃんは、その想いが示す先にすぐ気づいた。


「え、あ、ううん? すぐに戻るよ? ごめんね、邪魔しちゃって」


 目の前の相手に、自分と同じものを感じたのだろう。


 勝手に勘違いをして、泥を被る羽目になった委員長とは訳が違う。


 元学園のマドンナは伊達ではない。


「ふふふ、気を使わせてしまって悪いわね」


「ううん? こっちこそ西野君のこと、借りちゃってごめんね?」


「いいえ、気にしなくて良いわ」


「そうかな?」


「ええ、そうよ。貴方とは良い関係を結べそうだわ、近藤さん」


「ローズちゃんからそんなふうに言ってもらえるなんて嬉しいなぁ」


 ニコリと微笑んで、リサちゃんは西野の下より一歩を踏み出す。


 その歩みは軽い。


「それじゃあ、私はこれで失礼するねっ」


 ファザコン娘は駆け足で屋上から去っていった。その姿は早々に階段室へ消えて、足音もまたすぐに聞こえなくなる。去り際に呟かれた言葉通り、これといってローズたちの様子を窺うこともなく、素直に教室へと戻っていったリサちゃんだ。


 これを確認して、おもむろに西野が口を開いた。


「どこまで聞いていたか知らないが、彼女のことは他言無用だ」


「ええ、分かっているわ」


「ならいいが……」


 西野以外の生徒には、まるで興味がないローズである。例えそれがカースト上位に位置する女の子の尖った性癖であったとしても、なんら気にはならない。明日には忘れているかも知れない。それくらいどうでも良いものだ。


 一方で西野は西野で、彼女に相談事があった。


 それは同所を去っていったリサちゃんとも、少しだけ関係のある事柄だ。


「ところで、食事の前に一つ話がある」


「なにかしら?」


「歯を矯正しようと思う。差し当たって、その為の費用を借りたい」


「駄目よ」


「…………」


 ローズの判断は即座だった。


 西野が口として即座、拒絶の意志を見せる。


 これに負けじと、彼は言葉を重ねる。


「自己負担での治療となるから、たしかに相応の金は掛かる。しかしながら、その効能は計り知れない。もちろん外見的な改善も一つだが、それ以上に肉体の運用という上でも、多くのメリットがあるだろう」


「駄目よ」


「歯の噛み合わせの是非は、例えば睡眠の質にも影響するそうだ。そこに向上が見られれば、より少ない睡眠で活動することができる。稼働率の上昇は収支の改善にも繋がる。それに今後、歯の治療に費やす時間も減るだろう。トータルでみればプラスだ」


「駄目ね」


「委員長も言っていた。歯並びは社会的な信用を得る上でも必要な……」


「断固として認められないわ」


「…………」


 何を語ろうとローズは拒絶の意志を見せた。


 おかげで西野は焦る。


 手持ちがゼロであった為、昨日はマーキスに小銭をせびってまでの受診であった。それくらい、委員長との会話の機会は、西野にとって喜ばしいものだった。誰かと話をしたくてうずうずしていたところ、話しかけてくれた委員長。素直に嬉しかったフツメン。


 もしも自分が矯正器具を付けて登校したのなら、そこから生まれる会話もあるのではないか。もしかしたら彼女も経験者なのかもしれない。共通の話題を得たのなら、更に広がる会話の輪。そんな楽し気な未来が、彼の脳裏にはあった。


「実は昨日、治療の契約を進めてしまったのだが」


「破棄すればいいわ」


「…………」


 しかし、金髪ロリータは頷かない。西野の必死なプレゼンを受けても、決して首を縦に振らない。


 本日の交渉により、その費用を回収する腹積もりであったフツメンだから、まさか否定されるとは思わずに、しどろもどろである。このままでは委員長からのアドバイスに答えることは愚か、リサちゃんのパパとの約束を破る形となってしまう。


「話はそれだけかしら?」


「いや、それなのだが……」


「それじゃあ、お昼ごはんにしましょう。お腹、減っているでしょう?」


「…………」


 昨日と同様、ローズは努めて穏やかに昼食の支度を始める。


 まさか西野の歯科矯正など、決して認められない彼女だった。できることなら歯など全て引っこ抜いて、自ら咀嚼した食事を口移しで与える飼育こそ理想である。それが矯正を受けて綺麗に揃った歯並びだなどと、首がもげても認められないマジキチである。


 そもそも歯なんて無い方が、クンニをするときも舌が奥まで届いて気持ちが良いじゃないの、みたいな。


「もしかして、お腹が減っていないのかしら?」


「……いいや、貰おう」


 リサちゃんのパパと交わした翌週の診察予約


 その日が訪れることはないと理解して、胸を痛める西野だった。




◇ ◆ ◇




 同日の放課後、西野はまっすぐにローズ宅へ帰宅した。


 本当ならブレイクダンス同好会に顔を出して、新しい技の練習をしようとしていた彼である。しかしながら、帰りのホームルームを終えて直後、二年A組を訪れたローズにより、強制的に帰宅を促された次第である。


 昨今の彼には、部活動へ参加する自由もないのだ。


「それで話というのは何だ?」


 リビングのソファーに腰掛けて、フツメンは目の前の相手に問い掛けた。


 足の短いソファーテーブルを挟んで対面には、優雅に紅茶など口にするローズの姿がある。制服姿から一変、スカートの丈が短いワンピースに着替えた彼女は、おもむろに足など組んだりして、童貞野郎の股間を挑発しつつのティータイム。


「以前にも話した件よ」


「……新しく同好会を作るという話か?」


「流石は西野君、理解が早くて助かるわ」


「あまり人を馬鹿にするな」


 ちなみにフツメンの手元にはティーカップがない。


 それもこれもローズに対する反感から、紅茶を淹れましょうかとの提案に、断りを入れたが為である。おかげで喉はカラカラ、口の中がベタついて仕方がない西野だろうか。住む場所こそ贅沢になっても、生活の質は大して向上が見られない。


 全てはシニカルを気取る彼の自業自得である。


「それで早速なのだけれど、色の良い返事は貰えるのかしら?」


「重々承知している、約束は約束だ」


「あら嬉しい」


「しかし、ブレイクダンス同好会はまだ、正式に部活動として認められてはいない。そして、俺とアンタとの約束は、ブレイクダンス同好会が正式に部活動として認められることが条件となっていた筈だ」


「また随分と粘るわねぇ……」


「悪いか?」


「いいえ? 約束は約束だもの」


「ならば、もうしばらく待つといい」


「分かったわ」


 ローズは素直に西野の物言いを受け入れた。


 なんだかんだでブレイクダンスの練習に味をしめた金髪ロリータである。ダンスの指導と託つけて、日がな一日フツメンの身体を触りまくった日もあった。なんなら兼部してみようかしら、と考えるくらいにはメリットを見出している彼女だ。


 西野の言葉ではないが、何がどう転ぶか分からない世の中である。


「こういうことを言うのもなんだが、随分と素直だな?」


「あら、失礼ね。私だって約束くらい守るわよ?」


 更にここぞとばかり、自身の株を上げに掛かる。


 当然、西野にはそんな彼女の心中を推し量ることなど不可能だ。


「……そうか」


「ええ、そうなのよ」


 まさか目の前の相手が、自身に惚れ込んでいるとは思わない。


 素直に感心するフツメンだろうか。


「ところで西野君、これからもダンスは続けるのかしら?」


「何故そんなことを聞く?」


「今回の一件を受けて、貴方に新しい肩書が増えたわよ」


「新しい肩書?」


「女装好きの変態野郎ですって」


「…………」


 そんなこんなで、西野の突拍子もない思いつきから始まったブレイクダンス同好会を巡る一件は、本人になんら利益を与えることなく過ぎていった。異性からモテるという目的は果たされず、代わりに与えられたのは、不本意且つ不名誉な称号である。


 その先に何が待っているのかは、本人もまるで想像ができない。


「どうかしら?」


「……アンタの言う同好会とやらに参加しつつ、追々考えるとしよう」


「それが懸命ね」


 紆余曲折あったものの、なにはともあれローズ的には一件落着である。

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