現地 十二

 そろそろ時刻は午前三時を過ぎようという頃合いのこと。


 チンピラとの面倒を終えてホテルまで戻ってきた西野たち。疲労困憊も甚だしい面々であるから、さっさと部屋に戻って眠りたいとは誰もが胸に抱いた切なる思い。特に満身創痍な西野と太郎助は、割とのっぴきならない体調である。


 そんな彼らを迎えた自室前、フランシスカは言う。


「あら、ず、随分と、早かったわねぇ……」


 彼女の傍らには何故か竹内君の姿があった。


 彼の手に抱えられているのは、先日、アテネの空港に購入された土産物のワイン。それなりに値の張るものらしく、何某とかいう銘柄の何年ものという風情だ。購入時には木箱に包まれていたそれを自室で引き剥がしての登場である。


 ただ、そうしたボトルの行き先も失われて、ポカンと彼は問い掛ける。


「え? なんで西野がここに……」


 彼の視線は西野たちの間で行ったり来たり。


「っていうか、タローさん? それにローズちゃんも、どうして西野と……」


 一人だけ名前の挙がらなかった委員長は、どうして私だけ、とかなんとか思わないでもない。少しばかり寂しい気持ちの十七歳、乙女座。そんな彼女の感情を置き去りとして、会話は勝手に進んでゆく。


「お、おかえりなさい? ずいぶんと遅かったわね? 貴方がなかなか帰ってこないから、若い子にナンパされちゃったわぁ。こんなイイ女を待たせるなんて、貴方ってば本当に罪な男よねっ! ほんとうにもう!」


 これ以上は竹内君に何を語らせることも許すまい。


 フランシスカが話題を攫うように吠えた。


 その口から続けられたのは、強引極まる語り草である。目の前のアジア人が竹内君を筆頭として、クラスメイトを大切にしていることは、彼女もまた理解していた。下手を打てば、自身の首が物理的に飛びかねないと考えた次第である。


「……フランシスカ?」


 これには西野も眉をひそめた。


 しかしながら、フランシスカは構わず言葉を続ける。


 それこそ誰に何を語らせる間も与えまいと。


「そういう訳だから、ほら、坊やは部屋に戻って頂戴?」


「え? お姉さんって西野と知り合いなんですか?」


「そうよぉ? 二人でバカンスに来ているの」


「ぇ……」


 艶っぽい笑みと共に語りみせるフランシスカ。まさか嘘を語っているとは到底思えないほどに力強く断言してみせる。鉄火場ではあまり役に立たない彼女であるが、こういった男の女のやり取りには滅法強かった。


 相手が十代も中頃とあれば独壇場だ。


 今へ至るまでの過程を説明するのも面倒だとばかり、美貌にモノを言わせたパワープレイである。彼女もまた西野ほどではないが、最後の睡眠から二十数時間を数えて、いい加減に眠いようだった。


「まさかお姉さんに彼氏の前で浮気なんて、させないわよね?」


「え……彼氏って、あ、あの、それは……」


 これ以上は私に構わないでと言外に訴えて止まないフランシスカ。


 おかげで竹内君にとっては、非常に面白くない状況だ。


 常日頃から周囲よりちやほやされている為、地動説よりは天動説のほうがシックリくるイケメンだ。まさかの拒絶に驚愕である。どうやら少なからず、自分ならイケるのではないかと踏んでいた様子だった。


 故に致し方なし、彼は一時的に話題を移す形で、この場を維持するべく動いた。


「っていうか、あの、どうしてタローさんが西野と一緒なんですか?」


 問い掛ける先はタローさん本人でなく、継続してフランシスカだ。


 こうした辺りが非常に上手い竹内君である。


「え? あぁ、えぇっと、それは……」


 流石の股くさオバサンも、太郎助の存在までは誤魔化しきれない。


 その足取りがサントリーニに及んでいることは、再三に渡る関係各所からの連絡により知っていた。しかしながら、まさか共に帰ってくるとは想定外の出来事である。急逃れの言い訳を述べた為、続くところに詰まってしまう。


 それならばと、これに助け船を出すのが当の本人である太郎助。フランシスカの戸惑う姿を確認して即座、平静を装いながら口を開く。西野に肩を預けた姿勢では、ほとほと格好も付かないが、それも今は致し方なしと判断しての行いだ。


「これはまた大した偶然じゃないか。オマエら、全員無事だったか?」


「あ、は、はいっ、でもそれはタローさんの方こそですよっ! 怪我されてるじゃないですか!? 大丈夫ですかっ!? ズボンにもめちゃくちゃ血が付いてるし、救急車を呼んだ方が良いんじゃ……」


「大したことはない。一晩寝れば治るさ」


 ハハハと軽やかに笑う大イケメン。


 実際はタクシーで移動している最中から、泣きたいほど痛くて堪らない。この場で他の誰よりも強くベッドを求めているのが彼である。ゴールを目前に控えて、早くそこを退いてくれ、訴えんばかりの思いだ。自慢のスマイルも些か引き攣って見える。


「な、なるほど……」


「とりあえず、今日のところは休め。警察だのなんだの面倒なところは、こっちで片付けておいてやる。折角の旅行だろう? 多少のアクシデントはあったかも知れないが、嫌なことはさっさと忘れて、他へ観光に向かうべきだと俺は思うがね」


「……はい」


 憧れの太郎助に言われては、流石のイケメンも勢いを失う。ただ、それでも不服そうな表情は変わらずの竹内君。一番の理由は、今まさに彼の正面に立った、類い希なる美貌の持ち主、フランシスカである。


 よしんば一晩のアバンチュールをと狙っているのは、誰にも一目瞭然だった。


 昨日の晩、鈴木君がハワイ旅行に際して経験した乱交物語を語って聞かせたところ、これに触発されたのが発端だ。そういうことなら自分もまた経験しなければ嘘だろうと、狩りに出たのが数分前の出来事である。


 当人にしてセックスする気も満々だった。今晩は帰らないぜと、鈴木君に伝えて出てきた手前、まさか破れる訳にはいかない。これをフツメン如きに阻止されたとあっては、イケメンの名折れである。その高い自尊心も手伝い、苛立ちは捌け口を求めた。


「……………」


「どうしたの? まだ私になにかご用?」


 結果的に彼は、この場で一番立場が弱いだろう人物をロックオンだ。他の誰でもない、西野である。実際はどうだか知らないが、竹内君の中ではそういうことになっている。それでもフランシスカの手前、語り調子はといえば、幾分か控えめなもの。


「っていうか西野、本当にこんな綺麗な彼女がいたのか? 文化祭まではあっちこっち声掛けてたし、彼女なんていなかったよな? こんな短期間でスゲェじゃん。マジでそうなら俺、お祝いしてやらないとなんて思っちゃうんだけど」


 ツラツラと流れるような物言いはコミュ力の高さが所以。


 フランシスカと西野の間で、本当に付き合いがあるとは考えていないようだ。


 顔面偏差値を考慮すれば当然である。


 西野のすぐ近くにはローズの姿もある。ここで下手にフランシスカへ固執したとあっては、今後、彼女とのお付き合いに支障が出るだろう。そうした少なからぬ打算の上、自らの自尊心を慰める為の問い掛けである。


 周囲の注目もまた、一斉にフツメンへ向かった。


「あぁ、そうだな……」


 これを受けて彼は考えた。現状、一番優先すべき事柄は何だろうと。


 自ずと出てきた答えは、今という瞬間、早急に竹内君とおやすみなさいすることだった。色々と関わってしまった手前、委員長に関しては諦めながらも、これ以上、他のクラスメイトに私的な部分を知られるのは憚られた。


 それは西野自身に限らず、彼らにもまた、大きな不利益を与えるものだからである。下手をすれば当人のみならず、クラスメイトの皆にまで危害が及ぶだろうとは、西野がここ最近で危惧して止まない点である。


 また、太郎助が足に受けた怪我にしても、割と危うい代物だ。


 おかげでフツメンの決断は早かった。


「フランシスカ、ちょっと来い」


「な、なぁに?」


「いいから来い」


 ドア越しに控えて、竹内君に対応していた金髪美女。これを突っ慳貪な物言いから、顎一つで呼び寄せるフツメン。その言動のなんと不貞不貞しいこと。けれども、フランシスカは取り立てて機嫌を損ねることなく、彼の下へ素直に向かった。


 何故ならば、西野と彼女のやり取りは、いつもこんな感じである。


「……なによ?」


 キョトンと疑問に首を傾げる金髪美女。


 ちょっと可愛らしい。


 これに西野は、突拍子もない行動に出た。


「んっ……」


 彼女の顎を手に取り、その唇に自らの唇を重ねて見せた。


「っ!?」


 まさかの行いに瞳を見開くフランシスカ。その手を撥ね除けることさえ忘れて、ビクリ、酷く驚いた様子で全身を強く震わせる。両手をピシリと伸ばして、まるで脳天から足先まで、電流でも流れたよう。


 その様子を眺めて、ローズや志水もまた反応は顕著だ。


「ちょっ……」


「に、西野君っ!?」


 特に前者は唇を重ねられた当人にも増して、酷く驚いて思える。


 縦に鋭く伸びた瞳孔の端と端までもが確認できるほどに目玉を貧向いて、パクパクと声もなく口を動かしている。タクシーで移動する最中、ようやっと引き始めていた汗が、再びぶわっと滲み出て、額に雫を粒と並べる。


 キスは十数秒ばかり続けられた。


 その間、フランシスカが上げる僅かばかりの喘ぎ声が、淡々と響いては聞こえた。


 エロい。


 しかし、これに誰が何を言うこともない。


 唇が離されるに応じては、つぅと唾液が糸を引いて伸びた。


「これで信じて貰えたか?」


 終えて早々、竹内君を振り返ってフツメンは続ける。


 一方でキスされた側はと言えば、西野の傍らで呆然、虚空を眺めては立ち呆け。どうしたことか、その頬は彼女らしくない色に染まっていた。悲鳴はおろか、文句の一つすら飛び出すこともない。


「……あ、あぁ」


 流石の竹内君も、それ以上は何を語ることも出来なかった。


「そういう訳だから竹内君、悪いが部屋に通させて貰えないか? 俺が言えた義理じゃないが、夜も随分と遅い。流石に旅行先で朝までせがまれるは勘弁を願いたい。いかんせん疲れていてな」


「っ……」


 平素からの西野節が、これ以上ないくらい竹内君の心に響いた。


 止せば良いのに叩いてしまった軽口は、竹内君の大切な部分をブレイクだった。


 イケメンのプライドが今まさに木っ端微塵である。


 更にフツメンの横暴は続けられる。


「来い、フランシスカ」


「え? あ、えぇ、行くわ、行くわよ? えぇ」


 普段と変わらずシニカルをキメる西野の傍ら、寄り添うようにフランシスカが続く。その表情は普段の強気な彼女と比較して、随分と大人しく、そして、どこか恍惚としている。覚束ない視線は明後日な方向を彷徨って後、チラリチラリとフツメンへ。


 そのまま彼と彼女は部屋に消えていった。


 二人が去りゆく姿を目の当たりとして、ギリリ、どこからともなく歯ぎしりの音が響いた。かと思えばバキンと、歯の根っこから折れる音が。更にどうしたことか、ゴリゴリバキバキと何かを噛み砕く音さえ。そして、最後にはゴクリ。


 ローズ流のカルシウム摂取術だ。


「ひっ……」


 隣立つキチガイ女の奇行を目の当たりとして、思わず半歩を引く委員長。


 どうやらその咥内で行われた奇行を理解してしまった様子だ。


「にしのくんにしのくんにしのくんにしのくんにしのくんにしのくん」


 ボソボソと呟かれる言葉は、すぐ近く志水に限って届く理不尽。


「……な、なによもぉ、こ、こ、この子ぉ……」


 涙目だ。


 その視線は路上に落ちた汚物でも眺めるよう、ローズを見つめていた。


 他方、流石の竹内君も攻める先を失っては、これ以上を粘れない。


 そこで彼は次なる舞台に向けて、早々に標的を移した。


 今晩の相手を求めて、自然と意識は金髪ロリータへ。鈴木くんに対して、今晩は帰らないと宣言してしまった手前、まさか手ぶらで部屋には戻れない。せめて土産話の一つは必要だ。学園を代表するイケメンとしてのプライドが、続く言葉を自ずと呟かせる。


「そ、それじゃあローズちゃん、俺たちも部屋に戻らない?」


 手にした酒瓶を軽く掲げて、精一杯の笑みを浮かべながらのお誘い。


 しかしながら、意中の相手は既に西野以外の全てが眼中にない。


「ごめんなさい? 私、彼と少し話があるから」


 にべもなく告げて、ローズもまた西野の後を追った。


 一度としてイケメンを振り返ることはなかった。


 視線が合うことすらも。


 彼女は駆け足でパタパタと、ドアの向こう側に消えてゆく。


「あ、おい、アンタ……」


 その姿を目の当たりとして、声を上げたのが太郎助だ。


 アンタとはローズを指してのこと。


 キチガイ女の眼差しに狂気を垣間見たようである。竹内君にも増して人の機微に聡いイケメンであるから、西野、或いはフランシスカを刺しかねない勢いのローズを目の当たりとして、どうにも不安でならないようだ。


「太郎助さん、か、肩、代わりに貸しますからっ!」


「あぁ、すまない。助かる」


 そんな彼の心中に気付いたのか、西野の代打で肩を貸して志水。クラスメイトから犯罪者を出したのでは堪らない。多少なりとも委員長としての肩書きが影響してだろう。無駄に活発な自意識が歩みを取らせた。


 もしくは他に気になることがあったのか。


 いずれにせよ二人もまた、ローズに続いた。


 いそいそと部屋に戻って行く。


 おかげで後に残されたのは竹内君が一人。


「……おいおいおい、なんだよこれ。どうなっちゃってるんだよ」


 ギュッと固く握られた拳は、小刻みにフルフルと震えていた。




◇ ◆ ◇




 竹内君をやり過ごした一同は、部屋に戻って直後にまた一騒動だ。


「お、おい西野っ、どうしてこの子がここに居るんだよっ……」


 リビングに足を運んだ面々が目の当たりとしたのは、リビングのソファーに放置されたゴスロリ少女だった。そもそも今回の騒動の発端となった彼女であるから、これを目撃した途端に太郎助が騒ぎ出した。当然と言えば当然の反応だろう。


 急に大きな声を上げたので、肩を貸していた志水もビックリである。


「なんだ、知り合いか?」


「いや、し、知り合いっていうか、訳も分からないまま拉致られたっていうか」


 一方で彼から吠えられた側はと言えば、いけしゃあしゃあと語る。


「お姉様、一緒にシャワーを浴びませんか? 汗を掻いてしまいました」


「勝手に一人で溺れてなさい」


「残念です」


 一人で身動きが取れないのは相変わらずだ。ソファーに横たわった姿勢は、西野たちが出て行った際と変わらない。それでも首から上だけを動かして、ローズの行方を追い掛けている。銀髪ロリータは金髪ロリータに首ったけである。


 また彼女の対面には他に一人、見慣れぬスーツ姿の男がある。大きめの肩掛けバッグを傍らに腰掛けている。恐らくはフランシスカが呼んだ医者だろう。歳は四十代中頃。短く刈り込んだ金髪に碧眼の欧米人然とした美丈夫だ。


「フランシスカ、コイツの面倒を頼む」


「え? あぁ、えぇ。分かったわ。でも貴方も……」


「そっちのが重傷だ。あまり長くは放っておけない」


 太郎助を顎に指し示して言う。


「西野、ちょ、ちょっと待ってくれ。説明をっ……」


「後で幾らでもしてやるから、先に手当を受けろ。足が壊死するぞ」


「えっ……マ、マジか?」


「マジだ。向こう数時間が勝負だろう」


 西野があまりにも飄々と接していた為、自身が受けた怪我もまた、そこまで大したものではなかったのだろうと、安易に判断していた太郎助である。まさか車椅子での生活が間近に迫っていたとは思わない。


「っ……」


 その顔を引き攣らせて、素直に言うことを聞くイケメンだ。


 患者は医者に連れ添われて、リビングに隣接した寝室に向かう。


 その表情は顔面蒼白だった。


 肩を貸している都合上、これには志水が付きそう形となる。ただ、太郎助がベッドへ横となれば、他にやることもなくなる。多少ばかり眺めていたものの、手持ち無沙汰。すぐに皆々の下に戻ってくる。


 他方、西野は太郎助の下へ向かった医者と位置変えて、ソファーに腰を下ろした。


 リビングには西野の他にローズ、フランシスカ、志水、ゴスロリ少女。


 ローズとフランシスカが西野の両側に腰掛ける。対面には銀髪ロリータの特殊性癖を理解しない委員長が、その隣に取り立てて抵抗もなく座った。二人は今この瞬間が初顔合わせだ。まさか隣に腰掛けた娘が、クラスメイトの誘拐を企てた人物だとは思わない。


「そこの女の発送はいつ頃になるんだ?」


 西野がフランシスカに問い掛ける。


「二、三時間もすれば到着すると思うけれど」


「相変わらずその手の手続きだけは手際がいいな」


「べ、別に褒めたところで、何も出ないわよ?」


 人心地付いたと言わんばかりに受け答えするフツメン。


 そんな彼の軽口に対して、普段以上に緊張した面持ちで受け答がフランシスカである。先程のキスを受けてから、どうにも反応がおかしい。より具体的には、視線の先に彼の一挙一動を追い掛けて止まない。


 一方で話題に挙がった側はと言えば、一心不乱にローズへ求愛中である。


「残念です。私はもっとお姉様と一緒に居たかったです」


「私は貴方と一秒でも早く別れたいわ」


「もしよろしければ、私と一緒に来てはもらえませんか?」


「嫌よ」


「素敵な料理とおいしいお酒をご用意いたします」


「本当に人の話を聞かない娘ね……」


 おかげで西野とお話したくでもできない彼女は絶賛ストレスフル。


 そうこうする間にフツメンが席を立った。


 一連のやり取りに気分を害したのだろうかと、気になったフランシスカが問い掛ける。普段なら大仰にも組まれている股くさオバサンの両足が、今に限っては綺麗に横並びで揃えられていた。


「またどこかに用事かしら?」


「他に部屋の空きを確認してくる。いい加減に眠い」


「ベッドなら二つあるじゃないの」


「他に泊まるヤツがいるだろう?」


 チラリと視線でローズを指し示して言う。


「それなら私のベッドで寝る? 朝まで素敵なサービスが付くわよ」


「下らない冗談は止めてくれ。今も口の中がアンタの唾液で不快なんだ」


「初めてにしては上出来だったわよ?」


「ああでもしなければ、竹内君は引き下がらなかっただろう。まさか、事情を知られる訳にはいかない。下手をすれば、クラスメイトを危険に巻き込むことになる。ただそれだけのことだ」


「あら、初めてという点に関しては否定しないのね」


 ニコリとフランシスカが良い笑みを浮かべた。


「…………」


 これ以上は相手にしていられないとばかり、西野の視線はリビングに併設された寝室に向かう。そこでは問題のベッドの上、太郎助が治療の最中だ。注射やら何やらで都度、うぅ、あぁ、ぐぅ、小気味良く呻き声を上げている。


 恙なく治療が進んでいると判断して、フツメンは歩き出した。


 その足は早々に部屋を後とする。リビングを経ってしばらく、屋内廊下に通じるドアの閉る音が、パタンと静かにリビングまで響いた。今し方に宣言してみせたとおり、ホテルのフロントへ向かったのだろう。


 その足音が完全に遠ざかったことを確認して、ローズが口を開く。


「ねぇ、らしくないわよ?」


 珍しくも彼の後を追わなかったキチガイ女である。


 問い掛ける先はすぐ隣、フランシスカだ。


「なんのことかしら?」


「貴方、最後の最後まで彼を目で追い掛けていたわよね?」


「だから、なんのことかしら?」


「普段なら碌に視線も合わさず、我関せずだったじゃないの」


 ジィと酷く冷めた眼差しで、股くさオバサンを見つめる金髪ロリータ。


 彼女もまた普段であれば、ここまで真剣な眼差しをフランシスカに向けることはない。共に過した時間は随分な二人だが、仲が良いかと言われればそうでもない間柄である。だからこそ的確に相手の変化を見定めて、躊躇無くこれを指摘する。


「アジア人は趣味じゃない、違うかしら?」


「ええ、そうね。趣味じゃないわね」


「彼はアジア人よね?」


「さぁ?」


「…………」


 フランシスカは素っ気なく呟いて、ソファーから立ち上がる。


 その歩みはリビングに面したダイニングキッチンに向かった。冷蔵庫から缶ビールを取り出して、プシッと小気味良い音と共に封を切る。ゴクゴクと気持ち良く喉を鳴らして、火照った身体を覚ますよう、半分ほどを一息に飲み干した。


 そんな彼女をローズはジィと執拗に見つめ続ける。


「あの、ロ、ローズさん、私も尋ねたいことがあるんだけど……」


 そろそろ自分も喋って良いだろうかと、控えめに志水が尋ねる。


「悪いけれど後にして貰えないかしら?」


「……うん」


 今この場で最も低い立場にいる人物、それが委員長だった。




◇ ◆ ◇




 リビングに居場所を失った委員長は、誰に声を掛けることもなく、また声を掛けられることもなく、股臭オバサンの部屋を後にした。


 今日はもう疲れたからと、足早にベッドを求めて動き出した委員長だ。しかし、彼女は部屋を出て早々、致命的なミスに気づいた。竹内君が予約した部屋がどこにあるのか、まったく把握していなかったのである。


 更に手持ちの端末は水没して機能停止。連絡を取ることも難しい。


 それでも賢い委員長は決して諦めることなく、ホテルのフロントに向かった。宿帳から確認してもらおうとい魂胆だった。伊達に東京外国語大学を目指していない。更にいえば本日の日中帯、紅茶の注文に失敗した経験を活かしてのリベンジである。


 ここで委員長のダイジェスト。


 受付カウンターへ辿り着くや否や、彼女は先制攻撃を仕掛けた。ペンプリーズ、ペンプリーズ、昔は凄かった気がする英語パワーを駆使して、筆記用具をゲット。トークは無理でも筆談なら多少は余地がある。そんな典型的日本人を恥じずにコミュニケーション。


 喋ったら負け。喋られても負け。


 舌の代わりに手を動かせる筆談なら、割と自信のある委員長だった。


 しかしながら、彼女はミッションに失敗した。


 最終的に聞き出した部屋はといえば、太郎助が撮影に利用した部屋だった。


 アジア人が大勢押しかけての撮影は、ホテル側にも印象的だったのだろう。おかげで夜勤スタッフは委員長という顧客に対して、撮影の関係者だろうという一方的な思い込みから対応を行っていた。トークを諦めた時点で、委員長の敗北は決定していた。


 おかげで宿無しとなった彼女である。


「……どうしよ」


 他に居場所もなくて、彼女はトボトボとフロントまで戻ってきた。エントランスに用意されたソファーに腰掛けて、ハァと大きくため息を一つ。ここで一晩を過ごすしかないのかも。さもしい身の上が自ずと想像されて、疲弊した肉体を殊更に苛む。


 そんな彼女の下へ不意に届けられたのが、ここ最近で聞き慣れた声である。


「眠れないのか? 委員長」


「…………」


 振り向いた先、そこには西野の姿があった。


 またコイツかよ、思わんばかりの志水だろうか。ここまで来ると、よくよく縁のある相手だとは、流石の彼女も思わないでない。文化祭以前までは、一度も言葉を交わした覚えがないクラスメイトであったのに、僅か数週で随分と機会が増えたものである。


「眠いわよ。すっごく眠いわよ」


 ストレスフルな環境が、自然と彼女の語り草を辛辣なものにした。


「なら眠ればいい」


「それが出来ないから、こ、こんなところに居るのよっ!」


「なにか問題でもあったのか?」


「……そ、それは、その……」


 存外のこと素直に問われて勢いを失う。


 まさか口が裂けても迷子とはいえない委員長だった。少なくとも西野相手には、絶対に言いたくないのが、彼女の女としてのプライドである。そこで仕方なく、彼女は強引に話題を攫うこととした。


「そ、そういう西野君こそ、どうしてこんなところに居るのよ?」


「あぁ、少しばかり寝酒をな」


 どこで調達したのか、片手に酒瓶など掲げて見せる。


「……ふぅん?」


 スーツ男に殴打された顔が腫れて痛むので、これを誤魔化すためのお酒だった。ちなみに左目には眼帯を嵌めている。フランシスカの呼んだ医者からもらったものだ。おかげでお気に入りのサングラスは外されて、少し寂しげなフツメンである。


 そんな彼を委員長はつまらなそうに眺める。


 彼女の脳裏に思い起こされたのは、いつぞや竹内君や松浦さん、ローズと共に訪れたフツメンのアパートでの一件である。同所で玄関の戸口越し、顔を覗かせた二日酔い野郎の姿が思い起こされた。


「その年でアル中って最悪じゃないの」


「以前の一件を指しての話なら、あれはたまたまだ」


「どうだか」


 言葉を交わすも早々、委員長はぷいとそっぽを向いてしまう。


 そんな彼女の振る舞いを眺めて、西野は考えた。


 どうして彼女は一人でエントランスに居るのだろうかと。もしかしたら、居室で何かしら不都合があったのではないのかと。既に夜もふけて久しい。年若い娘が一人で出歩くには、不相応な時間帯である。


 しかしながら、理由はどれだけ考えたところで、一向に見えてこなかった。尚且つ、自分が訪ねても、素直に教えてもらえるとは、夢にも思わない西野である。流石のフツメンも、彼女との距離感に関して思うところがあった。


 だからだろうか、その腕は自ずと動いていた。


 彼はズボンのポケットに手を伸ばす。そこから取り出されたのは、フツメンが新たに押さえたホテルの部屋の鍵であった。つい半刻前、受付に掛け合ってゲットしたばかりの一室。彼の今晩の宿泊先である。更に言えば、同ホテルで唯一残っていた空き部屋。


 それを何気ない調子で、志水に向けて放った。


「委員長」


「えっ!?」


 放られた側は大慌て、両手にこれを掴み取る。


「ちょ、ちょっとっ、なによいきなりっ!」


「面倒に巻き込んでしまった埋め合わせだ」


「う、埋め合わせって……これ部屋の鍵じゃあ……」


 言うが早いか、西野は踵を返した。


 酒瓶を片手にホテルの外へ向かって歩んでゆく。


 委員長が番号を確認すると、鍵には九○一号室との記載がされていた。これまでのやり取りから考えて、西野が新たに取った部屋だとは、彼女も早々に理解がいった。しかし、だとすれば流石の彼女も、素直に受け取る訳にはいかない。


「ちょっと、ま、待ちなさいよっ!」


「……なんだ?」


 今まさに屋外へ出ようとしていたフツメンが振り返る。


「貴方、ど、どこで寝るつもり?」


「しばらく散歩でもしてくる」


「…………」


 何気ない調子で語り、そのままホテルを出て行こうとする。


 その振る舞いには、まるで委員長に構った様子がない。


 だからだろうか、素っ気ない態度が彼女のアレなところに触れた。


「ま、待ちなさいって言ってるでしょっ!?」


 大慌てで彼女は西野の下まで歩み取り、その腕を取った。


「別に西野君が出て行く必要はないじゃないの!」


「その部屋はダブルだ」


「っ……」


 伝えられた事実に少なからず言いよどむ委員長。


 けれど、今晩の彼女は少しばかり調子が変だった。睡眠不足と疲労、更には異国での度重なる迷子から、ちょっとばかり気分がハイになっていた。だからだろうか、普段であれば決して口にしないだろう提案を続けてしまう。


「別にいいわよ! ソファーの一つくらいあるんでしょう?」


「……あると言えばある」


「なら問題ないわ。行くわよっ!」


「…………」


 吠えるように語り、委員長は強引にフツメンを引っ張っていった。




◇ ◆ ◇




 そうして辿り付いた先、彼と彼女は部屋でもまた言い争いを始めた。


「だから、私がソファーで良いって言ってるじゃないの。貴方、鏡くらいみたらどうなの? 酷い顔をしているわよ? 怪我人なんだから、大人しくいうことを聞きなさいよ」


「大したことはない」


「っ……」


 例によって委員長の言うことをまるで聞かない西野。そんな彼の素っ気ない態度が、無性に腹立たしくて、志水は段々とヒートアップしてゆく。やがて、度重なる問答の末、彼女は自ら一歩を踏み出した。


「なら、こうすれば良いのよっ!」


 吠えるように言って、その手が西野の腕を取った。


「おい、なんのつもりっ……」


 そのまま委員長は西野をベッドに押し倒した。


 そして自身もまた、彼の脇に身を横たえる。流石に顔を向き合わせるだけの根性はなくて、自然と相手に背を向ける形となる。ただ、それでも今の彼と彼女の至った状況は、誰がどう見ても同衾である。


「二人くらいなら、ギ、ギリギリ寝られるわよっ!」


「無理だろう? ダブルなんて名ばかりだ」


「いいから寝るわよっ! 私はもう凄く眠いの! はいっ!」


 言って強引に布団を掛けてしまう委員長。


 手狭いベッドで互いに、背中を向き合わせて横になる。


 その上に薄手の掛け布団がふわりと乗った。


「それと、へ、へ、変な事したらっ、大声を上げて叫ぶからね!?」


「……分かった。ありがとう、委員長」


「だ、だから、べべ、べ、別にありがとうなんて要らないのっ!」


 委員長の裏表無い好意を、西野は素直に受け取ることに決めた。


 ここ数日の間で、フツメンにとって一番嬉しい出来事であった。


 安い部屋の埃っぽい布団は、少しだけ青春の匂いがした。

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