卒業旅行

チケット×2

 翌日、西野の目覚めは玄関のインターホンによってなされた。


 ピンポーンと軽やかな音が響く午前十時。


 本来の起床より二時間ほど遅い。


 今日は平日、金曜日である。本来であれば登校日だ。けれど、たまにはズル休みなど良いかもしれないと、昨日の酒が抜けきれない彼は、布団の上で惰眠を貪っていた。慣れない深酒に二日酔いを喰らったようである。


 実はどうやって自宅に帰ってきたのかも覚えていない西野だ。


「……誰だ」


 彼の自宅を知る者は少ない。というより、友人関係の壊滅的な彼だから、ほぼゼロ。ここ最近は通販を利用した覚えもないので、国営放送の支払い催促か、宗教勧誘の類いだろうと考えて、布団の中で無視を決めこむ。


 けれど、どれだけ無視しても音は止まなかった。


 ピンポンピンポン、ピピンピンポンピンポーン。


 しまいにはビートを刻み始める。


「クッ、誰だ……」


 ノソノソと万年床となった煎餅布団から起き出す。


 痛む頭を片手に抑えながら、玄関へと向かい歩む。その表情は二日酔いで苦しむ以上に、自然と厳しいものになる。仮に先程の想定が誤っていた場合、インターホンを鳴らす人物は、彼にとって望まざる相手である可能性が高い。


「……あの売女が良からぬ噂を流したか」


 ここ数日、予期せず関わりを持った相手を思い起こして、苦虫でも噛み潰したように顔を歪める。いっそ事故を装い殺してしまおうか、などと画策してしまうほど、彼にとっては面倒な相手である。


「…………」


 玄関先まで向かい、ドアの覗き穴越しに外の様子を確認だ。


 すると、そこには広角レンズ越し、想定外の人物が立っていた。


「……何故だ」


 玄関正面には人が四人、並び立つ。


 ローズを筆頭として、竹内君と志水、更に松浦さんといった錚々たるメンバーだ。ローズの存在に嫌悪感を示す余裕すらなく、何故に彼ら彼女らが自宅までやって来たのかと、疑問によってフツメンの頭の中は一杯になった。


「西野君? 留守かしら?」


 ドア向こうに西野の気配を感じ取ったローズが、わざとらしく声を上げる。


 これに彼はカチンと来たようだ。


 錠を落として、四名を向かえるようドアノブを押し開いた。


「……朝っぱらからなんの用件だ?」


 ちなみに今の彼は昨晩から変わらず制服姿。風呂はおろか着替えることすら叶わず、帰宅直後、そのまま布団へと倒れ込んで現在に至る。おかげでシャツやズボンはしわくちゃ、髪はボサボサ、酷い有様だ。


「あら、居るじゃない」


「…………」


 呆気カランと語ってみせるローズ。


 その姿に少なからず憤怒を覚えたところで、彼は意識して彼女を視線から外す。これ以上、相手のペースに飲まれてはいけないと、意識を改める。


「朝っぱらから何の用件だ?」


 他三名に向けて尋ねるよう、今一度、同じ文句を重ねて伝える。二日酔いが酷いのか、その表情は仏頂面が常の彼にして、殊更に機嫌が悪そうに映る。松浦さんなど、その姿を一瞥して一歩、竹内君の背に隠れるよう身を引いている。


「随分とお酒臭いのだけれど、昨晩は遅くまで飲んでいたのかしら?」


 しかし、そうした彼の態度にもローズは怯まない。


 なんら動じた様子もなく、彼女は言葉を続けた。


「どこで飲んでいたのか気になるわね。また六本木のバーかしら?」


「……悪いか?」


「いいえ?」


 一昨日にも増して強気なローズである。文化祭の打ち上げという絶好のイベントを、意中の彼と過ごせなかったことに、酷く悲しんでいるようだ。せめて、その足取りだけでも掴むべくの息巻いての事情徴収である。


 もちろんそんなこと、西野には知る余地もない。


 正しく理解するのは、この場において当人の他、志水が唯一である。


「だとしたら、何だと言うんだ?」


 いよいよ相手をするのが面倒になり始めたフツメンである。


 そんなやる気のない彼の態度が勘に障ったのか、もしくは他に何かあるのか、ローズの口上を遮るように竹内くんが口を開いた。


「おいおい、学生の身分でバーに酒飲みか? なかなか洒落てるじゃん」


 ちなみに彼ら四名は、どうやら学校を抜け出してやって来たようだ。


 彼も他三名の女子も、誰一人の例外なく制服姿である。


「……なんだ? 竹内君」


 本来であれば、彼にも先んじて志水が何か文句を言いそうなものだ。しかしながら、ローズの内面を知ってしまった彼女は、本日、大人しく竹内君の傍らに立つ限り。これ以上、足を突っ込んで堪るかといった意志が窺える。


「六本木のバー? そういうことなら次は是非とも、俺のことも誘って欲しいな。落ち着いて酒を飲めるバーなんて、都内であっても数が限られるだろう? 行きつけの店があるなんて、羨ましいじゃん」


 どうやら竹内君は、六本木のバーという単語に反応したようだ。


 イケメン筆頭代表の彼だから、まさかフツメン相手に、お酒トークで負ける訳にはいかない。それが意中の相手の前ともなれば尚のこと。恋敵にリードされたままなど、彼のプライドが許さなかった。なによりローズと共通の話題を持つ彼が羨ましいのだ。


 まさか目の前のフツメンが六本木のバーへ日夜出入りなど、とは彼の心中に生まれた素直な侮りである。どうせ一度か二度、おっかなびっくり足を運んだところで常連気取りなのだろうと、自らに言い聞かせる竹内君である。


「その意見には同意だ竹内君」


「だろう? っていうか、なんていう店なんだ?」


「興味があるのか?」


「俺も男なんでね」


「そういうことなら、あぁ、近いうちに機会を作るとしよう」


「ふぅん? 楽しみにしておくわ」


 ただ、それでも平素と変わらず淡々と受け答えるする西野だから、これに竹内君はやきもきと。数日前、某百貨店でのやり取りを思い起こしては、やりきれない思いが胸を満たす。今度こそは絶対に暴いてみせると、笑顔の下に策を研ぎ澄まして思える。


「ちょ、ちょっと、あの、私たちは別にお酒の話をしに来た訳じゃ……」


 ここへ来て、ようやっと志水が口を開いた。


 今日の委員長はローズの影響下にある為か、どうにもキレがない。


 その拳に西野の乳歯を二本奪った威勢は、既に過去のものだ。


「ええ、そうね」


 話題を再び奪うよう、彼女の呟きにローズが続けた。


 どうやら西野が自分以外の女と話をするのが気にくわないようである。


「以前に彼が企画していた旅行の件で、貴方に話があるの」


「……旅行?」


「忘れてしまったのかしら? 文化祭の週にと約束していた筈よ?」


「…………」


 問われてしばし、二日酔いで痛む頭に悩んだところで思い出す。数日前、渋谷のイタリアンレストランで企画された催しだった。その時は場の流れに任せて頷いたものの、しかし、まさか本当に持ってくるかとは、流石の彼も驚いた様子だった。


「……俺もなのか?」


「私の記憶が正しければ、あの時の貴方は頷いたと思うのだけれど」


「まあ、な」


 だからと言って、当時と今とでは状況が大きく異なる。


「んで、行くの? 行かないの? っていうか、チケットはもう取ったんだけど」


 少なからず鬱憤を湛えながら、竹内君が尋ねた。


「……いつなんだ?」


「連絡が急で悪いけど、明日さ。十時ちょうどのフライドだよ」


「よくチケットが取れたな」


「学ぶときも遊ぶときも、いつだって真剣に打ち込むのが信条なんでね」


「なるほど」


「西野に伝えるのが遅くなったのは悪かったわ」


 当然、わざと遅く伝えた次第だ。これで彼が無理だと言えば、竹内君としては嬉しい限りである。晴れてハーレムの完成。男が自分一人である言い訳も十分。そうした背景も手伝い、フッと自慢のロン毛を掻き上げて、意気揚々と語ってみせる。


 トレードマークの丸めがねが、そのフレームに陽光を弾いてはキラリと輝いた。


 すぐ隣ではこれを目の当たりとした松浦さんが、ジワリと股を愛液に湿らせる。曰わく、竹内君ってば、今日も最高にカッコイイよぉ。ヤクザの一件を境として、彼女は彼にメロメロだった。ゾッコンである。


 ただ、そうした相手の事情などつゆ知らず、西野は相変わらずのマイペースに語る。


「いや、気にするな。俺は割と融通が利く」


「そ、そうか」


 堂々たる上から目線で、両手放しに受け入れてみせた。


「しかし、立派なものだな。流石は竹内君だ」


「……んで、どうするんだ?」


 少なからずカチンとしながらも、他者の手前、竹内君は催促する。


「あぁ、ありがたくご厚意に与らせて貰う」


「分かった」


 チッと心の内で舌打ちを一つ、無念のイケメンである。フライト前日に海外旅行に誘われて、よく二つ返事で承諾できるな、とは感心も一入だ。


 西野が頷くに応じて、彼は懐から小さめの封筒を取り出す。表には航空会社の銘が打たれている点から、そこに航空券が収まっていることは間違いないだろう。


「ほら」


「費用は後で返す」


「べつに要らねぇよ」


「良いのか? 俺は男だが」


「そういうところで差別すると、教室で俺が叩かれるだろ?」


「……そうか。ありがとう」


「うるせーよ。んじゃ、確かに渡したからな」


「ああ、確かに受け取った」


 手渡された封筒を眺めて、柄にもなく胸をジンワリと暖かくするフツメンだった。思えば、自宅を学友に尋ねられたことが初めてなら、こうしてプレゼントを受けたことも初めて。何もかもが初めての経験だ。


 実際問題、嬉しくて堪らない西野五郷、十六歳。だからだろうか、照れ隠し、シニカルを気取る彼の口からは、今に感じる暖かな気持ちとは正反対、つっけんどんな軽口など溢れてしまう。


「ところで、学校は良かったのか?」


「はぁ? なに言ってんの。そっちが休むから、こうしてわざわざ体育の授業をサボってまで連絡に来たんじゃん? そこんところは少しくらい感謝して貰いたいな」


 当然、西野の適当ぶりに怒り始める竹内君。


 呟いた当人も、これは口としてから自己嫌悪だろう。


「あぁ、そうだったのか……」


「そうなんだよ」


「であれば、悪いことをした。謝罪したい。この通りだ」


 頭を下げて謝罪する西野。


 どうやら本当に悪かったと思っているようだ。


「……まあ、いいわ。んじゃあ、そういうことで進めるから」


「ああ、ありがとう。助かるよ竹内君」


「ったく、そう思うなら酒臭い息を吐くなってーの」


「分かっている。以後は注意する」


「……んじゃ、学校に戻るか」


 何故にこの四人が西野宅へやって来たのか。


 手元の封筒を眺めて、ようやっとフツメンも気付いた。本日一時限目に設けられた体育の授業、竹内君がローズに旅行の話題を振り、その口からフツメンの自宅住所が洩れたところで、これに志水と松浦さんが自発的に連なったのだろう。


 一点、彼の推測に誤りがあるとすれば、委員長は決して自発的などではなく、ローズに脅されての強制連行である。故に表情は終始優れない。


「んじゃな」


「ああ、それじゃあ」


 竹内君が踵を返す。


 西野は玄関の向こう側へ引っ込むべくドアノブを引く。


 これに待ったを掛けるのが、ローズだ。


「西野君は登校しないのかしら?」


「…………」


 竹内君も、松浦さんも、志水委員長すらも尋ねなかった点に、容赦なく立ち入り問い掛けて見せる姿は、ひとえに彼を思う執念が所以。他三名的には、ちょっとアンタ、なにそれ言っちゃってるの。


「……午後から出る」


「調子が悪いのかしら?」


「…………」


「ローズちゃん、俺らと一緒に帰らないの?」


 竹内君からは当然の疑問。


 これに食い下がる。食い下がる金髪ロリータ。


 彼女は他三名に向けて言う。


「申し訳ないわね。悪いけれど先に戻っていてもらえるかしら?」


 自身もまた二時間目、三時間目と授業の連なる身の上。それでも憮然と語ってみせる態度は、彼女が学内に振舞う姿として甚く自然なもの。自分がこの場に残るのは当然だと言わんばかりの振る舞いだった。


 だからこそ、そんな彼女を目の当たりとして竹内君が慌てる。


「え? あの、ローズちゃん?」


「彼、体調が悪いようだから」


「いや、そ、そりゃ二日酔いなんじゃ……」


 竹内君が全面的に正しい西野の自業自得。


 伊達に昨晩は三時過ぎまで飲んでいない。帰宅時はマーキスが直々に車を運転して送迎してくれたのだった。下手に放り出しては何が起こるか分からないと、心配に心配を重ねられた結果である。


 けれど、そんな二日酔い野郎にローズは慈愛の心を見せる。


「そういう訳だから、失礼するわね」


 本来であれば家主が断っただろう。


 しかし、他に竹内君や志水、松浦さんといった観衆の注目を味方に付けて、ローズはしめしめと西野宅への侵入を試みる。彼女は彼を促すと同時に、自ら率先して玄関へと向かい、靴を脱ぎ始めた。


「お、おいっ……」


 これには流石の西野も慌てる。


 何故にお前がとばかり。


 けれど、クラスメイトから注目を受けている都合、強くも出られない。暴力にモノを言わせて無理矢理にでも追い返すことは可能だ。しかし、それを行っては以後、彼は自らの目的を達する為に、転校を余儀なくされるだろう。


 それだけは避けたいフツメンだ。


 勝負を挑み負けたならまだしも、それでは不戦敗も良いところ。


「志水さんたちは帰っていて大丈夫よ? 私は彼を介抱するわ」


「お、おいっ」


 言うが早いか、ローズは西野の腕を取ると、共にアパートの内側へ。


 そして、パタン、玄関が閉じられたのなら、これを追いすがる者は居ない。まさか、西野宅のドアを自ら開けてまで、彼と彼女の行方を確認するだけの大義名分を持つ人物は、その場にいなかった。


 ローズに恋する竹内君であっても、流石にこれを破ることは難しい。伊達に日々をシーンの定義とその適用に生きていない。今この場で一歩を踏み出しては、当面に渡って期待するハーレムの瓦解を意味する。それも確証のない恋人を夢見て。


 結果、竹内君たちは二人を見送った。


 一方で玄関扉の向こう側。


 意中の相手の自宅に侵入したローズは、今まさに下着を湿らせ始める。愛しの彼の居室に立つ。その事実は嘗て無い興奮を彼女に与えていた。抑圧と制限の只中に生まれ育った彼女が、初めて経験する鼓動の高鳴り。


 手狭い単身者向けアパートの一室。


 敷地面積19.7平方メートル。


 これを満面の笑みで見つめて、ローズ・レープマンは語る。


「おかゆなら食べられるかしら?」


 玄関扉の先、西野宅を後とするクラスメイト一同。


 その気配を確認して、西野は不機嫌を隠すことなく応える。


「……アンタは自殺願望でもあるのか?」


「あら、今の貴方がこの場で私を殺せるのかしら?」


「…………」


 真正面から挑む金髪ロリータ。


 西野はこれに抗う術がない。


「二日酔いなのでしょう? キッチンを借りるわね」


「おい、なんの……」


「すぐに作るわ。ご飯はパックの用意があるから」


「…………」


 何故にそこまで用意が良いのだ、とは喉元まで出かかった疑問だ。ただ、それを口としては不快な台詞を吐かれそうだと、西野は続く台詞を飲み込む。


 その隙を突いた形で、ローズは台所に向かった。


 手にした鞄から取り出されたのは、何故だろう、近所のスーパーの銘が打たれた白いビニール袋。内に収まっていたのはタッパに収まる塩鮭やら、大葉やら、凡そ現役女子高生が学校指定の鞄へ携帯するには相応しくない生鮮食品。


「何のつもりだ?」


 少しばかり冷静さを取り戻して、西野が尋ねる。


「交流のある学友の為に食事を作るのは、その理由を尋ねられるほど異常かしら?」


 トントントン、いつの間にやら包丁を片手にまな板へ向かうローズ。語り掛けられて振り向いた姿は、それが当然だと言わんばかりの振る舞いだ。


「ああ、異常だな。少なくとも俺はそんな経験はない」


「それは貴方の日常に華がなかったからではなくて?」


「っ……」


 当人が一番に気にしているところを突かれて、咄嗟に続く言葉が出てこないフツメンは、年齢イコール彼女いない歴。自室で異性が料理を作り始めるなど、過去に経験したことのない出来事である。


 一方でローズはと言えば、随分と熟れた調子でトークを継続。


「学校での成績も良くないと聞いたわ。不要な欠席は減らしたいのではなくて?」


「卒業後は就職する予定だ。勝手に人の将来を気に掛けるな」


「本当にそれで良いのかしら?」


「……どういう意味だ?」


「今後、貴方の惚れる相手が、大学への進学を考えていたどうかしら? これを聞いた将来の貴方が、意中の相手と同じ大学でキャンパスライフを送りたいと思うのは、自然な流れだと思うのだけれど」


「っ……」


「ただでさえ大学生活というものは、性的に乱れるものよ? まさか、彼女が浮気をしないなどと、安直なことを考えてはいないわよね? サークルの飲み会に送り出した彼女が同じサークルの先輩に、なんてよく聞く話じゃないの」


「そ、それはっ……」


 目から鱗、とまではいかずとも、鼻から鼻クソがポロリこぼれ落ちる程度には、西野にとって非の打ち所のない突っ込みだった。確かにその通り。現時点においても、その可能性は非常に高いと言えた。


 一方でローズはと言えば、異性交遊に疎い想い人を理解して、心の内に悦びを湛える。曰わく、なんて純粋なのかしら。カッコ良くて、優しくて、どこまでも誠実で。こんな素敵な男性は地球上に貴方だけ。セックス。セックスしたいわ。みたいな。


 ただ、そうした彼女の思惑が、表情に出ることは決してない。


「将来の可能性を下らない意固地から捨てるのは、とても勿体ない判断だとは思わないかしら? もしも私が同じ状況にあったのなら、いつ如何なる状況であっても対応できるよう備えるわね。決して怠るよな真似はしないわ」


 包丁をトントンとやりながら言葉を続ける。


 それは当の彼女もまた、自身に言い聞かせるように。


 だからこそローズは、自らの命を賭けてまで、この場に立っている。


「……確かに、アンタの言うことは一理ある」


「でしょう?」


 結果、まんまと論点をすり替えられたフツメンだった。


 彼に足りていないのは、どんな時でも圧倒的な対人能力。


 コミュニケーション能力。


「なら今はその屈辱を噛み締めて、大人しくおかゆを食べなさい?」


「…………」


 二日酔いに痛む頭を片手に抑えながら、西野は考える。


 確かに相手の言うことは正しいようだと。自らの自分勝手な意志よって物事を進めることが、如何に虚しいものであるか。それを彼は数日前、確かな経験と共に理解していた。だからこそ、冷静になることができた。


 そして、頷かざるを得なかった。


「……妙なものを混ぜたら、殺す」


「ま、混ぜないわよっ」


 どこまで自分は信用されていないのかと、ローズは自身の不憫を嘆く。しかしながら一方で彼女は、渋々であっても受け入れられた自身の提案に、ひっそりと、その口元を悦びから歪めていた。


 何故ならば、台所で振舞う彼女の一挙一度は、今し方のやり取りを完全に否定するものである。同日、西野はその事実に気付くことなく、事前に彼女の肉体より採取された大量の膣分泌液の混じる湯によって茹でられた、おじやを完食する羽目となった。


 程良い酸味が童貞の胃を満たした。




◇ ◆ ◇




 同日、西野は正午を過ぎた辺りで家を出た。


 先に行っていてくれという彼の訴えもやむなく、金髪ロリータ同伴での登校だ。正門を抜けた辺りで、耳に届くのは昼休みの始まりを知らせるチャイム。キンコンカンコンと聞き慣れた音を耳としながら、正門を抜けて昇降口へ。


 外履から上履きに履き替えて、教室に向かい階段を登りの廊下を歩む。


 西野宅を発って以後、両者の間に会話は皆無だった。正確にはあれこれ話しかけるローズに対して、西野が無視を貫く形での片道二十数分。既に修復不可能なまでに、金髪ロリータに対する西野の信用は落ちているようだった。


「それじゃあ、私はこちらだから」


 二年B組の教室前で歩みを止めたローズが言う。


「言われずとも理解している」


「あら、やっと応えてくれたわ」


「…………」


 ニコリと良い笑みを浮かべるローズ。これを無視して西野は、隣りに並ぶ二年A組の教室へ、その場から逃げ出すように移った。


 室内では当然のこと、クラスメイトが昼食の最中にある。穏やかな昼の光景。それが彼の入室と共に、ピシリと少なからず音を立てて歪む。


 振る舞いの素直なカースト中位以下、幾名かの視線がチラリチラリと、竹内君や志水など、カースト上位の生徒に向かった。文化祭行事で男女間の距離が縮まったのだろう。志水の席周辺に集まり、仲良く弁当を広げている面々だ。


「…………」


 西野の席はその二つ左隣である。男女七名が集まれば、ほぼ接していると称しても過言ではない距離感。事実、一つ隣の席は竹内君に占拠されている。席の本来の持ち主は、学食にでも行ったようで、教室に姿は見当たらない。


 教室の雰囲気が変化した理由は、その延長にある。


 クラスメイトの誰もが危惧する問題は、更に西野の席の椅子までもが、同集団に利用されている点だった。腰を落ち着けるのは志水に惚れて早数ヶ月、イケメングループの現行ナンバーツー、鈴木君である。


 机こそそのままではあるが、椅子は志水の机の側まで移動していた。


「…………」


「なに? なんか用かよ?」


 挑むように尋ねる鈴木君。


 自席まで辿り着いた彼を、椅子に腰掛けたまま見上げる形だ。どうやら鈴木君には席を譲る意志がないようだ。まるでこれは自分の席だと言わんばかりの態度で、自らを眺める西野へと訴えた。


 伊達に意中の相手をすぐ近くに置いていない。まさか、ここで席を素直に明け渡しては、彼のカースト上位としての沽券に関わる。これを恥ずかしいと感じる鈴木君の精神は、何が何でも椅子を死守する覚悟だった。


 だからだろうか、そんな意志は西野へ確かに伝わった。何故ならばフツメンは、そのような眼差しを過去に幾度となく向けられてきている。大半は虚勢を張った甲斐もなく、惨めにも朽ちていった。だが、鈴木君はその限りでない。


 何故ならばクラスメイトだからだ。


「……いいや、好きにするといい」


 カースト最底辺は椅子の確保を断念。無駄に面倒を起こすこともあるまいと、他に居場所を探すことに決めた。仮に椅子を確保したところで、誰も得をしないとは如何にコミュ障な彼であっても理解できた。


 机の上に鞄を置いて、その足に教室を後とする。


 フツメンの姿が廊下に消えて見えなくなれば、室内ではその振る舞いを巡り、早速に問答が始まる。話題を持ち上げたのは当の鈴木君である。少しばかり語調を強くして、幾らばかりか具合の悪くなった場を取繕うように言う。


「っていうか、竹内さ、アイツの家ってどうだったんだ?」


「は? なんでだよ」


「体育の授業中に抜け出して行ったって聞いたぞ? 志水も一緒に」


「あぁ、そういうこと」


「どうなんだよ?」


「なんつかー、アイツ、一人暮らしなんだな。ちょっと意外だったわ」


「え? マジで?」


「普通にボロいアパートだった」


「へぇ……」


 昨今、彼らの話題に挙がること度々のフツメンである。




◇ ◆ ◇




 ところ変わってこちらは教室内に居場所を失った西野である。


 残すところ一時間弱の昼休みを如何に過ごすべくか、向かう先に悩んだ彼は、結局、屋上へ向かうことにした。彼らの教室があるB棟の屋上だ。ここ最近、訪れる機会の増えた同所だろうか。例によって階段室の上に登り、そこに身を横たえる。


 本日は日柄もよろしく、食後とあっては最高の昼寝日和。


「……良い天気だ」


 横になったのも束の間、数分と経たぬ間にうつらうつらし始める。


 ただ、眠気もいよいよといったところで、誰かの声に遮られた。


「アンタ、最近ちょっと生意気じゃない?」


「ぇ……」


 声はすぐ近くから聞こえてきた。


 その声色が多分に怒気を孕んだものであった為か、自然と西野の意識は微睡みから拾い上げられた。一瞬、自身が叱られたのかもしれない、とも考えた。しかし、続く問答が自分の言葉を挟むことなく続けられたことから、第三者の存在を理解する。


「わ、私は別に……」


 身を起こして階段室の縁から下を眺めれば、見知った相手が数名ばかり窺えた。全員が彼と同じクラスの女子生徒だった。階段室の壁を背後において狼狽える一名を、他の数名がぐるりと囲む形だ。


 そして、その狼狽える一名というのが、どうしたことか、松浦さんである。


「まるで竹内君を自分の彼女みたいに、ねぇ? 何様のつもり?」「大人しくしてれば、何だって許されると思ってるわけ?」「コイツ、マジでムカつくんだけど」「私も? ちょっとキレそう?っていうか半分キレてる? みたいな?」


 カースト中位から上位の女子生徒が、松浦さんを囲んでの品評会だった。


 議題はシンプル。ここ最近、竹内君に馴れ馴れしいこの女をどうしてくれようか。司会進行は西野も僅かながら言葉を交わしたことのある女子生徒である。先々週の日曜日、志水や竹内君、ローズと共にイタリアンレストランを共とした少女だ。


「っていうか、私もリサちゃんと一緒に旅行行きたかったなぁ」「そうそう、私もめっちゃ行きたかったんだよねぇ」「一生の想い出に残るじゃん? きっと同窓会のネタにもなるんだろうなぁ?」「あ、それ間違いないよ、マジでネタになるってば」


 どうやら名前をリサと言うらしい。


 彼女は津沼高校において、ローズの次に可愛らしく、ローズの次に美しく、ローズの次に彼女にしたいと評判だ。女として誇るべき点を全てをローズに掻っ攫われた都合、ここ数ヶ月で学内での影響力を落としつつある愁いのナンバーツー美少女である。


「だよねぇ、私も皆と一緒に行きたかったよぉ?」


 彼女を囲うのは、是が非でも竹内君と一緒に旅行へ行きたかった、同じ仲良しグループの仲間たちである。曰わく、ズッ友だよ。けれど、まさか全員は行けない抽選制度。話題の中心に立つリサちゃんであっても、周囲に気を遣いながらの受け答え。


 対して、これに反論など試みるのが松浦さん。


「で、でも、あの、志水さんも……」


 辛うじて残る勇気を振り絞り、反感を余所へ流すべくボソボソと。


 これで彼女はプライドの高い女だ。伊達に毎晩、風呂上がりに姿見を覗いていない。自身の顔面偏差値及び全身の肉付きを確認の上、それがクラスの綺麗どころと比較しても劣っていないことを、連日に渡り確認している。


 その事実は同時に、カースト下位に甘んじる彼女の心の拠り所だ。


 ただ、今回はそれが良くなかった。


「はぁ? アンタと志水を一緒にしてんじゃねぇーよ」「そうだよ。っていうか、この子ってばマジでなに生意気言っちゃってんの?」「救いようのない性格ブスだよな。マジで腹の中真っ黒なんですけど」「本当、有り得なくない?」


 リサちゃん一派が猛攻を仕掛ける。


「えっ、あの、で、でもっ……」


 これに皆々を代表して応えるのが派閥の中心にして代表、リサちゃんだ。


「アンタ、自分が委員長とタメ張れると思ってるの? 志水くらい頑張ってる子なら、私たちだって我慢できるよ? それくらいのご褒美だって、あっても当然じゃない? でも、アンタみたいな他人に貢献できない自分にばかり甘いヤツが、棚ぼた的に運だけで美味しいところだけ持ってくとか、やっぱり許せないじゃん?」


 割と尤もだったりするリサちゃんの主張。


「西野の一件がなけりゃ、アンタ、竹内君の隣には立てなかったよ?」


 しかも割と良く周りを見ているリサちゃん。


 リサちゃん凄い。


 伊達に派閥でリーダーしていない。


 そうだそうだと他のメンバーが続く。


「っていうか、この子が行かなかったら、チケット一つ余るんじゃない?」「あ、たしかに」「そうだね」「それなら、この子の分を私らで貰っても良くない?」「むしろそれ以外に考えられないんですけど」


 リサちゃん監修の下、松浦さんを前としてはしゃぐ女子生徒一同。


 会話は早々に盛り上がりを見せる。


 そんな中、不意に取り巻きの一人、その中でも目立たない子が呟いた。


「もしも不注意で怪我とかしちゃったら、旅行、行けなくなるよね?」


 俯きがちな眼差しでボソボソと呟く様子は、どこか陰りを感じさせる。しかしながら、人懐っこい顔立ちやツインテールに結われた髪、更には小柄で控えめな体型を備えた外観からは、それでも愛らしさが先行する。


「あ、たしかに?」「ちょっとちょっと、ミカってば黒過ぎなんですけど」「えー? でもそうだよね?」「まぁ、私は否定しないけどね」「あ、私も否定はしてないよ、否定は」「だよねぇ、捨てるのは勿体ないものねぇ」


 待ってましたと言わんばかり、彼女たちは口々に意見を取り交わし始める。女三人寄れば何とやらを地で行く面々だった。


 囲まれた松浦さんはと言えば、恐怖から顔は真っ青だ。


 これまでの彼女は、カースト下位に自らを置くことで、自身を頂点とする派閥を作り、そこに君臨していた。学内カーストにおいて絶対値こそ低位ながら、派閥内では圧倒的な最高位であるから、当人にとっては非常に居心地の良い毎日であった。


 故に初めて体験するカースト中上位からの詰問は、当人が想定した以上にアグレッシブなものだった。


 これまでの人生、上位カーストから延々と逃げてきた手前、その交流に免疫を持たない松浦さんである。おかげで早々に狼狽える羽目となる。更に言えば、まさか危害を加えられるまでとは、完全に想定外であったよう。


「っていうか、もうやっちゃって良くない?」「でも、どうやるの? 竹内君にバレたりしたら嫌なんだけど」「だよね、竹内君ってそういうところ凄く厳しいし」「あ、でも、そういうところもカッコイイんだよね」「うんうん、そうなんだよねぇ」


 さてどうしたものか、あれやこれやと悩み始めるリサちゃん一派。


 これに応えたのは派閥代表のリサちゃん当人である。


「私、先輩に教えて貰ったことがあるんだけど、そういう時は足の爪を剥ぐのが良いんだって。当分は動けなくなるし、痛みがジクジクと長引くから、学校に来る気も失せるらしいよ。表立って目立つこともないし、ちょっと足ぶつけたって言い訳も通るし」


「うっわ、マジでえげつないんですけど」「でもそれくらいやらないと、旅行へは行けちゃうよねぇ?」「でもちょっと、その先輩ってば激しすぎない?」「そうかな? 私はやってみたいかも。コイツ、マジでムカつくし」「そうだねぇ」


「ちなみにその先輩って、今の副生徒会長なんだけどね」


「嘘、それマジなの?」「え? あの優等生の!?」「っていうか、お嬢系じゃなかったけ? 黒髪でサラサラの」「男子にも人気あったような気がするんだけど」「うわぁ、なんか聞いちゃイケないこと聞いちゃったかも」


「半分は偶然みたいなものだって言ってたけど、あの先輩もかなり暗いところあるから、本当のところはちょっと分からないんだよね。なんでも彼氏を寝取られたんだってさ。あ、これ私たちだけのオフレコね?」


「え? それってもしかして生徒会長の!?」「たしか生徒会長って、今は書記の子と付き合ってるんだよね? 前に話題になってたし」「うっそっ!? あれって副会長の方から振ったって聞いたんですけどっ!」「でも、それなら納得かも……」


 予期せず恋バナに得て、あれやこれや、途端に盛り上がりを見せるリサちゃん一派。リサちゃん一派は他人の恋バナが大好きだ。ただ、延々とそうしている訳にもいかない。一頻りを騒いだところで、面々の意識は再び松浦さんに戻って来た。


「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してね?」


 皆々を代表するよう、リサちゃんが松浦さんに語り掛ける。声の調子は普段、教室で友達に話し掛ける際と何ら変わらない。至って平静。ただ、視線が向かう先は顔と、足と、顔と、足と。交互に。


 更に続けて、彼女は松浦さんに向かい一歩を踏み出す。


 迫られた側は大慌てとなり、今にも泣き出しそうな表情で謝罪を始めた。


「や、やめてっ、ごめん、ごめんなさいっ……」


「すぐに済むから、ほら、力むとかえって痛いっていうし」


 これを他の面々は楽しそうにニヤニヤと眺める。


 とても楽しそうである。


「旅行、こ、断りますっ、断りますからっ、ゆ、ゆるして下さいっ」


「そんな口約束なんて今更じゃない? 前にも注意したよね?」


「今度はっ、こ、こ、今度はちゃんと守りますからっ! お願いしますっ!」


「私、約束を破った子の言うことは聞かないようにしているの」


 リサちゃんからの語り掛けは容赦がない。


 松浦さんはまるで死刑宣告を受けた囚人のように、恐怖からガタガタと膝を震わせ始めた。伊達に一度、同じような忠告を受けて、これを飄々と破っていない。まさか同級生を相手にここまでやるとは思わなかったようである。


 というより、事実、松浦さんはリサちゃん一派を侮っていた。


 それどころか自らを傲っていた。


 何か大変なことが起こっても、きっと竹内君が守ってくれる筈だもん。最近、彼ってば凄く優しいから、もしかしたら、私と付き合いたいんじゃないの? などといった自分に都合の良い妄想が、毎夜毎晩、ベッドの中でグルグルと。オナニーも捗る。


 しかし、現実は非情なものだ。当の竹内君は西野に対する当てつけとして、松浦さんとの接点を増やしたに過ぎない。実際、彼女が彼に向けて昨晩に送ったメールの返事が、今日の時点で未だに帰ってきていない。どうやらサービス期間終了のお知らせ。


 今まさに与えられるのは、足の爪の危機。


 リサちゃんの視線が向かう先からして、恐らく左の親指。


 涙すら眦に浮かべて、必至に訴える松浦さん。


 けれど苛める側は、まるで聞く耳を持たない。


「ほら、逃げるんじゃねーよ」


「い、いやぁっ!」


 リサちゃんの手が伸びて、松浦さんの腕を掴む。


 このまま押し倒して、馬乗りになって、幾らか懲らしめてやろうというのが、リサちゃん一派の考えるシナリオだった。他の面々も、リサちゃんが本当に相手の生爪を剥がすとは思っていない。


 その辺りは事前に打ち合わせをした上での段取りだった。松浦さんに対するこの警告は、クラスのカースト中上位に位置する女子の総意である。そうでもしないと、クラスの女子の結束が崩れてしまうからだ。


 誰だってイケメン男子を独り占めしたいのだ。


 松浦さんの友人数名に対しては、本日の昼休みは彼女と一緒に行動しないよう、カースト上位から忠告が為されていた。


 忠告を受けた側もまた、最近の松浦さん、ちょっと調子に乗っているよね、とかなんとか感じていたくらいだから、女子生徒の裏側とは往々にしてそのようなものである。松浦さんの自業自得といえば誰もが納得する。


 少なくとも女子は。


 ただ、場の流れを読めないヤツとは、どこにでも居るものだ。


「…………」


 西野である。


 性質の悪いことに、彼は一連のやり取りを眺めて、本気で頭を悩ませていた。同じクラスの生徒が、更に言えば好みの外見をした女の子が、同じクラスの女子から虐げられる姿は、非常にショッキングな光景であったようだ。


 スゥと小さく息を吸い込んで、腹に根性を入れる。


 ここ最近、ローズに負け越しているものだから、今回ばかりは失敗できないぞとばかり、意識を改めて、おもむろに一声。


「そういうやり方は、あまり感心できないな?」


 フツメンの普通ボイス。フツボが飛び出した。


 声が響くに応じて、ビクリと皆々の身体が震える。


 予期せず聞こえた男子の気配に驚いたようだ。


「えっ!? だ、誰っ!?」


 最初にフツメンの存在に気付いたのはリサちゃんだった。声の出処を追いかけて頭上を見上げると、給水塔の上、彼女たちを見下ろすように立つ西野を発見した。


「ぇ、な、なんで西野が……」


 他の女子生徒たちも、彼の姿を確認してびっくりである。まるで墓場に幽霊でも目撃したように身体を強ばらせていた。多少なりとも悪事を働いているという意識はあったようだ。他者の視線を受けて罪悪感が膨れたようである。


「争いの全てを否定するつもりはない。喧嘩も然り」


 彼は中空へ一歩を踏み出し、給水塔から屋上の床上へと降り立つ。


 四メートルほどの高さを一息に飛び降りた形だ。およそ校舎二階からの落下に等しい。本来であれば、少なからず足や腰に負担が掛かりそうなものだ。しかし、彼はトンと軽い音一つに楽々と、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま行ってみせた。


 本人曰く、最高にシニカル決めた予感。


 そして続けざまに、説教じみな文句を淡々と口にする。


「しかし、同じ教室で勉学を共にする相手に対して、数にモノを言わせて一方的に、というのは穏やかでないな。同じ目標を競い合うというのであれば、己が力でこれを得てこそ、初めて充足を得られるとは思わないか?」


「ちょ、なんで西野が屋上に居るんだよっ!?」「それは、ほら、あれじゃない? 教室に居場所がなくなって逃げてきたとか」「マジっ!? それウケるんですけどっ!」「っていうか、他人の心配している余裕があるの?」「だよねぇ」


 ただ、混乱は僅かな間の出来事だった。


 相手がカースト底辺と理解して、途端に調子を取り戻す女子生徒一同。学内において、カーストとは最も上等な規律である。彼女たちにとっての西野とは、取るに足らないフツメン以外の何モノでもない。


「確かに俺は教室で居場所を失い、この場にやって来た訳だが……」


 律儀に応える西野も西野だ。


 とは言え、ここで意志を揺るがすほど、彼の精神は脆くない。


「だったら余所に行けば?」


「先に居たのは俺だ。こちらの存在が不都合なら、そちらが動けばいい」


 リサちゃんからの問い掛けに、彼は淡々と答えた。


 それが聞く者の神経を逆撫でる。


「はぁ? なにそれ? マジでムカつくんだけどぉ?」


 某委員長に負けず劣らず、元気一杯なリサちゃんだ。


 早々に逆ギレしてて、口調が乱暴なものとなる。


「っていうか、西野、よく見ると歯とか抜けてない?」「あ、ほんとだっ!」「しかも二本も抜けてるじゃん! 上と下で」「もしかして、差し歯を作る金がないとか?」「うっわ、最低! マジで引くんですけどぉ」「歯抜けとかホームレスみたいじゃん」


 一同、伊達に学園カーストで中上位に位置していない。


 相手の弱みを探し出し、的確に貫くスキルに優れている。


 しかしながら、この程度では西野のメンタルにダメージは与えられない。


「……そういえば、確かに」


 それどころか、どうやら自身もまた忘れていたようだ。舌ベラを口の中でモゴモゴとやって、つい先日、抜けてしまった上の第一臼歯と下の第一臼歯を確認する。どちらも乳歯であったので、それほど心配していなかった彼だ。


「近いうちに、歯医者に見せておくか……」


 予期せず放課後の予定が決定だ。


 ここ最近になって、歯並びなど気にし始めた彼である。


 ただ、ここで問題が一つ。


 西野は過去に歯医者の世話となったことがなかった。虫歯がなくとも、一般の家庭であれば、歯並びや衛生状況の確認の為、幼少より定期的な歯科検診は学内、学外を隔てず行われるものである。


 しかしながら、家庭環境に色々と問題があった為、学校での検診を除いて、歯医者というものに一度として掛かったことがないのが、西野という少年だった。


 外科であれば実家を出て以後、幾度となく入院経験もある彼だ。だが、歯だけは皆無である。当然、掛かり付けの医者もない。おかげで歯並びなど最悪。口臭を防ぐため、ベラ掻きと糸ようじによるお手入れは毎日欠かせない。


 ではどうするか。


 西野は考える。考える。


 幾らばかりか考えたところで、彼の意識は正面に並ぶ女子一同に向かった。


「この辺りで腕の良い歯医者を知っていたら教えて貰えないか?」


「はぁ? いきなり何言ってくれちゃってるの?」


 当然、リサちゃんがキレた。


「実は歯科に掛かった経験がないんだ」


「そんな情報は知りたくないからっ!」


 クラスメイトの西野というフツメンは歯医者に掛かったことがない。


 リサちゃんの長期記憶に無駄な知識が蓄積した。


「都内の歯医者は当たり外れが激しいと聞く」


「だからって私に聞くんじゃねぇよっ! 馬鹿にしてるの? ねぇ!?」


「まさか? 永久歯は大切なものだ。きちんと管理していきたいと思う」


「っ……」


 素面に語るとおり、割と真面目な相談だった。


 過去に歯科へ掛かった経験がないからこそ慎重になる。歯科矯正を受けるにしても、病院によって仕上がりがまるで異なることは、メディアの報道から彼もまた知っている。だからこそ良い医者に見てもらいたいと考えた西野である。


 だからだろうか。そんな彼の思いが通じたのだろう。


 リサちゃんの周りから声が上がった。


「そういえば、リサのお父さんって歯医者じゃなかったっけ?」「だよね? 私も前にそんなこと聞いたような気がする」「え? マジで? 凄いじゃん!」「本当にっ!?」「じ、実は私も虫歯があってぇ……」「開業医ってヤツ!? もしかしてお金持ちじゃん!?」


 一人が話を振るに応じて、周りが一斉に食いついてきた。


 瞬く間にリサちゃんのプライベートな情報が流出する。


「ちょ、ちょっと、なんで今そんな話題とかっ!」


 そして、それは西野もまた例外ではない。


 関心した様子でリサちゃんを見つめては、なにやら頷いてみせる。


「なるほど」


「っていうか、西野も勝手に納得しないで欲しいんだけどっ!」


「君のパパさん、腕の方は確かなのか?」


 職業柄、自然と口を突いて出たのは確認の言葉。


 すると彼女は、これに存外のこと激しく応じて見せた。


「ちょっと西野、私に喧嘩売ってるの? うちのパパを舐めないで貰える? 見た目はキモいけど、区の情報誌で記事になるくらい凄腕なんだから!」


「そうなのか?」


「そうなの! 注射やドリルは全然痛くないし! 銀歯だって一度付けたら全く外れないし! わ、私だって将来はパパみたいな歯医者になるってっ……」


「ほぅ、それは大したものだ」


「っ……」


 ムキになって語ったところで、ふと冷静になり赤面する。


 どうやらパパッ子のようだ。


 取り巻きの面々もまた、少なからず驚いて言葉少なに眺めている。


「そういうことなら、近いうちに予約を取らせてもらうとしよう」


「は、はぁっ!? ふざけんなよっ! どうして西野がっ!」


「近藤歯科、或いは近藤クリニック、といったところか?」


 近藤とはリサちゃんの苗字である。


「な、なんで知ってるのっ!?」


「クラスメイトの名前くらい覚えているさ」


「私、西野とは碌に話とかしたことないんですけど!」


「交流の有無は関係無い」


「うわっ、めっちゃキモっ!」


 このフツメン、クラスメイトとの交友こそ壊滅的でありながら、何故かその名前だけは完璧に覚えている。それは男子女子を隔てず、また、苗字に限らず下の名前までも漢字表記までしっかりと。冷静に考えてみると、確かにキモい。


「可能なら、本日の午後六時からで予約したいんだが……」


「人の話を聞けよっ! っていうか、私を窓口にするなっ!」


「駄目なのか?」


「駄目に決まってるじゃないっ! ちゃんと電話しろっ!」


 話のペースは完全に西野のものだった。


 円満な交流という条件が撤廃されてしまえば、そこから先は、西野のようなマイペース野郎こそ強かった。特に空気を読むことに長けたリア充グループに対しては、それこそ天敵のようなもの。今まさに大した威力を伴う。


「では悪いが、番号を教えて貰えないか?」


「誰が教えるかっ! あと、と、当日に取れるほど空いてないしっ!」


「そうか、なかなか流行っているのだな」


「っ……」


 声も荒々しく吠える。


 快活さが売りの元気系美少女だったリサちゃんだが、これは流石に前代未聞である。ファザコン疑惑が浮き上がってしまった為、松浦さんを苛めるにも格好がつかない。彼女はこの場を諦めることに決めた。


「ああもうっ、これ以上こんな馬鹿に構っていられないしっ!」


 大きく吠えて踵を返す。


 階段室へ繋がるドアに向かい、ズンズンと早足で歩んで行く。


「あ、リサっ、ちょっと待ってよぉー!」「リサちゃん! リサちゃんのお父さんがやってる病院、私にも紹介して欲しいんだけどっ!」「っていうか、ちょっとちょっと、マジで行っちゃう感じなのっ!?」「ねぇ、アイツって放置なのー?」


 賑やかな一団は、そうこうする間に戸口の向こう側へ。


 バタンと鋼鉄製のドアが閉じられれば、その姿は見えなくなる。口々に交わされる言葉も瞬く間に遠退いて、向こう側には誰の気配も感じられなくなった。どうやら本当に帰ってしまったようである。


 後に残されたのは西野と松浦さん。


 途端に静かとなった屋上の一角で、酷く気まずい雰囲気が一丁上がり。


「……あの、西野君」


 先んじて口を開いたのは後者だ。


 全ては場の主導権を握る為である。


「なにか?」


「お願いが、あるんだけど……」


「……お願い?」


「私が西野君とココに居たこと、黙ってて貰える?」


「どういうことだ? 意図が見えてこない」


「だって、もしもこれが竹内君に伝わったら、勘違いされちゃうかも知れないでしょ? それにクラスの子から苛められているところを、西野君に助けられたなんて、彼には絶対に聞いて欲しくないし」


「…………」


 相変わらず自分しか見えていない松浦さんだった。


 これには流石の西野も、上手く言葉が出てこない。


「あの……ちゃんと約束、して貰える?」


 ただ、そうした彼の驚きにも構わず、松浦さんはツラツラと語る。


 自らの望みをなんら躊躇なく述べてみせる。


 更にここぞとばかり、毎晩、自室で鏡を前にして練習した会心の上目遣いを披露。本来であれば西野如きに使うのは勿体ないと、心中に愚痴など重ねながら、それでも表面上は惜しげなく、チラ、チラチラ。


 そしてそれは同フツメンもまた、過去に数多覚えのある異性からの眼差し。


「……あぁ、分かった」


 数年前の彼であったのなら、気付けなかっただろう。


 けれど今の彼は、容易に理解できる。


 笑みに乗せて届けられるのは強烈な自我。媚び諂うべく歪められた瞳の奥には、他のどの感情より強く確かに訴えられる自尊心。笑顔の裏側に隠された屈辱はあまりにも大きくて、渦巻く濁りは視線に質量すら与えて思える。


 僅かな間の出来事ながら、その一笑を通じたことで、彼は彼女の内側を正確に理解することが出来た。曰わく、どうやら俺は最初の選択を間違えたようだ、云々。まさか西野のようなフツメンに扱えきれる女ではなかった。


「本当? ありがとう!」


「いや、別にどうでも良い」


「それじゃあ勘違いされると嫌だから、私、もう行くねっ!」


 ニコリ、良い笑みを浮かべて、駆け足に歩み出す松浦さん。


 これをフツメンは、なんとも言えない感慨の只中に見送った。


 今し方にリサちゃん軍団が去って行った際と同じく、松浦さんもまた、屋上に唯一の出入り口を抜けて校内へと戻っていった。しかも後発は内股に女らしさを取繕いつつも、割と全力の駆け足である。どうやら本当に二人きりが嫌であったようだ。


 これを見送ってしばらく、西野はポツリ漏らす。


「……強かな女だ」


 呟かれた台詞は、誰の耳に届くこともない。




◇ ◆ ◇




 同日の放課後、西野は大変な問題に気付いた。


「……ブッキングした」


 彼が右手に握っているのは、今朝、二日酔いに痛む頭をさすりつつ問答の末、竹内君から譲り受けた明日の旅行の航空チケット。彼が左手に握っているのは、昨晩、マーキスから届けられた翌日の仕事の現地入りに用いる航空チケット。


 明日と翌日。


 前者がエコノミーであるに対して、後者はファーストクラス。


 更に言えば何の因果か同じ航空会社の同じ便だ。


 エコノミーのチケットなど初めて見る西野だから、その僅かばかりの違いに感心したところで、さて、これはどうしようと頭を悩ませている。前者を受け取ったのが寝起きとあって、完全に失念していたようだ。


「断るしか、ないな……」


 こういった場合、彼の判断は非常にシンプルだ。


 先に受け取ったチケットはマーキスから。


 よって、断るべくは竹内君主催の旅行と決定された。


「……竹内君は、たしかサッカー部だったか」


 クラスの綺麗どころと共にする一週間の海外旅行。惜しいとは思いながらも、彼はお誘いを断る為に、竹内君を探すことにした。


 向かった先はグラウンド。


 教室を後として、廊下を歩み、階段を下り、昇降口で上履きから下履きに履き替えて進むことしばらく。グラウンドの一角、サッカーゴールの傍らに目当ての人物を見つけた。どうやら上手い具合に休憩時間である。


 そこでは友達と楽しそうに語らい合うイケメンの姿があった。隣にはクラスのナンバーツーイケメン、鈴木君の姿もある。どうやら二人は同じ部活動に所属しているらしい。教室に限らず二人の交友関係は良好のようだ。


「……よし」


 これ幸いと西野は二人の下に向かう。他の生徒が運動着である為、制服姿は非常に人目を引いた。けれど、周囲からの注がれる好奇の視線に構うことはない。グラウンドを横切って竹内君の下まで一直線。


 おかげで彼が声を掛けるまでもなく、先方はその存在に気がついた。


「おい、あれって西野じゃね?」


「え?」


 先んじて声を上げたのは鈴木君だ。


 これに竹内君が視線をやって、あぁ、確かに。小さく頷く。


「なんだよアイツ。俺らに用か?」


「……さぁな」


 今、二年A組で最もホットなフツメンの登場。


 そうこうする間に西野は竹内君の下まで辿り着いた。ここ最近の関係を鑑みては、少なからず身構える二人だろうか。いよいよ教室での扱いにキレた彼が、報復の為に迫ってきたのではないか。そんな疑念も少なからず抱いてのこと。


 ただ、そうした彼らの思惑はまるで外れていた。


「竹内君、ちょっと時間をいいか?」


「いきなりなんだよ?」


「明日の旅行の件だが、他に予定が入っていることを失念していた。一度頷いた手前、非常に申し訳ないが、これは返却したいと思う。もしも他に当てがないようであれば、損失分についてはこちらで補填する」


「あぁ? 行けないの?」


「すまない」


「……ふぅん」


 ジロジロと西野を眺めて、思考を巡らせる竹内君。


 その脳裏には色々な推測が浮かんだ。


 いよいよコイツも気まずさを感じているのか? とか、松浦を俺に奪われたことがショックだったんだろうな、とか、いずれにせよこのタイミングなら幾らでも周りに言い訳が効くから、こっちとしては嬉しい限りだな、とか、とか。


 そして、そのいずれにも増して――――、


「まあ、そういうことなら、チケットは返して貰うわ」


 コイツは本当になんなんだろう、とか。


「ああ」


 西野の手から竹内君の下へチケットが動く。


 これに反応したのが、隣に立つ鈴木君だ。


「あれ? んじゃもしかして、俺が代わりに行っても良い感じ?」


 彼は竹内君を見つめて、おいこら、どうなのよ、爛々と瞳を輝かせる。同旅行に志水が参加することは既に彼らのクラスでは公然の事実だ。そんな彼女に惚れる鈴木君だから、まさか逃す手はない。


「あ、あぁ、まぁ……」


「竹内、それ貰っても良いか? 俺も一緒したいんだけど」


「このチケット、明日からだけど大丈夫か? 学校休むんだけど」


「委員長と一緒に旅行ってなら、サボりの一週間や二週間は余裕!」


「……え? お前って志水狙いだった?」


「わ、悪いかよ?」


「ふぅん……」


 キラリ、竹内君の瞳が怪しく光った。


 鈴木君が参加することにより、当初の西野参加案とは異なり、ハーレムの瓦解は確実なものとなるだろう。ただ、竹内君にとっての最終防衛線、ローズに対する障害という意味では、目の前の男がこれを妨げるものではないと理解する。


 そういうことなら、鈴木君の同行も満更でない彼だった。


 如何に自らの恋を成就させる為とは言え、滅多でない海外旅行。それも青春真っ只中のイベントだ。何を考えているのかよく分からないフツメンより、高校入学以後、ほぼ毎日顔を合せている気心知れたイケメン友達の方が、竹内君だって嬉しい。


「んじゃこれ、やるよ」


「マジで!? 流石は竹内、分かってるじゃん!」


 竹内君からチケットを手渡されて、満面の笑みを浮かべる鈴木君。


 まるで歳幼い子供が新しいオモチャでも買い与えられたようだ。


「ところで、パスポートが無いとか言わないよな?」


「馬鹿にするなって。パスポートの一つや二つ持ってるから」


「二つあったらヤバいだろ」


「今年の夏、家族でハワイへ行ったんだけど、その時に取ったからさ」


 少しばかり誇らしげに語ってみせる鈴木君。彼にとっては忘れられない想い出だ。現地で出会った同じ日本人のショタコン女性観光客二名と、一晩限りの乱交セックス。更には生中出しを初体験。海外という響きに味を占めて止まない。


「いいじゃん、ハワイ。俺も近いうちに行きたいな」


「んじゃ行っちゃう? クラスの連中誘ってさ?」


「そうだな、またその時になったら考えるか……」


 話題は早々に西野の下を離れて、イケメン二人の間で巡り始める。フツメンには相槌を打つ猶予さえない。


「では、俺はこれで失礼する」


 会釈と共に、悠然と場を後にするフツメンだった。

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