当日 五

 それから十分後、場所は津沼高校B棟の屋上。


「西野君が私を呼び出すなんて珍しいわね。どうしたのかしら?」


 制服姿のローズの姿がある。これに向き合うのは西野一人。他に人の姿は見られない。ただ、それは二人の視点から確認した場合の話だ。実際は給水塔の上に隠れて、志水の姿がある。彼女は身体を伏して気配を隠すと共に、その視界に二人の姿を捉えていた。


 全ては西野の指示である。


「アンタに話がある」


「何かしら? 一緒に文化祭を楽しみたいというなら、付き合っても良いわよ?」


 時刻は午前十一時を過ぎた頃合。いよいよ日も高いところまで昇り始めて、校内より届けられる喧噪も勢いを増してきた。屋上に立っていても、同校の生徒や文化祭に参加する地域住民の声がグラウンドから、或いは窓ガラスを越えて校舎の内側から響く。


「ところでアイツはどうした? 姿が見えないが」


「アイツ? 誰のことかしら」


「アンタに世話を頼んだロックのお姫様だ」


「あぁ、アレなら貴方のクラスで貴方を待っているわね」


「であればいい」


「良い客寄せパンダね」


 クツクツと小さく笑みを浮かべるローズ。これを趣味の悪い笑い方だとは、西野の胸の内に浮かんだ寸感である。自身もまた碌な趣味の持ち主ではないにも関わらず、それを棚に上げて大した感想もあったものだ。


「パンダで寄った客など碌なもんじゃない」


「それならさっさと帰ってももらったほうが良いわね」


「そうするつもりだ」


「教室に戻りましょう?」


「ただし、その前に一つ、確認したいことがある」


「何かしら?」


 二人の間で淡々と交わされるやり取りを目の当たりとして、志水は驚きを隠し得なかった。今この瞬間、彼女は初めて西野とローズの間に、本当の意味で交流があったのだということを理解した。


 学園カーストこそ人間関係を計る主たる指標と定める彼女だから、親しげに言葉を交わす二人の姿は、まるで異物。有り得ない光景だった。


 ただ、そうして驚きから瞳こそ開かれても、声が発せられることはなかった。西野が指示したとおり、黙って事の成り行きを見つめている。フツメンが金髪ロリ美少女にタメ口を利く姿が、前者の指示に対して、相応の説得力を与えていた。


 彼女は給水塔の上に身を隠したまま、ギュッと拳を握り、早く話を進めなさいよと、胸中に苛立ちを募らせる。そんな委員長の焦りが通じたのか、西野が問題の核心に向けて一歩を踏み込んだ。


「何故にA組の売上金を盗んだ?」


「っ……」


 何気ない調子に呟かれた問い掛けだった。


 だが、問われた側は完全に想定外の質問だった。ローズはこれに一瞬、続く言葉を詰まらせた。僅か一瞬、されど一瞬。これまで流暢に軽口を叩いては返していたおかげで、その間隔は顕著なものとして、彼女を見つめる者たちへ当人の動揺を伝えた。


「どうした?」


「……いえ、別に」


 西野の発言を受けては、志水もまた驚愕していた。流石に表現がストレート過ぎたようだ。ちょっとアンタ、なに勝手なこと言ってくれちゃってるのよ、もう少し言い方っていうものがあるでしょう、とは今まさに声を上げようとしたところ。


 しかし、それは更なる驚きを持って喉元に引っ込む。


「ついでに言えば、どうして俺の机を刻んでくれた?」


「っ……」


 先程にも増して、際立つほどの反応がローズから返った。ビクリ、肩の震えは十数メートルを離れて志水にまで伝わるほど。西野からの問い掛けは、彼以外の両名にとって、完全な不意打ちだった。


「あぁ、そういえば大便も入れられていたな。やたらと臭ってくれたおかげで、当日は松浦さんがとても可愛そうなことになっていた」


 え、ちょっと、なにそれどういうこと。机を刻むって、もしかして一昨日の朝の話? っていうか、どうしてそこでローズちゃんが出てくるの? 委員長の脳内では湯水の如く疑問が溢れる。


「アンタならマーキスに手間を掛けるまでもない。この場で始末してやる」


 一歩、ローズに向けて歩む。


 その表情は普段と変わらない、不機嫌そうな仏頂面である。


「ちょ、ちょっと、待ってくれないかしら?」


 途端、大いに慌て始めるのがローズである。


 狼狽も顕わに言い訳を並べ始めた。


「待って欲しいわ。机を刻むって、ど、どういうことかしら?」


「金を盗んだことは認めるのか?」


「ぅっ……」


 学内に在りながら、いつになく強気な西野だ。


 本人曰わく、商売用というやつである。


「もう一度、尋ねる。共にアンタの仕業だな?」


 フツメンは改めて、凄みを利かせるよう意識して言い放った。


 当人的にはヤクザ映画や不良漫画のそれを習い、相手を威圧すべく眉間にシワなど寄せてのこと。ただ、傍から見れば粋がるフツメン以外のなにものでもないから、本来であればこれを見て笑うことはあっても、恐れることなど何も無い。


 ただ、ローズは素直に全てを吐露した。


 その唇はよく見ると、プルプルと小刻みに震えていた。


 どうやら、本心から恐怖している様子だった。


 何に対してかは知れないが。


「まさか彼女が貴方に相談するなんて、こちらも想定外かしら」


「やはりか……」


 忌々しげに西野は語る。


「以前にも言った筈だ。俺はアンタみたいな人間が大嫌いだと」


「ええ、以前にも聞いたわね」


 ローズは観念した様子で言葉を続ける。


「となると、あぁ、もう私の想いは貴方に届いてしまったかしら?」


「当然だ。わざわざ学内で俺の立場を貶めてまで、これを囲って好きなように使おうなど、また回りくどいことを考えたものだ。反吐が出る。もう少し真っ当な考えは出てこないのか? これならまだフランシスカのがマシだ」


「……え?」


 ローズの表情が一瞬、酷く間抜けなものとなった。


「違うのか?」


「え、あ、えぇ、まあ、そうよ。よく分かったわね?」


「ふん。その人を馬鹿にした態度、フランシスカに似ているな」


「あら、それは心外ね」


「股が緩いという意味ではどっちも同じだろうに」


「股が緩い? それは聞き捨てならないのだけれど」


「はっ、言っていろ。この売女が」


 早々、踵を返す西野。


 何やら弁明を始めたローズの物言いに対して、けれど、彼は一言として聞く耳を持たなかった。フツメンの中でのローズとは、イケメンが相手なら簡単に股を開く程度のビッチ。日本人女性としては標準だが、フツメンはこれを許せなかった。


 相手はその程度の女なのだと、自分で自分に対して言い訳を連ねて、必死に我慢である。そうすることで、異性に対する理想とか、幻想とか、その手の類いの希望を必死に守っているのだ。世のフツメン以下に備わる重要な精神防衛機能の一つである。


「そういう訳だ。あとは勝手にやってくれ」


 志水までちゃんと届くよう、童貞は声も大きく言い放つ。


 かと思えば、これ以上は付き合っていられないとばかり、歩み早に屋上を後とした。パタン、軽い音と共に出入り口のドアが開いては閉まる。その足音は校舎の内側に遠退いて、すぐに聞こえなくなった。


「…………」


 語る者が居なくなり、急に屋上は静かとなる。


 文化祭の喧噪が妙に遠く聞こえる。


 一方的に声を掛けられた志水はと言えば、返事を返すタイミングを逃した。一連の出来事を覗き見ていた後ろめたさもあり、西野の退場を受けて硬直だろうか。私はこれからどうすれば良いのよ、とはマジ焦り。


 すると、そんな彼女の焦燥を殊更に掻き立てる光景が、視線の先に始まった。


「まったく、驚かせないで欲しいわね」


 西野が居なくなり、身体の強ばりを解いたローズ。


 彼女はふぅと大きな溜息を一つ吐いた。


「勝手に勘違いしてくれて、本当、そういう愚鈍なところも魅力的なのよね。どうしてこんなまわりくどいことをって、そんなの貴方を私のモノにする為に決まっているじゃない。でなければこんな場所に長居しないわよ」


 凛としていた表情が、一変、蕩けたアイスのように崩れる。


 デロデロだ。


 二ヘラと緩んだ顔に浮かぶのは、彼女らしくない悦びの笑み。普段から釣り目がちな眦が、今この瞬間に限っては下がる。だらしなく半開きとなった口元からは、真っ白な尖った犬歯がチラリと覗く。


 視線は西野が出ていったドアを見つめて揺るぎない。


「それにしても、彼、怒った顔も最高にカッコイイわよね。なんで西野君ってあんなにカッコイイのかしら? この世のモノとは思えないわ。彼以上にカッコイイ男なんて、この世界に存在しないわよ」


 腕組みなどして、ウンウンと頻りに頷いて見せる。


 その意識は既に自分の世界へ旅立って思える。


「いけないわ。西野君のことを考えていると、どうにも濡れてきてしまう。もう駄目、駄目よ、堪らない。あああもう、西野君、なんて素敵なの。永遠に見つめていたい。西野君、愛している。西野君。私は貴方のことが大好き」


 不意に動いた右腕が、スカートの下へと向かう。大胆にも裾を捲り上げて、下着の中に手を突っ込む。左の手は平坦な胸元へと向かい、制服の生地越しに乳首をクリクリと激しく捏ねくりまわし始める。


 突起は早々に勃起して、シャツの下に淡いピンク色の膨らみを透かせる。


 どうやらブラジャーを着用していないようだ。


「もしも貴方が普通の人間だったのなら、全てをこの手で攫ってしまえたのに。あぁ、どうして、どうして貴方は、こんなにも強力なのかしら。こんなまわりくどいこと、私だって辛い。とてもとても辛い。早く貴方と一つになりたいのに」


 瞬く間に高まり、ハァハァと呼吸を荒くし始めるローズ。


 他方、彼女が荒ぶれば荒ぶるほど、冷静さを取り戻すのが志水だ。


 ちょっとこの子いきなり何を初めているのよ。っていうか、本当に西野のことが好きなの? マジで? あんなフツメンのどこがカッコ良いの? 頭の中とか弄くりまわされちゃってるんじゃないの?


 沸いて出る疑問は止めどない。


 ただ、そうした疑問を向けるべき相手は、今まさにオナニーの真っ最中。どうやらローズは汁気の多い女らしい。数メートルを隔てても、グチュグチュと汁気の伴う音が委員長の下まで聞こえてくる。


 同性の下の音など、聞いていて気持ちの良いものではない。志水は堪らず顔をしかめる。また要らぬ知識が増えてしまったと。


「もしも私と貴方が、互いに普通の学生として、この場に出会っていたら。そう思うだけで、やりきれない想いが溢れてくるわ、西野君。貴方がノーマルでなければ、私は今すぐにでも、この愛を伝えることが出来たのにっ……」


 独り言に乗せられるよう、段々と勢いを増すオナニー。


「西野君の唾液を、唾液を舐めたいわっ!」


 彼女はスカートのポケットからビニール袋を取り出した。その中には串と割り箸が、それぞれ一本、一膳、計三本収められていた。つい先日、彼とグラウンドに屋台をまわった際、それとなく回収した彼女の宝物である。


 そのうちの一本、フランクフルトの串を手早く取り出す。


 おもむろにこれを自らの口へ。


「西野君っ、西野君っ、西野君っ! 西野君の味がするわぁっ!」


 ペロペロだ。


 シャブシャブだ。


 まるでそれが意中の相手の男根だとでも言わんばかり。串へと舌を這わせる。口に含む。ちゅうちゅうと音を立てて吸う。木の繊維に染み込んだ、彼女にしか分からないラブ成分を、必至に咥内へ取り込む。


 昨日採集してから、使用せずに取っておいた貴重な三本の内の一本である。何か良いことがあったら舐めようと、大切にポケットへ保管していた次第である。当然、取得から一度も洗浄などしていない。


「うそ……」


 一連の光景を目の当たりとした志水は絶句。学園のアイドルが見せる滅多でない痴態に視線は釘付けだった。現実を疑いたくなる光景だった。


 どうやら相手は志水の存在に気付いていない。行為は瞬く間にエスカレート。いよいよ本格的に出て行けなくなる委員長だろうか。


「本当だったら、もっと沢山、もっと色々、西野君が手に入る筈だったのに。本当、あの志水という子は邪魔にもほどがあるわね。以前の日曜もそう。こんなことなら先に殺しておくべきだったわ。今となっては下手に動くと西野君に気付かれてしまうし」


 悶えながらローズは続ける。


「そう、駄目なのよ。決して気付かれては駄目だわ。今の彼が私を受け入れることは有り得ないもの。だからこそ、根回しは確実に、正確に、完璧に。彼が気付いた時には、既に身も心も、何もかも、全てが私の虜になっている。そうでなければ」


 執拗なまでに串を舌ベラで舐めながら、金髪ロリータは語る。


 独白することで、自らの意志をより強固なものとするように。


「西野君は私のモノ。私だけのモノ。他の誰にも渡さないわよぉ……」


 手の動きが激しくなっていく。


「あぁ、なんて刺激的な愛なのかしら。最高よ西野君。貴方だけよ、私の心を高鳴らせてくれる存在は。絶対に貴方を私のモノにしてみせるっ! 身も心も私に依存させてみせるっ! 貴方は私が養ってみせるから、飲食から排泄まで、全て、全てをっ!」


 機械的に素早く上下する腕。


 ただ快楽だけ貪る酷く動物的な動きだ。


「その為には、あの子が邪魔なのよ。そう、邪魔なのよっ……」


 酷く物騒な呟きだった。


 キチガイスイッチONである。


 呟かれた側は堪ったものでない。


「っ……」


 質量すら伴って思えるほどの害意を向けられて、咄嗟、志水は身を強ばらせる。すると寝転んだ先、その足がコンクリート片に触れた。給水塔の端にあったそれは、カツン、乾いた音を立てて下に落ちた。


 風化からヒビ割れて、砕け浮いた床板の一片である。


「……誰か居るの?」


 当然、ローズはこれに反応した。


「ねぇ、そこに誰か居るのかしら?」


 声の調子は普段の彼女と何ら変わらない。


 むしろ穏やか。


 それが志水には何よりも恐ろしかった。


 女の深みを知る女、志水知佳子、十六才。


 覚悟を決めて、給水塔の上、自身の足で立ち上がる。


「わ、私だけどっ!」


 ヤケクソ気味に、彼女は叫び声を上げた。




◇ ◆ ◇




 志水が撒いて西野が発芽させた面倒が、今まさにB棟の屋上に育つ。


 給水塔から身を下ろした彼女は、幾らばかりかを歩んでローズと正面から向かい合う形だ。両者の間には数メートルの距離。前者としてはこれ以上を近づきたくないところだろうか。後者としては、即座にも間合いを詰めて首を掻ける間合いである。


「あら、志水さん」


「ど、どうも……」


 やっほー、ローズちゃん、と気軽に声を掛けられたのは昨日までの志水。今し方に目の当たりとした痴態は、彼女の中にあった学園のアイドルに対するイメージを完全に過去のものとしていた。


「いやらしいわね。人の情事を覗いていたなんて」


「いや、あの、それは……」


 ローズはしれっと、事も無げに言ってみせる。


 腕の動きこそ中断されたものの、スカートの中からは、溢れ出した滴が、ポタリ、ポタリ、不規則に垂れては足下に斑点を作る。やはり相当に汁の量が多い。指の動きこそ止めたところで、想い人への愛が止め処ないキチガイ金髪ロリータ。


 対する志水はと言えば、これにどう対処したものか、焦る。焦る。


「…………」


「…………」


 互いに見つめ合う。


 色々と確認したい事柄がある筈の志水だが、上手く口が動かない。聞きたいことは沢山あった筈なのに、いざオナニー少女を前としてみれば、その突出した存在に気圧されて萎縮してしまう。


 他方、ローズはスラスラと語ってみせる。


「何か用かしら?」


 それまで延々と舐めていた西野印の串を口から離す。


 ツゥと伝う唾液が、その先端と彼女の舌との間で橋を作った。


「え、あ、いや、それはその……」


「今の私は西野君を想ってオナニーするのに忙しいの」


「っ……」


 なにを言っているんだ、この女は。


 思わず口から漏れそうになった台詞を、寸前のところで飲み込む志水。咄嗟に突っ込みを堪えた自身を、彼女は胸の内で誉めてやる。よくぞ我慢したと。伊達にクラス委員などやっていないぞと。


 その役柄からも、彼女の日常は大体ツッコミ担当である。そう、伊達に委員長などしていない。自分は委員長。クラス委員なのだ。彼女は自らの肩書きに信ずるものを得て、目の前の変態と相対する覚悟を決める。


 その意志を伝える。


「さっきの話って本当なの? ロ、ローズちゃん」


「さっき?」


「ローズちゃんが、その、わ、私のロッカーに、売上金を盗んで、入れて……」


「あぁ……」


 そんなことかと言わんばかり、冷めた態度で彼女は応じる。


「それがなに?」


 そこには愛想の欠片も見られない。普段、校内に振舞われる彼女の穏やかな内にも快活とした、それでいて十分な優しさの感じられる態度と比べては別人。表情が冷めたモノであれば、声色も抑揚のない淡々としたもの。


 志水の知るローズらしからぬ、酷く突き放した物言いだった。


 ただ、これもまたローズ・レープマンという人間性の一面である。


「な、何ってっ、そんなっ……」


 できれば否定して欲しかった問い掛けを全肯定されて、志水は以後を上手く続けられない。学園のアイドルで、誰もが憧れる美少女。それが彼女にとっての確たるローズ像だった。出会って当初から、少なからず憧れていた少女だった。


 けれど、その像は彼女の想いを裏切って、ガラガラと崩れた。


「貴方がどこまでを知っているのか、どこまでを理解しているのか、私は把握していないわ。けれど、例えどこまで至っていたとしても、一つ確実な返事を私は貴方に、この場で伝えておくわね」


「……えっと、な、な、なに?」


 口元が震えている志水。


 声が引き攣っている志水。


 完全に腰が引けていた。


「もしも私の恋路を邪魔するなら、容赦しないわよ?」


「っ……」


 真顔で語るローズを正面に置いて、志水は上手い返事が浮かばない。まさか邪魔する気など無かった。そんな恋、欲しく無いから、見たくないから、さっさと持って行って下さい。それが本心。


 意識の高い志水だから、冴えないフツメン野郎などアウトオブ眼中である。


「ねぇ、貴方も西野君に惚れているのかしら? 教えてちょうだい?」


「ほっ!?」


 上手く言葉を返せない志水へ、何を勘違いしたのか、ローズから返されたのは素っ頓狂な問い掛けだった。問われた側にしてみれば、それだけは何が起こっても絶対に有り得ないと誓う展開である。


「ほ、惚れてる訳がないでしょっ!? やめてよっ! 気持悪いっ!」


 未だ夏服の制服から覗く二の腕に、ブツブツと鳥肌が立つ。


 どうやら本当に、心の底から西野が嫌いなようだ。伊達に先週頭から事ある毎にいちゃもんを付けていない。もし仮に結婚するなら、自分より語学力に秀でた、包容力のある、年収一千万以上。そう心に決めているモテカワ系女子な委員長である。


 まさか西野など冗談でも不快だとは切なる訴えである。


「貴方、男を見る目がないわね」


「……無くていいよ、私は」


「もう少し人を見る目を磨いたらどうかしら?」


 対して、これにローズは心底有り得ないと言わんばかりの態度を示した。西野の他に男は存在しないと言外に語って思えるほど。まるで汚物でも見るような視線を志水に向ける。本当に貴方は同じ人間なのかと。


「い、いいんです。私は、それでもぜんぜんっ」


「男を見る目がない女は、社会に出てから苦労するわよ?」


「だから大丈夫だからっ! わ、私はぜんぜんっ!」


 本心から哀れみの目を向けるローズ。


 対する志水は諦観の念。コイツにはこれ以上、何を言ったところで無駄だと理解する。恋は盲目。自らも過去に覚えのある話ながら、ここまでは酷くなかった筈だと自身を振り返る。流石に西野はないだろと委員長は思う。


 結果、両者の意見は平行線。


 僅かばかりの対話を経て、志水は一つの結論に至った。


 ローズ・レープマンはブサ専だと。


 故に自然と、彼女の意識は自らが優先する事柄に移る。今は男女の好いた嫌ったを語っている場合ではなかった。それよりも大切な、絶対に解決しなければならない問題が、この委員長にはあるのだ。


 当初の目的を果たすべく、志水は強引に話題を変えに掛かる。


「あの、と、ところでローズさん、一ついい?」


「なにかしら?」


「お金を返して貰えないかな? 犯人、ローズさんなんだよね?」


 引き攣った愛想笑いは、これ以上は深入りしてなるものかという意思の表れ。極めて他人行儀を意識しつつの声色は、一刻も早く屋上から逃げ出したいという思いから。敬称をちゃんからさんに変えて、十分に距離を取っての交渉開始だ。


 志水の中では既に、ローズのキチガイ認定が完了していた。


「利息はどれくらい必要かしら?」


「い、要らないよ、そんなの」


「そう? 随分と謙虚じゃない」


「普通だからっ!」


 いよいよ我慢も辛くなってきたのか、声を荒げる志水。


 これに返すローズは淡々と。


「なら後日返すわ。現金はあまり持ち歩かない主義なの」


「え? で、でも、盗んだ分だったら……」


「全てトイレに流してしまったわ。下水を漁る覚悟があるなら止めないけれど」


「そ、そうなんだ……」


 もう勘弁してよ、言わんばかりの態度に頷く。当面は志水が立て替える羽目になりそうだった。千客万来であった二年A組のコスプレ喫茶であるから、半日分の売り上げであっても、彼女にとっては大きな痛手である。


 当然、不満も溜る。


 このブサ専女、どうしてくれようかしら、ふつふつと沸き上がる思い。


 そんな彼女にローズの側から続けざま、声が掛かった。


「私からも伝えたいことがあるわ」


「……なに?」


「もしも私の想いを西野君にバラしたら、貴方を殺すから」


「バ、バラさないからっ! 大丈夫だからっ!」


 股間から愛液を垂らしながら殺すと言われても、なんら凄みが感じられない。どちらかというとキチガイ具合が極まって見える。絶対にお近づきになりたくない感じ。|下(しも)の汁を飛ばすわよ、とか脅されたらどうしようとは、志水の懸念点その一。


「そう? なら良いけれど」


「それよりも、ちゃ、ちゃんと返して下さいねっ!?」


「ええ。彼にバレてしまった以上、続ける必要はないわ」


「っていうか、どうして売上金を盗んだり……」


「西野君には私さえいれば良いの。私だけが彼の全てを受け止めることができる。彼の居場所は私の隣だけ。けれど、まさかここまで酷いとは思わなかったわ。本当、醜い生き物よね、貴方たちって。まさか何の確認もなく、彼に濡れ衣を着せるなんて」


「そ、それはっ」


 身に覚えのありすぎる志水だから、返答に窮する。


 今現在であっても、一連の面倒を如何に西野へ責任転嫁するか、その一点に意識を注力して止まない委員長だ。まさかローズが盗んだと説明しても、それを信じる生徒はこの学園に一人としていないだろう。


 真実を知ったところで、これを解決する術は他に必要だった。


「まあ、おかげで彼の意識を私へ向けることが出来たのだけれど。でも、それも昨日の今日で破綻してしまったかしら? せっかく、上手くいきそうだったのに。本当、貴方という人間は邪魔よね。刻んで豚の餌にしてしまいたいわぁ」


「っ……」


 ギロリ、鋭い眼差しで志水を見抜くローズ。


「あと半月もあれば、彼の心は私に沿ってくれたのに」


 ギリリと音を鳴らすほどに、歯を食いしばるキチガイ認定。


 語ってみせたとおり、心底から委員長のことを憎んで窺える。


「本当、これからどうしようかしら……」


「そ、そんなことっ、私に言われたって……」


「あ、そうだわ!」


「今度は、なによっ」


「ねぇ、志水さん。私と西野君のこと、応援してくれないかしら? 日本人女性というのは、友人知人の恋愛をマネージメントするのが好きなのでしょう? 事情を知る貴方の存在は、私のとって非常に都合が良いわ」


「なっ……」


 まさかの提案だった。


 思わず一歩を後退る志水。


「まさか、断ったりしないわよね?」


「いや、その、そ、それはっ……」


「貴方のクラスの売上金、私であればどのようにすることも可能なのよ?」


「っ……」


 ニィと良い笑みを浮かべて、学園カースト最上位は志水に迫る。


 一歩を踏み出す。


 下着から引き抜かれた手からは、未だお汁がポタリ、ポタリ。


 迫られる側は、これに抗う術を持たなかった。


 精神的にも社会的にも、完全に圧倒されていた。


「……わ、分かった、わよ」


「ふふ、物わかりが良い子は好きよ?」


 今この瞬間、ローズ・レープマンの恋愛を成就させる為、クラスの垣根を越えてローズ・志水連合が結成された。


 先んじて場を去った西野には、まさか夢にも思わない話だ。




◇ ◆ ◇




 同日、午後六時。


 二日間に渡り開催された津沼高校の文化祭が終えられた。学外参加者が校内から一掃されたところで、執り行われるのは後夜祭となる。グラウンドの一角には数メートル四方の規模で木材が詰まれて、これに火が灯りキャンプファイヤーが始まる。


 響くのは定番のフォークダンス曲から、落ち着いた調子の流行歌謡まで。周囲を囲う生徒たちは、楽しそうに笑みを浮かべながら、これに合せて身体を揺らさせる。男女に別れて輪を作り、その二つが重なり合い手と手を取り合う光景は、この世の充実の最たる。


 その誰も彼もは顔面偏差値に優れた学園カースト上位の生徒一同。男女のペアを取っ替え引っ替えして進められるダンスは、中位以下の生徒が混じっては大変だ。そういった者たちは後夜祭の主役、カースト上位の周りを囲い、これを眺めるのが務め。


 稀に自重を忘れた中位から下位カースト所属の生徒がこれ紛れては、向こう数ヶ月、陰口を叩かれたり、或いは苛めにまで発展したりする。特に女子生徒に対して、このフィルターは強く作用する。


 当然、西野の姿はそこにない。


 カースト最下層に存在する彼は、中位から下位に紛れて、上位たちの踊る姿を眺めることすら許されない。一度は現場を訪れながら、周囲から向けられる訝しげな眼差しを受けて、早々に場を退散していた。


 そんな彼は後夜祭の最中、それでも学校に未練タラタラ、帰宅することも憚られて校内を彷徨う。やがて、最後に辿り着いた先は、他に人の居なくなった教室だった。文化祭の最中、一度として足を踏み入ることが叶わなかった場所でもある。


「……大したものだ」


 夜の陰りを落とした教室。


 綺麗に装飾された即席の喫茶店を眺めて、彼は少なからず感動したように呟く。


「また来年が楽しみだな」


 西野もまさか、今の状況を良しとはしない。翌年こそは自分もまた、この場に立ってやると決意を固める。一生に一度しか得られない高校生活、一つとは言わず、二つ、三つと華やかな想い出を作る為、彼は決意も新たに目標を掲げた。


 全ては幸せな、満ち足りた最後を向かえる為に。


「…………」


 だからこそ、彼には一つ、やるべきことがあった。


 その歩みはホールを後として、バックルームに向かう。


 部屋の四方を囲うものとは別に用意されたセパレータ。その先に設けられたのが簡易的な調理スペースである。日中帯はこの場所で紅茶の出し入れや、洗い物の搬入搬出がクラスメイトの手により行われていた。


「…………」


 これを眺めて、何気なくズボンのポケットに手を突っ込む。


 再びそれが取り出されたとき、彼の右手には志水が紛失したものと同じデザインの封筒が摘ままれていた。内側に収められているのは、失われた額と同額の売上金である。わざわざ銀行まで赴き、千円札や小銭で用意したものだ。


 これを彼は数多詰まれた段ボールの間へ差し入れる。


 彼のリア充計画には、円満な学内環境が必須だった。


 今後の活動方針として、学外に重きを置いたところで、それは決して変わらない。また、学外で力を付けた後には、いつか返り咲いてやろうとも考えていた。故に自身の所属するクラスが孕む面倒は、彼としても解決しなければならない課題だった。


「……後はあの売女の口止めか。まったく、面倒ばかり増やしてくれる」


 忌々しげに呟いて、彼は踵を返す。


 バックルームを後とする。


 すると彼がホールへ戻った直後、他に教室を訪れる者の姿があった。


「西野? お前、こんなところで何してるんだ?」


「あぁ、竹内君か」


 クラスでも評判のイケメンがそこに居た。


 しかも何故か一人だ。


「おい、何してるんだよ?」


「文化祭期間中は中には入れなかったんだ。明日には片付けられてしまうのだから、せめて一度くらい、これを拝んでみたかったとは、同じクラスメイトなのだから当然の欲求だとは思わないか?」


「……ああそう」


「そういう竹内君こそ、どうしたんだ?」


「別に、俺は……」


 竹内君の手にはつい今し方、西野が段ボールの間に挟んだものと同一柄の封筒が握られていた。自然とフツメンの意識はそちらに向かう。相手の視線が自らの手元に移ったことを理解して、イケメンは咄嗟、これをズボンのポケットに隠した。


 一連の動きは至極自然なもの。


「そのまあなんだ、俺も似たようなものだ。気にするなよな」


 西野はすぐに竹内君の意図に気付いた。


 同時に親近感を感じて、少し嬉しくなった。


「……そうか」


「ほら、どっか行けよ」


 強引に西野を教室から追い出そうとするイケメン。


「まあ、多い分には問題ないだろう」


「あぁ? なに言ってんだ? コラッ」


「なんでもない。気にするな」


「っていうか、おい、まだその喋り方してるの? ウザいんだけど」


「気に触ったなら謝罪する。すまなかった」


「だからそれを止めろって言ってんだよっ!」


 割と本気で苛つきはじめた竹内君だ。


 これに構わず、西野は淡々と受け答えをして足を動かす。


 向かう先は廊下へ通じる出入り口。


「じゃあな、竹内君」


「あーあー、さっさと帰れよ。男に挨拶されたところで嬉しくねぇし」


「こっちも男に挨拶したところで楽しくはないな」


「あぁ? おいコラ、テメェ舐めてんのかっ!?」


 声に怒気を混じらせる竹内君。


 ここいらが引き際だと考えて、西野は教室を後にする。本来の引き際が数日前、とうの昔に過ぎているとは気付いていない。


 ガラガラ、ピシャリ。


 物静かな放課後の廊下にドアの閉まる音が大きく響く。


「……やるじゃないか、竹内君」


 誰に言うでもなく呟いて、気分良く帰路に着く西野だった。

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