文化祭

いじめ


 翌日、西野は自席にそれを見つけた。


「……なんだこれは」


 普段なら早々に鞄を置くべき机の天板、そこに彫刻刀で文字が削られていた。曰わく、変態、スケベ野郎、スケコマチ、女の敵、キモいんだよ、云々。どれもこれもは彼の人格を否定する単語ばかりだ。


 何だとは呟いた手前、けれど彼は、その意味を早々に理解していた。昨日に行ったクラスの女子に対するアピール行為と、前日に受け答えしたローズを巡る竹内君との問答とが、上手い具合に噛み合わさって今の状況が形作られたのだろうと。


 高校入学から一年と数ヶ月、遅咲きの苛めが開花したようだった。


 同クラスにおいては、記念すべき第一号である。


「……スケコマチ? 稲に新しい栽培品種でも増えたのか?」


 それでもスラスラと軽口が出てくるあたり、既に手の施しようがない。仕事先での人間関係に影響を受けて始めたキャラ作りは、既に主人格と一体化して分離不可能。本人もまた意識しないところで動いている。


「…………」


 彫り込まれてしまったものは仕方が無い。彼は普段と同じように、その上に鞄をおろして、一時間目の授業に備えるべく、教科書の類いを移し始める。一連の流れは酷く淡々としたものである。


 しかし、朝の支度はそう易々と叶わない。


 それとなく覗き込んだ先、机の中には汚物が入っていた。具体的には出所不明の便が付着した雑巾である。これが良い匂いを放ち、その存在を主張している。おかげで机は内側まで全滅だった。西野五郷、生まれて初めて経験する苛めは糞の香り。


「…………」


 事情を理解するクラスメイト一同はこれを遠目に眺めるばかり。一部、クスクスと笑い声を上げる生徒の姿もあった。その反応から、犯人は同じ教室の人間だと、早々に彼は当たりを付ける。


「…………」


 彫り込み。


 糞便。


 悪臭。


 一連の不具合を眺めて、西野は考える。


 今何より優先すべきは五分後に迫った朝のホームルーム。これを無事に向かえる為に必要なのは、臭わない机。では、その臭わない机はどこにあるのか。目的を明確にしたところ、結論はすぐさま得られた。


「……あるな」


 ぐるり教室を眺めると、目的のモノは幾らでもあった。


 選び放題、よりどりみどり。


 よって彼は歩み出した。


「えっ……」


 クラスメイトの誰かが声を上げた。


 既に八割以上の生徒が登校を済ませた教室。それでもまだ登校してきて居ない生徒は存在する。例えば彼の隣席などまさに。よって彼はこれに目を付けた。


 おもむろに自席を持ち上げて運び始める。すぐ隣にあった苗字も碌に覚えていない誰かの席と、ウンコまみれの自分の席とを交換である。


 都合、二、三分ばかりで移動は完了した。机の中に収められていた誰かの私物も、丁寧に取り出して、ウンコ机の天板の上に再配置完了。ミッションコンプリート。


 臭わない机のあった場所には、西野のウンコ机が置かれる。


 西野のウンコ机があった場所には、臭わない机が置かれる。


「……よし」


 彼は新調した机を眺めて、それとなく天板を手の平に撫でる。具合を確かめてみれば、これまで使っていた机と比較して、高さ的にもより優れることが判明した。


「なかなか悪くないな」


 誰に言うでもなく、甚く満足気に呟いた。


「お、おいっ!」


 周囲の面々にとっては、問題以外の何物でもない行動だった。


 悪くない訳がない。


 当然、異論も上がる。


 誰にも先んじて声を上げたのは、クラスメイトの一人、竹内君だった。


「……どうした?」


 これに自分は何も悪くないと言わんばかり、しれっと答える西野。


 椅子に腰掛けた上、悠然と足まで組んでのこと。


「いや、どうしたって、オマエっ……」


 対して竹内君は、反射的に吠えたところ、けれど、続く言葉が出てこない。声を上げてはみたものの、そこから先、語り口調には普段のキレが窺えない。


「いきなり机を取り替えるとか、普通じゃないだろ? もう少し相手のことを……」


 どうして返したものか、流石の竹内君も少なからず焦って思える。


 学年一のイケメンにとっても、過去に経験のない展開だった。


 苛めの対象が、如何せんアグレッシブ過ぎた。


「クラスメイトの机に糞をいれるとは、酷い話もあったものだな」


 対して西野は、悲しげな口調で語ってみせる。


 さも自分が被害者であると訴えんばかりだ。。


「そ、そういう問題じゃないだろっ!?」


「じゃあどういう問題なんだ?」


「っ……」


 事も無げにいけしゃあしゃあと語る西野。


 まるで悪びれた様子もない。


 これには竹内君も、上手い返事が浮かばなかった。


「そりゃあ、せ、先生に言って、新しいのに取り替えて貰えば……」


 西野に問われるがまま答えたところで、イケメンははたと気付く。


「じゃあそうしようか。こっちも新品が欲しかったところだ」


「っ……」


 そうこうする間に時間は過ぎる。


 キンコンカンコンとチャイムが響くと時を同じくして、同クラスを受け持つ担任教師がやってききた。ガラガラと教室前方のドアを開いて、昨日と変わらず、間延びした声を室内に響かせる。


「おまえらー、時間だぞー」


 時間に厳しい学年主任の朝は、いつだってチャイムと同時に到着。


 ウンコ席の彼は遅刻だろうか。


 西野は無事にウンコ臭くない机を手に入れて、朝のホームルームへ突入だ。




◇ ◆ ◇




「おい、なんか臭くないか?」


 朝のホームルームの最中、担任教師が言った。


 どうやら西野の隣に所在する生徒は、本日、体調不良により欠席であったらしい。結果、机の配置交換は継続されて、有耶無耶のままホームルームへ突入だ。当然のこと、ウンコ机から香るのはウンコの香り。


 その四方を囲う生徒は、悪臭から顔をしかめている。


 当然、西野もだ。


「き、気のせいだとおもいまーす!」


 生徒の一人が言った。


 クラスでも剽軽者として通るお笑い担当の一人だ。顔面偏差値こそ高くないものの、自らの自尊心を一定のラインで犠牲にした剽軽具合から、クラス内で多少の発言権と立場を保持している。どんな学校でも一人はいるタイプの処世術の持ち主だ。


 ただ、今は剽軽者の剽軽なところが剥がれて、割とマジ顔での進言である。


「そうか? まあいい。それじゃあ、今日の連絡事項だが……」


 明らかに香るウンコの匂いにもめげず、連絡事項を続けてゆく担任教師。


 これに同クラスの生徒はと言えば、笑いを堪えるものが七割、怒りとも焦りともつかない表情を浮かべるものが一割、我関せずを貫くものが二割といった具合だ。事実が露見するには発破が足りていない。


 ただ、西野としては、割と我慢の限界だった。


 彼の机に投入されていた便は、相当に腹調子に優れない人間の排泄物であったようで、やたらと臭った。教壇に立つ担任ですら疑問を持つほどであるから、一メートルと離れない場所に腰掛ける彼の受ける香りは濃厚だ。


 二、三日は溜め込んだ代物ではないかと予感させる。


「っ……」


 いい加減に顔が歪みそうだった。


 そこで彼は、鞄から下敷きを取り出し、ハタハタと扇ぐ。


 すると、異臭はウンコ席を挟んで、隣の隣の席へと流れる。


「っ!?」


 隣の隣には志水が腰掛けていた。


 いきなり濃さを増した異臭に彼女は鼻をしかめる。


 同時に異臭の側へ視線を向けた。


 すると一つ席を挟んで、西野が下敷きをパタパタさせているではないか。


「ちょ、ちょっとっ……」


 大慌てで彼女もまた、机から下敷きを取り出し、これを扇ぎ始める。


 都合、右と左から扇がれた異臭は、前後に流れることとなる。


「っ!?」


「ぅっ!?」


 前後に居する生徒が呻き声を上げた。


「ん? どうした?」


 これを耳とした担任から声が掛かる。だが、まさか真実を伝える訳にはいかない。ここまできたら、最初に声を挙げたヤツが全てを被る羽目になる。そんな確信めいた意識が、教室の誰もに芽生えていた。


「な、なんでもないですっ!」


 前の席に腰掛ける女子生徒が言った。


「そうか?」


 幸いにして担任はそう大して気を向けることはなかった。異臭に気を回したのも束の間、周知事項の説明へと移ってゆく。


 一方、ウンコ机の後ろに居する生徒はと言えば、左右に腰掛けた西野と志水に習い、自らもまた下敷きで悪臭を払い始める。


 休日はチェック柄のシャツとブルージーンズで秋葉原に彷徨っていそうな、オタク男子である。所属はゲーム制作部。顔は西野より遙か下のブサメン。


 結果、匂いの全ては前方に向かい流れることとなった。


 明確な方向性。


 気流の発生だ。


「ちょっ……」


 ウンコ机の前に座る生徒は堪ったものでない。


 チラリ、それとなく背後を確認して事情を理解だろうか。悲鳴染みた声を上げる。しかしながら席配置の都合上、彼女ばかりは下敷きを振る訳にもいかない。何故ならば、先生に注意されてしまうからだ。


 悪臭に耐える他、彼女に道は残されていなかった。


 ちなみにそんな彼女は、昨日に西野が最初に声を掛けた女子生徒、松浦加奈子である。地味なゴムに結ぶお提げをフルフルと揺らしながら、必死の形相で便臭に耐えている。今にも吐き出しそうだ。


「松浦、顔色が悪いが大丈夫か?」


「……は、はい、大丈夫、です」


 担任教師からの問い掛けに、今にも死にそうな様子で答える。


「そうか? どうしても駄目そうだったら保健室に行けな」


「はい……」


 口元を手に抑えて、本気のリバースを目前に。


 だとしても気丈に答える松浦は強い女だ。


 ただ、そんな彼女を目の当たりとしても、他三名の下敷きは止まらない。


 担任にバレないよう、自然を装い動き続ける。


 パタパタパタパタと扇ぎまくる。


 それくらいに臭いのだった。


 都合、生徒のみぞ知る悪臭騒ぎは、十数分に渡る朝のホームルームの最中、延々と続けられる運びとなった。匂いの至らない生徒は、笑いを堪えることで必死。口元を抑えて明後日な方向を睨み付ける者もちらほら。


 松浦加奈子、我慢の勝利である。




◇ ◆ ◇




 一時間目は各クラス合同での体育だった。朝のホームルームから間もなく移動となった為、ウンコ机に関する面倒については据え置きとなり、誰もが更衣室へ向かったことで、二年A組は|一時(いっとき)の平穏を得る。


 西野が選択した科目は、例によって卓球である。


 テーブルテニスである。


 日陰者のオアシスである。


 取り立てて教師が音頭を取ることもない授業風景は怠惰なものだ。卓球台も人数分が備えられている訳ではない。必然的に交代制での利用となる。更に言えば台に対して明確なグループ分けも為されていない。


 台からあぶれて待機することとなった生徒が、そこいらに駄弁り始めれば、現場の空気は殊更に緩いものとなる。真面目に卓球技能の向上に努める生徒など皆無であるから、それこそ授業の合間に眺める休憩の時間と大差ない有様だ。


「…………」


 例によって卓球室の隅に陣取った彼は何をするでも無く体育座り。傍らには誰の姿もなく、早く授業が終わらないかと、一人で体育の様子をぼんやり眺めていた。前回も前々回も、そして恐らく今回も、自分は一度としてラケットを手にせず授業を終えるだろう。などと下らないことを考えていた。


 昨晩までの彼の予定なら、今日の体育は同じく卓球を選択する女子生徒をラリーに誘う筈だった。ただ、今朝に眺めた机の惨状を鑑みるに、これを急遽自粛である。何故ならば、周囲の生徒は彼を腫れ物のように扱う。いつの間にやら事情が伝わっていたらしい他クラスの生徒もこれは同様だ。


 しかしながら、そんな体育の現場に一人だけ例外が存在した。


「貴方、そんなところで何をやっているの?」


 前回の体育に同じく、ローズがやって来た。何食わぬ顔で彼の正面まで歩み来ると共に、自身の膝と大差ない位置にある西野の顔を上から下へ見下ろす。また例によってバスケットから抜け出してきたようだ。黄色いビブスとバスケットシューズを着用している点からも間違いない。


「そういうアンタこそどうしてここに居る?」


「私は少し休憩」


「なら俺も同じだ」


「そう? なら構わないかしら」


 呟いて西野の隣へ腰掛けるローズ。


 一連のやり取りを目の当たりとして、同所に居合わせた生徒たちから声があがる。それは先週にも耳とした内容のあれやこれや。仲良し同士に生まれた数名からのグループが、男女を隔てず騒ぎ立てる。


「おい、なんでローズちゃんがここにいるんだ?」「っていうか、前も来てなかったか?」「だよな。前にも見たし」「ブルマ姿も可愛いよなぁ。もっと食い込んでくれねぇかなぁ」「っていうか、なんで西野のヤツと話してんだ?」「西野ってアイツのこと?」「そうだよ。A組のヤツ」「いつも隅の方で座ってるヤツだよな」「なんかアイツ、クラスで苛められてるらしいぜ?」「え? マジ?」


「っていうか、マジでローズちゃん可愛いよねぇ」「あの金髪とか羨ましいよぉー!」「だよね、日本人の限界ってやつ? 感じちゃうわぁー」「えー? そうかなぁ? 確かに可愛いけど、そこまででもないような……」「わかるー! 私って外人系は苦手かなぁ」「ああいう妹が欲しかったなぁ」「私はレズりたい」


 二人の下にも声は届いていることだろう。


 これになんら構った様子を見せることなく、ローズは西野に語りかけた。


「昨日はいきなり申し訳なかったわ」


「そう思うのなら二度と来なるな」


「あら、つれないわね?」


「釣る気のないヤツに釣られてやる道理はない」


「意気込みを見せれば掛かってくれるのかしら?」


「さぁな」


 つい昨日耳とした、竹内くんのヤッちまった宣言が効いていた


 西野も決して期待していなかった訳ではない。相手が何を求めて自分に近づいたのかは、重々承知していた。ただそれでも、ほんの僅かばかりでも、心の暖かくなるようなものがあるかもしれない。そんな妄想をするくらいの自由はあったのだ。一昨日までは。


「仕事は既に片づいた筈だ。これ以上何かあるのか?」


「その節はありがとう。助かったわ」


「だったらもう十分だろう。これ以上、俺に近づくな」


 今の彼には目の前の相手が汚らわしいものにしか見えなかった。


 恋愛経験ゼロの童貞野郎な彼だからこそ、彼なりに大切にしている女性像というものがあった。だからこその嫌悪感だろう。フランシスカに感じるものと同じ抵抗をローズから感じていた。金銭や保身の為に股を開くという行為が許せないようだ。


 既に凝り固まってしまった理想の女性像は、本人曰く、大和撫子。


 しかしながら、彼は知らない。


 クラスメイトの数割が、金銭や保身の為に股を開いた経験があることを。


「下心がないと近づいてはいけないのかしら?」


「ヤリたい盛りの中年ハゲに迫られる光景を想像してみればいい」


 投げやりに呟いて、腰を上げる西野。


 ただ、彼が続く一歩を踏み出すことはなかった。


「ヤリたい盛りの中年ハゲが如く飢えていると、噂に聞いたものだから」


「…………」


 ピクリ、西野の眉が震える。彼女から離れるべく一歩を踏み出したところで、けれど、続く二歩目が出てこない。もしも相手が他の同級生であったのなら、或いは素直にその場を去ったかも知れない。竹内君に威嚇されて頭を下げたように。


 しかしながら、彼女は違う。


 同業者に舐められてはいけない。


 それは西野の掲げる、割と大切な信条だった。


 彼にとって今の仕事は唯一の収入源である。長い目で見てもこれは同様であり、少なからず将来に渡って当てにしている。だからこそ、これを脅かす存在は自身の収入を、生活を、強いては将来を脅かすに同義である。


 尚且つ、過去に色々と働いてしまった手前、他から軽く見られることは、即座に命の危機へ繋がる。もしも彼の評判が落ちれば、マーキスは即座に自分を余所へ売り渡すだろうと西野は考えていた。もしも自分が彼の立場にあれば、間違いなくそうするだろうとも考えている。


 だからこそ、今この場に引くことは出来なかった。ローズに舐められたままで済ますことはできなかった。それもこれも全ては過去の経験から与えられた教訓だ。その程度には危うい立場に身を置いていると自覚するのが、西野五郷という少年である。


「……耳聡い女だ」


 彼はボソリと呟いて、笑顔でローズを振り返った。


 満面の笑みだ。


 余所行きの笑みだ。


「あら、そんな顔もできたのね?」


「俺が笑うとアンタに何か不都合があるのか?」


「…………」


 やはり助けたのが良くなかったかと、過去に経験した失態の数々を思い起こす。特に彼が日々の食い扶持を稼ぐ業界では、女性こそ強かで、理不尽で、残酷なものである。アジア圏でフツメンと評価される彼だからこそ、理解できることがある。


 同級生というフィルタを取り払うよう、彼は姿勢を改めた。


 一方でローズはといえば、急に雰囲気を変えた西野を前にして、声の調子が少しばかり強張った。少なからぬ緊張している為だろう。


 彼女がこれまで噂に聞いてきた西野とは、ヤリたい盛りの中年ハゲとはまるで別物である。もしも仕事が被ってしまったら、依頼主を殺してでも逃げろと言われているだけの相手である。


「それなら私にもチャンスがあるかと思ったのだけれど」


「どこかで聞いたような台詞だな?」


「それはどこかしら? とても気になるわね」


「アンタの雇い主に聞いてみればいい」


「雇い主?」


「頭が緩い分には、まだ可愛気があるものだと、笑って済ませられるかもしれない。しかし、股まで緩いとあっては救いようがないな。もう少し冷静に自分自身の行い振り返ってみたらどうだ? このビッチが」


「あぁ、なるほど」


「理解したならさっさと去れ。殺すぞ?」


「私を彼女と同じように見ているのなら、それは甚く心外なのだけれど」


「…………」


 しかし、ローズはめげなかった。頬を引き攣らせながら、それでも口元に浮かぶのは笑みである。平素と変わらず堂々と語ってみせる。心なしか膝が震えているのは、決して西野の見間違いではないだろう。


 これにはフツメンも辟易だ。


「……勝手にしろ」


 短く呟いて、踵を返す。


 いいや、返そうとした直後の出来事だ。


「あ、いた。ローズちゃん」


 彼女の名を呼ぶ声は、卓球場の入り口付近から聞こえてきた。出所は誰かと言えば、西野もここ数日で耳に覚えのある響き。同じクラスのイケメン筆頭代表、大人系クールと評判の竹内君である。


「…………」


「…………」


 その姿を認めて、途端に西野とローズは口を閉ざす。


 一方で竹内君は賑やかに二人の下へ歩み寄る。


「いやぁ、探したわ。同じバスケット選択なのに見つからないからさ」


「今は休憩中よ?」


「そうだね。ってことで、俺もこうしてウロウロしてるんだけど」


「……なにか用かしら?」


「ああいや、用ってほどのものでもないんだけど、例の約束の件、こっちで都合を付けられそうだから、その連絡をしようと思ってさ。体育の授業中だったら、合同だから話しかけるにも自然だろう?」


「ええ、そうね」


 竹内君の眼中にはローズしかなかった。


 すぐ隣に立つ西野は空気である。


「旅行の件なんだけど、文化祭の打ち上げも兼ねて、来週の頭とかどう? 学校を三日くらい休んで大きめの連休を作ってさ。他の女子はもう大丈夫だって連絡を貰ってるんだけど、ローズちゃんだけがまだで」


「えぇ、別に良いけれど」


「本当? 助かるわ」


 語る竹内は終始笑顔。


 ニコニコと満面の笑みを浮かべてローズに語り掛ける。


「だそうだけれど、西野君はどうかしら?」


「…………」


 ここで急にフツメンへ話を振るローザ。


 竹内君の表情が一瞬、般若の如く歪む。だがしかし、それは本当に僅かな間の出来事だ。誰の目にも止まる間もなく、彼は元の笑顔を取り戻す。尚且つ、おや、こんなところに居たのかいと言わんばかりの態度で、西野に語り掛ける。


「あぁ、そう言えばそうだった。西野の方はどうだ?」


「いやまあ、別に問題はないが……」


 とりあえず頷いておく西野。


 ローズの他にも女子が参加するとあらば、彼としては満更でない。目の前の金髪ロリータこそ避けて通ったとしても、他に参加するだろう同じクラスの女子に対しては興味津々である。


 まさか、卒業まで延々と苛められっ子に過ごす気など毛頭無い彼である。今もその脳裏では、脱苛めを目指してプランが練られている最中となる。その為には機会も多いに越したことは無い。


「そうか? じゃあチケットを手配しておくよ。あぁ、旅費に関してはこっちでなんとか出来そうだから、今回は俺に奢らせて貰えないか? もちろん、君以外に関しても同じように提案しているんだけどさ」


「良いのかしら? 結構な額だと思うのだけれど」


「別に俺のお金じゃないんだけどね。ただ、高校の想い出作りに旅行へ行きたいって親に相談したら、人数分だけ出してくれるみたいでね。これでも実家はそれなりに余裕があるからさ。もちろん、無理にとは言わないけれど、どうかな? この提案は」


「そういうことなら、ええ、ありがたくお誘いを受けるわ」


「本当に? ありがとう。うれしいな」


 キラっと真っ白な歯を煌めかせて言う竹内君。


 もしもここがバスケットの授業を行う第一体育館であったのなら、他に女子生徒がひしめき合わせて彼の周りを囲んだことだろう。あー、私も行きたいなー、それなら私もー! などと冗談混じりに言えるのは、日頃の行いが軽い者の特権が故。万が一にも受け入れられれば御の字だ。


 しかしながら、同所は日陰者のオアシス、第二体育館は卓球場だ。立ち並ぶ女子生徒は、誰も彼もブサイクだったり、デブだったり、コミュ障だったり。とてもでないが能動的に動くとなど叶わないカースト下層ばかり。酷く羨ましそうな表情で、やり取りの行く末を眺める限りだ。


「他に誰が行くのかしら?」


「その辺は俺の方で二人ほど、都合のつく子にお願いをしてあるから大丈夫。もしもローズちゃんの友達で是非一緒にって子が居たら、気兼ねなく教えて貰いたいな。もちろん、その子の分もこっちで持つよ」


「ありがとう。でも特にそういうのはないわ」


「そう? それだと僕とローズちゃん、それに彼を加えて五人かな?」


 ちらり、西野へ視線をやって言う。


 実のところを言えば、この旅行に限っては彼の存在こそ、竹内君には非常にありがたかった。何故ならば、イケメンである彼の友達は、誰も彼もがイケメンである。ブサメンはおろかフツメンすらいない。


 故にローズを誘う手前、彼は躊躇した。下手にイケメン仲間を誘い、そこにローズの興味が向かってしまったら。万が一にも、お股を開かれてしまったら。中に出されてしまったら。云々。非常に重大な懸念があった。


 とは言え、男子生徒を旅行に誘わないという選択は有り得ない。


 旅行に誘った相手が全て女子生徒、それも綺麗どころに限られるとなれば、幾ら彼が学年一位のイケメンであるとは言え、少なからず反感は持たれるだろう。だからこそ少なくとも自分の他に一人、男子生徒を誘うことは彼にとって必要だった。


 そこで登場するのが西野である。


 彼程度の顔面偏差値であれば、どれだけローズがビッチであろうと、数日間の旅行期間中に股を開くことはないだろう。そんな確信が竹内君の頭にはあった。これにより自分は旅行期間中、安心してローズを初めとした女子一同との親交を深められるだろうと。その為には、フツメンの分の旅費を都合するのも、吝かでないと。


「西野、そっちは大丈夫か?」


 朗らかな笑みと共に問い掛ける竹内君。


「……ああ」


 まさか、リア充が諜る事情など、リア貧な西野には思い至る訳もない。なんで彼はこんなに良い笑みを浮かべているのだろうと、疑問を孕みながらも、適当なところで頷いて応じる。


「ところで、西野君はどうかしら?」


「……なにが?」


「西野君、誘いたい子とか居ないの?」


「あぁ……」


 俺にそんな話を振るなよ、とは心中に呟かれた素直な愚痴だ。


 ただ、まてよ、と彼は考える。


 これはリア充へと至る、彼女持ちへと至る、幸せな人生のフィナーレへと至る、一つの大きな可能性ではないかと。高校在学中の旅行でクラスメイトの女子と仲良くなる。それは大した青春。何歳になっても決して色褪せない素晴らしき想い出の一つ。


「それなら松浦さんとか……」


 ボソリ、彼は呟いた。


 彼は地味ッ子が好きだった。


 目立たない系の女の子が好きだった。


 ついでに言えば、あまり顔立ちも気にしていない。


「え?」


 竹内君が驚いた顔になる。


「……え?」


 ローズもまた同様だ。


 まさか彼の口から、異性の名前が出てくるとは思わなかったようだ。しかも相手は同じクラスの女子生徒である。更に言えば、当の本人はもれなく卓球を体育の授業として選択しており、同じフロアの数メートル先、彼らの声の届くところに立っている。


「ふぇ!?」


 松浦は戦いた。


 まさか自らの名前が出てくるとは思わなかったようだ。


「西野って彼女と仲が良かったっけ?」


「いや、碌に話をしたこともないが」


「……え?」


「どうした?」


「ま、まあ、そういうことなら彼女も一緒だ」


 西野の意識が松浦に向いていることを理解して、竹内君は内心ほくそ笑む。これで確実に自身の障害は排されたとばかり。自然と機嫌も良くなり、彼はそれまで以上の笑顔で松浦の下に向かった。


「松浦さん、文化祭の翌週なんだけど……」


「え!? あ、は、はいっ! なんでしょうかっ!?」


 早々、旅行の予定を語り始めるイケメンだった。




◇ ◆ ◇




 体育の授業を終えて教室へ戻った生徒一同を待っていたのは、担任教師の憤怒だった。どうやら西野の隣席に収まっていたウンコが、彼らの留守の間に教師へ露見したようだ。恐らくは異臭の拡散が原因だろう。


 続く二時間目の授業が、同クラス担任が受け持つ科目でもあった為、その時限においては出所不明の便に関して、投入の意図を巡る問答が、ホームルームという形で行われる運びとなった。


「誰がやったかをこの場に問うつもりはない。今後も探すような真似を俺はするつもりはない。しかし、誰かがやったのは確かだ。そして、もしもこれが学校の外であれば、これを行った者や、その事実を黙認した者は、必ず責任を求められるだろう」


 担任教師は言う。


 これに臨むクラスメイト一同は、皆々口を閉じてピリピリとしている。若干一名、松浦だけが少しばかりホッとした表情を浮かべている。やはりウンコから発せられていた悪臭は、相当にキツいものであったらしい。


「もしもここが教室でなかったとしよう。例えば俺が酔った勢いに、路上で見ず知らずの他人へ自分の糞便を叩き付けたとする。状況にもよるだろうが、間違いなく教師としての職を失い、刑事罰は当然のこと、民事裁判に掛けられて、被害者から幾百万という慰謝料を請求されるだろう」


 自席に着いた生徒たちを見渡して彼は続ける。


「今回、俺はこの件について、犯人を捜すつもりはない。当然、見て見ぬ振りをしたヤツがいたとしても、これを追求することもしない。この説教が終わったら、普段と変わらないまま過ごすつもりだ。校長だの教頭だのに話を広めるつもりもない」


 だがしかし、と彼は続ける。


「また同じことが起こったのなら、俺は必ず犯人を見つけ出して、その罪の所在を確かなものにする。そして、どれだけ学校側が渋ろうと、被害者には徹底的に加害者と争うよう、協力するつもりだ。時間を惜しまないつもりだ。まさか、加害者のその後の人生に気遣うつもりもない。その時点で、そいつは俺の受け持つ生徒じゃない」


 語る表情は酷く真剣だった。


 何故ならば彼は犯人が自分のクラスに居ると確信していた。


 だからこその熱血。


 それが同担任なりの、自分の仕事を全うする為の演出。リアル感を意識した説教のスタイル。これで彼は未然に幾つもの非行を防いできた、という自負があった。そして、実際に幾つかの不祥事は彼の努力により、学園の内々で処理されてきた。


 幸い今回の一件に関しても、突っ込みを入れる生徒は居なかった。


「以上だ。それじゃあ、授業に入るぞ」


 時間にして数分ばかり、言いたいところを言うだけ言って、彼は教卓に置かれた教科書を手に取ると、本来予定されていた授業を始めた。チョークを片手に、何やら数式を板書し始める。先に宣言したとおり、それ以上の追求は一切無い。


 ただ、そうして語った本人の精神は、一連の説教を終えたところで、少なからず高揚していた。同時に決して小さくない満足を得ていた。そうした彼の熱のこもった説教が最高にウザいと、実際に受けた生徒の間では評判である。


 西野のクラスの担任にして、学年主任を務める大竹清司が備えた短所の一つが、この自分に酔った説教である。ただ、それが今の彼の役職を確保するに、一役買っているのもまた事実だ。年配の教頭や校長といった役柄からは評判が良かったりする。


 ちなみに学年主任とは企業における課長に相当する役職である。冴えない禿中年である彼の年収は、しかし、優に七百万を越える。好きな映画は金八先生。四十を超えて独身ではあるが、将来は安泰。そして職場には好きに説教できる十代の女が沢山。


 いわゆる勝ち組の一つの形だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る