2.スイング

 素振りをするときは、イヤホンをして音楽を聴くことにしている。集中できるからとか、ルーティーンだからとか、プロっぽいことを言いたいけれど、そんなカッコイイ理由はない。ただ、バットが空を切る音を聴きたくないだけだ。悪いイメージが自分の体を蝕んでいきそうになるから。


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「あ〜この野球部ともお別れだ〜」と汚れたユニフォームを制服に着替えながら、タカヤがつぶやいた。

「おまえは勝手にお別れしとけや、俺は来週も来るけど」

「冗談、冗談。もう1ヶ月ヒロちゃん野球したいよーん」

 俺らが通う北峰中学では、全生徒が部活に入部することが強制されている。俺もタカヤも他のメンバーも、小学校からの野球経験者が多くて、部活選びで迷うことはなかった。


 この野球部には未経験者がほとんど入部しない。なぜなら練習の厳しさがあまりに時代に合っていないからだ。高校時代に、地元で名を馳せたらしい矢野先生が顧問になってから、誰もこの部活に寄り付かないのだ。毎日のようにグラウンドから怒鳴り声が聞こえてくるのだから当たり前だろう。

 一部の物好きだけが野球部に入る。理由は単純。強いのだ。矢野が顧問になって、弱小野球部は変わった。県大会で上位に食い込む機会が増えたし、3年前には全国大会出場を果たした。

 その試合を地元の野球少年団のメンバーで観戦した。そして、俺もタカヤも他のメンバーも、揃いも揃って驚いたのだ。少年団時代から顔を知る先輩たちを揃えた強豪校を北峰は圧倒したのだ。北峰が打つたびに沸き立つ野球場の風景が今でも頭から離れない。


 今日、大会前のラスト練習を終えた後、矢野は選手を集めた。

「俺が喉を枯らして、おまえらを鍛えて来たのはこの大会のためだからな。1つ1つ死ぬ気で勝つぞ。まだまだ鍛え足りてねぇから。来週も練習な。」

 練習を終えるたびに「ちんたらしやがって」とか「おまえ1人で片付けろ」とか、理不尽な言葉を浴びせてきた矢野が、この日は少し照れ臭そうだった。

 そのあと、マネージャーから選手全員にユニフォーム型の手作りのお守りが配られた。いつこんな細かいものを作る時間があるのだろうか。そのお守りをもらった時、俺たちは感謝を伝えるより先に笑った。なんで笑えるのかって、お守りにつけられた小さなポケットに矢野のメッセージが書かれたメモが入っているのだ。まったく、マネージャー陣の営業力に脱帽だ。自分だったら、あの鬼顧問に「選手1人1人にメッセージを書いてください」なんて言えない。女子ってのは、時に男よりも怖いもの知らずで、パワフルなところがあるんだよなぁ。


「ははっ、『おまえの球は現役の俺以外は誰も打てない』だってよ。ぜひ対戦させていただきたいですね!」

 誰よりも早くメモを取り出したタカヤは、頼まれてもいないのに大声でメンバーにメッセージの内容を報告した。本当にバカな奴だ。だからこそタカヤの球は素直で伸びがあるんだけど。しかし、改めて言われると嬉しいよな。俺まで照れ臭くなってくる。

 他のメンバーも「おまえの声がチームの支えだ」とか「ここぞの場面でおまえを使うぞ」とか、各々にメッセージを受け止めた。雑で汚いけれど、力強い字で書かれた言葉は、一人一人を勇気付けた。俺を除いて。


「おーい、ヒロはなんて書いてんだよー!?」

 タカヤにメッセージを覗き込まれた。あぁ、読まれる…。

「…これ、どういうこと?」予想は外れた。

「俺もわかんない」

 矢野からのメッセージは「おまえはもっとわがままになれ」だった。俺のメッセージだけ受け止め方がわからない。向上心がないってことか?ここまできても説教を受けているのか?

「…ま、あいつなりのメッセージなんじゃない?」

 タカヤはいじりがいが無いと判断したのか、適当にその場を流して他のメンバーの元に移っていった。

 矢野の言いたいことはイマイチわからなかった。でも、俺には矢野が気にかけていることに心当たりがあるような気もした。


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 俺は真っ直ぐ家に帰ることはできなかった。

 どうしても落ち着かなくて、近所の公園に立ち寄ってバットを取り出す。音楽プレイヤーにイヤホンを取り付け、コードが引っかからないように結び目をつくる。バットを振り始める。数は数えない。ただ気が済むまで、自分の中の不安が、もやもやが、消え去るまでバットをひたすら振り続けた。

 

 どのくらい続けているのだろうか。少しずつ手が擦れて痛くなってきた。試合前にマメでも作ってしまったら、本当にだめな奴だな。そんな奴を誰が信用するのか。それでもスイングは止められない。あと10回、あと10回と心の中で唱えても、どうしてもしっくりこなくて時間を延長していく。終わり方が見つからない。どうしてもボールを捉えて遠くに打ち返すイメージがわかない。それなのにどうしてかバットが空気を切って、体のバランスが崩れる感覚がある。球場全体のため息が聞こえて来そうだ。


「やってますねぇー」

 ふと目の前に影が見えた。とっさにイヤホンを外す。

「なんだおまえか」

「明日は大会だそうでー」

 語尾が伸びる甘ったるい声で話しかけてくるのは、公園の近くに住んでいる1つ下の後輩の麻衣子だ。時々、俺を見つけては自分のペースで話しかけてくる嫌なやつ。いや嫌な奴ってよりは、すげぇ面倒なやつ。

「そうだよ。だから、今日は邪魔すんな」

「やだねーだ」

「はっ?」

「…だって、血出てるんだもん」

 麻衣子は、バットを握る手を指差した。気付かなかった。豆を潰してしまったようで、血が赤黒くグリップに滲んでいた。いつの間に…。


「お父さんが帰ってきたときに『ヒロくんが今日も公園でやってるよ』って言ってたんだけど、私がお風呂入った後、窓の外みたらまだいるんだもん。1時間以上は経ってますよ?無理してるって私でもわかりますってー」

「え、今何時?」

「9時でーす」

「えっ」

 1時間もやってたのか。何も得てないのに、時間だけが経っている。

「はい、テーピング。家にあったから使っていいですよ」


 麻衣子はポケットから使いかけのテーピングを取り出すと、俺に向かってひょいと投げつけた。

「おう、わりっ」

 少し落ち着いたからか、手がジンジンと痛んできた。これは明日引きずるかもしれないなぁ。素早くテーピングを巻いて、いつのまにかベンチに座る麻衣子に返す。

 ひょっとすると、この程度の傷で済んだのはこの能天気女のおかげかもしれない。たまにはタイミングの良いこともしてくれる。


「悪いな。じゃキリも良いし帰るわ」

 なんとなく居心地の悪さを感じたのと、これ以上バットを振っても状況が悪化するだけだと悟って、俺はこの場から去ることにした。しかし、道具の入った重いカバンを担いで歩き出すと、後ろから声が聞こえてきた。

「つまんないなー」

 ベンチに座る麻衣子がこちらを見ている。「つまんない」ってどういうことだよ。テーピングをくれたのに素っ気なかったか?


「夜の公園で女の子と2人きりなんですよー?それも知らない子じゃなくて、同じ中学の1つ年下で…えーと、そんな子と2人でいて、明日が中学最後の大会って!!これってドキドキするやつなんじゃないですか!もっと漫画とか読んでくださいよー」

「は?」

 自然と冷たい反応が出てしまった。理由が意味不明すぎる。がしかし、次の言葉で、俺は寒気がした。


「去年みたいにならないでね」


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 去年の夏の大会のことだ。

 2年生でスタメン起用されていたのは、俺とタカヤだけだった。2年生ながらエースとして活躍するタカヤとは対照的に、俺は下位打線を盛り上げていたのだけれど。

 3年生の先輩たちは素晴らしい選手ばかりで、2年ぶりの全国大会出場の有力候補であった。初戦の対戦相手は練習試合で何度も勝利している近隣校。何度も対戦しているピッチャーで、球筋は全メンバーが知っている。しかし、なぜか誰もその球を捉えきれない。大きな目標を意識するあまり、目の前の対戦相手を通過点としか見れなかったと、先輩たちが後になって振り返っていた。

 そのうち点数が入るだろうと思いながら、スコアボードには0が並んでいく。ミスが絡んで中盤に失点を許してもなお、流れが変わることはなかった。「いつでも逆転できる」と全員が信じるうちに、いつの間にかゲームセットを迎えたのだ。


 その試合の最後のバッターが俺だった。俺が試合を終わらせた。

 1対0で迎えた最終7回裏の攻撃、さすがの北峰打線も意地を見せた。「中学最後の打席」のプレッシャーと戦う上級生には、野球の神様が舞い降りているように見えた。自分の前を打つ上級生たちがヒット・バントとチャンスを広げる。

 そして、ツーアウト2・3塁の一打同点、サヨナラという場面で俺は打席を迎えた。北峰ベンチ・観客席はようやく試合が始まったかのように、盛り上がりを見せていた。

「勝つか、負けるか、俺が試合を決める」と思うと足がすくんだ。上級生たちの叫ぶような声援がベンチから聞こえる。大勢の観客が押し寄せるスタジアムの視線が一気に打席に立つ俺に集まる。

 矢野はこの日、一本もヒットを打っていない俺を打席へ送り込んだ。代打要員の上級生を使うことはなかった。なんなら替えて欲しいくらいだった。この打席に立つのは俺でいいのだろうか。

 

 俺は1回2回とスイングを重ねた。ボールにかすめることすらできない。もはや自分がどこにいるのかわからなくなっていた。仲間の声援も大勢の観客の存在も、俺の世界から消えた。俺のバットはもう一度、空を切った。

 両サイドから大音量の声援が向けられているにも関わらず、なぜか自分のスイングの音だけがはっきりと聞こえた。その後のことはよく覚えていない。唯一覚えているのは、ブンッというスイング音と「お前のせいじゃないから」という先輩の言葉だ。


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「まさか初戦で負けるとはなー。ほら、先輩たちすごかったじゃないですかー」

「悪かったな」

「私、野球はよくわかんないけど、シホがものすごく落ち込んでてー。ほら、あのタカヤくんの追っかけしてる!無理やり連れてこられて、慰め役になる私の気持ちにもなってほしいなー」

 シホというのは、部活終わりにタカヤに手作りのお菓子を差し入れするあの子だろう。いつも、「野球部のみなさんでどうぞ!」とタカヤに小さな袋を押し付けて走り去っていく。「野球好きなんだな〜」とだけ呟くタカヤは、ある意味悪魔だ。


「あの試合の後から、家の前の公園でバット振ってる人を見るようになったんですよねー」

「…」

「すぐにわかりました。あーあの最後にバッターやってた人だって。バットの持ち方が変わってるんだもん」

「うるせーよ」

 こいつは人の嫌味をするのが好きなんだろうな。いや、むしろ俺のことをおちょくるのが好きなんだろうか。一応、体育会系の先輩だろ。

「でさー、たまに帰り道で『まだやるんですかー』って声かけるんだけど、イヤホンしてるから、がん無視なんですよ。ひどくないですかー?」

 あの頃から俺は素振りの時に、イヤホンをするようになった。自分のバットが空を切る音が聞きなくないから。あのスイング音が俺の耳から全く離れないから。


「…帰っていいか」

 嫌なことを思い出した。いやいつも頭の中にこびりついているものを、ペリッと剥がされて無理やり自分の目の前に差し出された気分だ。悪気はないにしても、こいつは気遣いってものを知らなすぎる。

「ダメでーす」

「なんでだよ」

「また負けちゃいますよ?」

 なんて事言うんだこいつは。

「…とにかく帰る。集合時間早ぇんだよ」


 再び歩き出そうとする俺に向かって、麻衣子は言った。

「ヒロくんは私に似てるんですよ」

「なんだよもう」

 学校では特に口を聞くこともないし、目を合わせてもすぐにそらすような仲だ。ただちょっかいをかけるだけのお前に、俺の何がわかる。何が似てるだよ。

「私こう見えて、1年の時、バスケ部でレギュラーだったんですよ?結構、運動神経には自信あるんです。お父さんが陸上選手だしねー」

 もう、目処が立たないので黙って話を聞くことにした。


「でもね、3年生の最後の試合でミス連発して交代させられちゃったんです。結果その試合、負けちゃったんです。優しい先輩方だったけど『あのミスが無かったらなぁ』って視線、言われなくてもわかりますよね。その後、良いタイミングでケガしたし、バスケ部辞めちゃったんです」

 麻衣子がバスケ部期待の新人と言われていたのは知っていたが、いつの間にか辞めていたのか。確かに、最近は派手な友達と遊んでいるところしか見ない。

「ケガをして松葉杖だった時に、シホに誘われて野球部の試合見に行ったんです。野球なんて興味なかったし、しかも全然打たない試合だったからつまんなかったなー」

「悪かったな」

 やけに外の空気が静かに感じる。ベンチに座りなおした麻衣子は遠い空を見つめながら、俺じゃない誰かに話してるようだ。


「でも、最後になんか盛り上がってきて北峰が勝つかも?ってなった時に、ちょっと頼りなさそうな人が出てきたんですよねー」

「バカにしてんのか?」

「違う違う!最後まで聞いて!」

 人の話を聞けないのはお前だ。黙って聞いていれば、生意気なことばかり。あぁ早くこの場を立ち去りたい。

「その人が打てなくて、負けちゃったーってなった時に、『あーあいつが打てばなぁ』って観客席で周りの人がつぶやいて帰ったんですよねー。それでなんとなく思ったんです。あの人は私と同じだなって。もう野球しなくなっちゃうんじゃないかなって」

「…」

 確かに、野球を辞めたいとも感じた。だけどできなかった。俺には仲間がいるから。先輩たちの期待もあるから。それを全て投げ捨てられなかった。

「でも、その人は野球辞めなかったし、しかも毎日毎日、公園でバット振ってるんですよ。何時間も何時間も」

「おまえとはちげーんだよ」

 イライラが募って、少し声が大きくなってしまった。麻衣子がビクッと肩をすくめる。


「グサッと刺さりますねー。だけど、その通り。私は逃げちゃったけど、ヒロくんは逃げてない。向き合ってる。野球部のキャプテンがヒロくんになったって聞いたとき思ったんです。ヒロくんみたいに、みんなの責任を背負える人、みんなが応援したくなるような人がリーダーになるんだなって」

 あーうるさいうるさい。俺がキャプテンになったのは、同学年でまともな試合経験があるのがタカヤと俺しかいなかったからだし、その二択なら俺しかいねぇんだよ。

「まぁおまえの知ってる通り、大事な試合を台無しにする頼りないキャプテンだよ」

「そうなのー?今年は結構マッチョじゃないですかー」

 麻衣子は自分の細い腕で、力こぶを作るような仕草を作ってふざけた。

「ねーえ?」

「もうなんなんだよ」

 一段とトロンと甘えたような声で麻衣子が話しかけてくる。相変わらず、目線は遠い空にある。


「もう1回さっきのやってみてくださいよー」

「さっきの?」

「バット振るやつ」

「なんでだよ」

「いや私こう見えても、いつも窓からヒロくん見てますからねー。何かアドバイスとか言えるかもしれないじゃないですかー」

「野球に興味ないやつが?」

「うん」


 なんでこんな奴に…と思いつつも、こいつを諦めさせるには言うことを聞くのが早そうだ。でも…


「知っての通り、流血しちゃってるから無理」

「えーつまんなーい」

「つまんないじゃねぇよ」

「じゃなくて?」

「…なんなんだよ」


 麻衣子の顔が少しずつウキウキとした表情になるのがわかる。このおてんば娘は何を考えているのかわからない。なぜか自分の心を見透かされているような気分になる。


「あーもう、1回だぞ」


 ケースからバットを取り出して、俺は軽くバットを振って見た。


「はい、終わりな」

「ちゃんと!」

「力入らねぇって言ってんだろ」

「今ので本気なんですかー?」

「本気なわけねぇだろ」

「わーよかったー。じゃ次本気で」


 くそっ。今度は力を込めてバットを振る。ズキッと潰れたマメが痛む。


「ほら、これで良いか」

「ダメ」

「なんでだよ。今のは力入れたぞ」

「そうだなぁ、可愛い女の子が悪者に襲われてると思って!ほら!」

「意味わかんねぇ」

「じゃぁほら、去年の試合の場面だと思って」

「去年の試合…」


 人のトラウマにズカズカと踏み込みやがって。この女…


「やりゃいいんだな」

「はい、9回ツーアウト満塁!バッターはヒロくんです!」

「中学は9回無いから」

「細かいこと気にしないでくれます?」


 ここまで来たら冗談に付き合おうと、いつものルーティンをしてバッターボックに入る所作から初めてみる。

 前方に相手のピッチャーをイメージする。…と、そこには真剣な眼差しでこちらを見つめる麻衣子がいた。一瞬目があって、目線をそらしたけれど、すぐにまたその目に吸い寄せられた。不思議と集中力が高まっていく。


 あぁ。あの時、俺は何を考えていたんだろう。自分が試合を決めてしまうという場面になって、怖気づいてしまったのだろうか。背負うだけ責任を背負ってしまって、パンクしてしまったのだろうか。目の前の景色が真っ白になって、集中がどこかにすっ飛んでしまった。ただボールが来て、カスることさえできず、試合が終わった。嫌だ。繰り返したくはない。嫌だ…。


 俺はピッチャー投げたであろう球を思い切り打ち返した。打球音の代わりに「ぶんっ」と風を切る音が響いた。


「わっすご。ぶんっ!てなりますねー。さっすがー」


 俺の耳に1年間こびりついていた音。この女に頭から引き剥がされて、耳に突きつけられた音は、なぜか嫌な気がしなかった。聞こえるはずの歓声の代わりに「キャハっ」と麻衣子のご機嫌な笑い声が聞こえる。


「明日シホと一緒に試合、見に行くんで。私のためにも打ってくださいねー」

「なんでおめぇのためなんだよ」

「そんなのシホが不機嫌になるからに決まってるじゃーん」


 麻衣子は立ち上がって、家の方向に帰ろうとした。


「おい、アドバイスはねぇかよ。一流コーチじゃなかったのか」

 手がジンジンと痛んでいた。おまえのせいだぞ。

「あ、1つだけありますよ」

「おう」

「緊張したら、私を探してください」

「は?」

「ほら女の子がキャピキャピ応援してる姿を見たら、ちょっと頑張れるでしょ?黄色い声援ってやつです」

「帰るわ」

「ひっどーい」


 俺は家路へと急いだ。1年間ずっと聞かないようにしていたスイング音が、頭の中で鳴り響いていた。そのスイングがしっかりボールを捉えてくれたら、どんな打球が飛んでいくのかと想像するのとワクワクした。

 なんともイライラさせられた試合前日の出来事だったけれど、まぁ気分転換くらいにはなったように思った。

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 初戦の格下が相手だった。北峰は去年ほどの爆発力はないけれど、エースのタカヤを中心に手堅いチームに仕上がっている。矢野は「おまえらの試合を安心して見れたことはない」と話すが、それでもほとんど黒星をつけたことがない。何よりタカヤが簡単に打ち込まれることがないからだ。爆発力はなくとも、機動力小技を駆使して、1点を取って守り抜くことに長けているチームだった。

 だが、もちろん今年のメンバーは去年の悪夢を知っている。誰よりも身に沁みている俺が形だけでもチームの先頭に立っているんだ。


 俺らの試合は大会の二試合目だ。試合までの時間は、簡単にアップをしながら試合を観戦して過ごす。不意に隣に座っていたタカヤが話しかけてくる。


「どうよ」

「どうよって?」

「いや、一年越しにここにやって来てどうよって」

「あぁ」


 どうかと聞かれると、浮かれてもいないし、落ち込んでもいない。強いていうなら、何かを探し続けている気がする。


「んーソワソワしてる」

「ソワソワ?」

「いや、去年を思い出すよね」

「そっか」

「もちろん試合にはワクワクしてるんだよ。俺らの代のチームがどこまでいけるかって。全国いけるかもなって。あの先輩方を越えれるかもって。でも、なんかさ…」

「もしかして、まだ引きずってる?」

「…ちげぇよ」

「ふーん」


 腐れ縁の親友には全てがお見通しかもしれないな。


「…あの時、俺が点数やらなければ、おまえに辛い思いもさせなかったな」

不意にタカヤが悲しげトーンで話し始めて驚いた。

「おまえは良かっただろ」

「俺にも背負わせろよ」

「え?」


 タカヤが小さくとも凄みを感じる声で言った。2人の間に流れる空気が凍りついた。


「勝ちも負けも、おまえでひとりで味わうなよ。独り占めすんなよ。俺にも背負わせろ。おまえと喜びたいし、悔しがりたいんだよ。結果だけじゃねぇだろ」

「そうだな」

 多くを言い返せなかった。

「いいか、俺は投げるぞ。おまえは打て。それで勝てる。それができたら皆で喜ぼうや」

「おう」

「…じゃ、ちょっと走ってくるわ」


 タカヤは立ち上がって足早に去って行く。照れ隠しだろうか。だけど、あいつの言うことはいつだって芯を捉える。


「そうだ、今のうちに言っとくけど」

 走り去ったと思ったタカヤが戻ってきて、俺に語りかける。


「もっとわがままになれよ、キャプテンさん」

 どこかで聞いたことのあるセリフを親友はニヤニヤした表情で言い放った。


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 球場には今年も大勢の野球ファンが訪れた。相変わらず、この地区は中学校野球でも盛り上がる。毎日のようにグラウンドに響く怒鳴り声を聞いているのだから、近隣住民が心配して見にくるのだろうか。

 試合展開は想定とは違ったものになった。初回にタカヤが崩れた。「わり、早速点数取られたわ」とベンチに戻るタカヤ。彼も彼なりにプレッシャーを背負っていたのだろう。先頭バッターにフォアーボールを出すと、バントとゴロでランナーを進められ、相手の4番にあっさりと先制された。相手からすれば、理想的な初回の展開になっただろう。しかし、北峰ベンチはやけに落ち着いていた。去年とは違う。全員のスイッチはすでに入っていた。


「おまえらはビハインドぐらいがやりやすいだろ?」

 サングラスをかけたヤクザにしか見えない矢野が、ベンチで選手に声をかける。試合はすでに始まっているし、簡単に勝てるとは誰一人思っていない。


 心のスイッチとは裏腹に、北峰はなかなか反撃できなかった。テンポの良い投球を取り戻すタカヤとは対照的に、打撃陣は奮わない。スコアボードにはゼロが並んでいった。「この回こそ」「この回こそ」と繰り返して、ついに6回目の攻撃を迎えた。ここまでチームのヒットは3本。俺は2打席凡退していた。相手のピッチャーは決して良いピッチャーではない。言ってしまえば打ちごろの球を投げている。でもどうしてなのだろう、好打がことごとく相手の守備の正面をつくのだ。嫌な予感がした。俺の心にざわざわとしたものが煮え出している。


 6回裏の攻撃が始まる前に、矢野は選手を集めた。

「この回が勝負だ。ヒロヤスまで回せ!いいな」「ハイッ!」

 自分の名前を呼ばれて一瞬ビクッとした。なんでわざわざプレッシャーをかけるようなことを言い出すのか、この鬼はどんだけ空気読めないんだよ。


 この回の先頭は2年の大谷だ。お。顔が、違う。あれは何かを企んで…。


 コンッ


 大谷は初球をセーフティーバントした。サード手前に転がるゴロ。反応が遅れたサードは一塁に送球することができず、ベースに飛び込んだ大谷はガッツポーズを見せた。

「よっしゃああああ!!」

 球場が沸き立った。こいつはやってくれる。来年のチームも面白くなりそうだな…とこんな場面で考えてしまう。対して矢野は苦笑いだった。ノーサインだったのだ。大事な回の先頭バッターでノーサインでバントしやがった。結果オーライだから良いものを…。


 相手チームに焦りの雰囲気が明らかに現れた。流れは完全に北峰側にやってきた。この回だ。

 ふと、矢野が「ヒロヤス!」と俺を呼び寄せた。「ハイッ!」と駆け足でベンチに腰掛ける矢野のもとに向かう。戦況を見つめたまま、矢野は話し始めた。


「この回が勝負だからな」

「ハイッ!」

「今年もおまえだな」


 次のバッターは内野ゴロに倒れた。ワンアウトランナー1塁となる。

「代打、出していいか?」

 矢野が本気で言ってないことはわかったけれど、つい少しだけ考えてしまった。

「…打たせてください」

 セフティーバントの場面でガッツポーズをしながら、俺の心のざわめきはどんどん増して来ている。この回に俺の最後の打席が回ってくることは予想できた。それも試合を決めるような局面で、去年のような局面で回ることが。


「冗談だ。打てる奴いねぇから」

「…ハイ」

「実はな、去年おまえに代打を出そうか迷ったんだ。試合に出ていない3年生もいたしな。だけど、俺はおまえを使った。結果はまぁ、俺のミスだったけどな。で、なんでわざわざ俺がおまえを使ったかわかるか?」

「…わかりません」


 続く2番打者は、明らかに力の入ったスイングを見せて、ファウルフライに倒れた。がっくりとうなだれた表情で戻ってくる姿は見ていられない。次のバッター3番のタカヤに矢野が、「打て」のサインを出す。

「おまえを使ったのは、おまえは逃げないと思ったからだ」

 矢野の言葉の意味を理解しようとして、俺は黙って考えてみた。

「おまえは責任感がある。全部俺がやる。俺が決めるって思ってる。背負いこみすぎてパンクするから困るんだけどな。でも、そんなおまえをチームメイトは信頼してんじゃねぇのか?違うか?」

「ハイ…」

「去年も、しっかり3回ブンブン振ってくれたじゃねぇか。あれだけ大振りしてくれるとかえって気持ち良いわ」

 矢野なりに俺を奮い立たせようとしてくれることがわかった。


「一打席くらい、わがままになっていいんだぞ」

「…どういうことですか?」

「おまえに楽になれとか言っても無意味だからな。背負うだけ責任を背負え。そして、わがままになれ」


 カーン!


 タカヤの打球はレフト線にライナーで転がっていった。それをみた大谷は一気に3塁まで到達。打ったタカヤも守備がもたつく好きに2塁に向かう。ツーアウト2・3塁。打順は4番だ。

「好きにしろ」

 背中をドンと押されて、俺は打席に向かう。打席に向かう途中で、「オラアアアア、おまえら声出せえええ」と矢野が叫んだ。チームメイトがそれに答えるように「ヒロォォォ」と声をかけてくれる。2塁のタカヤ、3塁の大谷も声をかけてくれる。


 俺の最後の打席がやってきた。


 球場は驚くほどに盛り上がっている。試合を待つ他チームのメンバー、地元の野球好き、メンバーの父母…。ピッチャーが第一級を投げる。


 バスッ


 1球目を見逃した。真ん中寄りの甘い球だったかもしれない。でも、手を出さなかった。いや、出せなかった。まだ俺には何かが足りない。2球目を待つ。次は打つ。

 相手ピッチャーが長い間の後に、振りかぶって2球目を投げた。きた。この球だ!


 ブンッ


「しっかり見て!」とベンチから声が聞こえた。俺が捉えたと感じた球は、すんなりとキャッチャーミットに吸い込まれていた。狙い通りの球だったのに。

 カーンという気持ち良い音ではなく、風を切る乾いた音。去年も聞いた音。そして、昨日から頭の中で響き続けている音…。


「緊張したら、私を探してください」


 ふと俺は観客席を見上げた。大勢の観客の中に、うちの学校の制服を着た女の子が2人いる。1人の女の子が立ち上がって声援を飛ばしてくれている。が、俺の視線はその隣に向かう。


「…なんでだよ」


 あいつは、麻衣子は、がっちり握った両手をひたいに当ててうつむいていた。何かを祈っていた。観客席でキャピキャピ応援してくれている可愛い女の子はどこだよ。

 俺はバットを構えた。矢野の、チームメイトの、敵陣の、観客の声を感じた。こんなに大勢の視線を感じながら野球ができることに幸せを感じた。そして、メンバーが頼りないキャプテンを信頼してくれるのが嬉しかった。


 どうしてだろう。わかってしまった。相手ピッチャーがどんな球を、どのコースに、どのタイミングで投げてくるか。それを自分がどんなスイングで、どこに打ち返すか、チームメイトの喜ぶ姿、歓声が沸き起こる様、全てが見えた。

 ごめんな、みんな。少しだけわがままになるわ。一瞬だけおまえらのことを忘れさせてくれ。今はあいつの顔を上げさせて、「恐れ入りました」と言わせることしか考えられねぇや。

 

 カーンッ!


 俺が思い切り打ち返した打球は、気持ちの良い音をあげて大きな弧を描いた。球場にいる誰もがその打球を目で追った。ただ一人を除いて。

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