第40話「フライング・シセンリュウ」

 あのあと、優輝ユウキたちは共に朝食を食べて登校した。

 なんだか、妙な気分だ。

 受験生本番に突入する前の、ちょっと贅沢なモラトリアム。平日にお泊り会なんて、きっと一生に一度の思い出になるだろう。

 優輝にとって、忘れられない一夜だった。

 そして、忘れられそうもない今朝の出来事。

 自己嫌悪があとから襲ってきて、自然と溜息が口をついて出た。


「およよ? どしたー、優輝? 寝不足かにゃー?」


 教室で無事に午前の授業を終え、昼休みのチャイムを迎えた時だった。

 クラスメイトたちが待ってましたと席を立つ中、千咲チサキが優輝の席へ駆け寄ってくる。いつもなら朔也やシイナを誘ってランチタイムになるが、今日は少し違う。

 なんだか、心ここにあらずといった状態で午前中が終わってしまった。

 こんなに授業に身が入らないのも初めてだし、空腹も感じられない。


「あ、千咲……えっと、次の教室は」

「飯じゃよ、飯。つーか、優輝? ははーん、わかった、わかってる、なにも言いなさんな」


 千咲は、黙っていれば超絶美少女の逸材である。その上に社長令嬢でスタイルも抜群、そんな彼女が側にいたから、以前の優輝が発する王子様オーラたるや凄まじかった。

 今はいい友達、親友だ。

 その千咲が、したりという顔でフフフと笑う。


「あれだよね、こう……周囲のみんなはさ、アタシたちが朝帰りだって知らない訳じゃん?」

「う、うん……まあ」

「なんか、こう、さ。それって……ちょっと、オトナじゃんかねえ?」

「そ、そうかなあ?」

「昨日の夜、楽しかったね……臨海学校と修学旅行を足して、卒業旅行で割ったような」

「……うん」


 夢のような時間だった。

 そして、終わった夢の続きを見届けた。

 シイナと一緒に共有した夢を、異国の少女が受け継いでゆくのかもしれない。

 大好きだった人はこれから、優輝の兄として新しい恋を見つけるのだ。

 そうだったらいいなと、今は素直に思えない。

 そういう自分の後ろめたさが、今日は聡明で利発な優輝の頭脳をくもらせていた。


「今度はさ、みんなで無事に受験を終えたら……また、あのメンバーでやりたいなあ」

「そ、そうだね」

「優輝は大学? アタシはねー、経営学狙いで国立一本のつもり。だから、来年はきっと」

「あー、そっか……考えたこともなかった」

「おいーっ! 優等生の余裕かっ! なんてな、ニシシ」


 白い歯を見せて千咲が笑う。

 でも、彼女はポンと優輝の肩に手を置いた。


「時間に頼ってみよーよ、ね? その間はさ、なんか楽しいこと探して……アタシも相談に乗るし、一人の時間が必要なら言ってよね」

「千咲……」

「前にも言ったけど、アタシたちもびっくりしてる。そういう星の巡りだった、なんて納得するのは難しいよ。でも」

「うん。そこは振り切ったつもりだったんだけど。ふふ……私、まだまだなあ」


 ちらりと視線を滑らせると、シイナはまだ一生懸命にノートを取っていた。

 この数ヶ月で、随分と日本語の読み書きにも慣れたみたいだ。

 もともと日本のサブカルチャー、いわゆるジャパニーズ・オタク文化に傾倒していたシイナである。日常会話は勿論、日本語の漫画や小説を読むのは以前から達者だった。

 だが、これが書くとなると少し勝手が違ってくる。

 それでも、優輝たちが熱心に教えた甲斐があって、今では少し人より遅い程度である。

 そして優輝は、律儀で生真面目なシイナの癖字が好きだった。


「ああ駄目だ、駄目、ダメダメだ私」

「ん? どしたー、優輝」

「いや、好きは駄目……それはそうと、お昼ごはんにしよっか。えっと、朔也サクヤは」


 ちらりと見れば、あの男……お泊り会の主催者、撃沈。

 見るも見事な居眠りっぷりで、机に巨体を突っ伏して寝ていた。

 なんだか、デカい猫が身を丸めて眠っているかのようである。そんな彼氏の姿を見て、千咲は「あぁ?」と美少女キャラ崩壊の顔を見せる。女の子がしてはいけない表情である。

 ドカドカと大股で朔也に歩み寄る千咲を見送り、優輝も席を立った。

 少し考えてから、態度と対応を決めてシイナに近付く。

 身構えざるを得ない今が、もどかしい。


「シイナ、大丈夫? わからない字とか、ない?」

「あっ、優輝! ありがとっ、平気だよ。書くのも随分慣れたからねっ」

「ふふ、シイナは頑張ってるもんね」

「まーねっ! だって、優秀で完璧な妹と駄目兄貴だと、ドラえもんになっちゃうでしょ?」

「そ、そなの?」

「うんっ! ドラえもんにはドラミちゃんっていう妹がいるけど、どう見てもドラミちゃんの方がハイスペックなんだあ。それも理由があってね」


 あの国民的アニメに、そんな設定があったとは驚きだ。

 同じ缶のオイルを使っているから、兄と妹らしい。そして、缶の中でオイルは自然と時を経て、濃い部分が沈み、薄い部分が浮かび上がった。そのうわずみみたいなのを使ったのが兄で、濃密な底の部分を使ったのが妹だったらしい。

 でも、優輝とシイナの事情は違う。

 同じオイルを分けた本当の兄妹じゃない。

 そして、これから兄妹として生きることを運命づけられた仲なのだ。

 それを受け入れた優輝にはまだ、わだかまりが燻っている。

 けど、家族の幸せのために飲み込めそうな痛みだった。

 喉元過ぎれば熱さを忘れる、そういう言葉もある。


「シイナ、ここ間違ってる。この字、左右逆」

「あっ、本当だ! 日本語って難しいよね」

「漢字もあるし、時と相手によって使い分けることが必要な言葉だからね」

「でもボク、日本語好きだよ? 日本も大好き」

「日本の文化が、でしょ? でも、私も好きだな。奥ゆかしさやつつましさ、好き」


 そうこうしていると、ようやくシイナは黒板に書かれた授業内容の要点を写し終えた。字は下手っぴだが、なかなかに要所要所を抑えたノートは流石と思えた。

 不器用なとこもあるけど、一生懸命な全力全開のシイナがそこにはいた。

 だが、彼女にしか見えない彼はもう……彼氏こいびとではない。

 そして、その現実を上書きする声が突如として響いた。


「アイヤ、シイナー! お疲れ様アル! よかたらお昼ごはん、ご一緒したいアル!」


 おひさま燦々さんさんの眩しい笑みで、リャンホアが現れた。

 言動はトンチキだが、大陸生まれの大陸育ち、見るもうるわしい美少女である。しかも、ファーストコンタクトこそ不穏だったが、優輝にとっては新しい友人である。

 異国から来たリャンホアとは、文化や価値観の違いにびっくりする。

 シイナがたまに口にする、デカルチャーという言葉はこれなのだろう。

 シイナは驚きつつも、リャンホアを見て笑顔で立ち上がった。


「あれっ、リャンホア? ああ、丁度よかった。呼びに行こうと思ってたんだ」

「アイヤー! それ、奇跡的感激アルヨ! この嬉しさ、ジャパニーズ・語彙喪失ごいそうしつアルネ」

「あははっ、変なの。ボク、いつも優輝たちとお昼一緒なんだ。リャンホアも」

「おおう……ならばっ! これまさに、ジャパニーズ『こんなこともあろうかと!』アルヨ」


 なんだか制服姿もきらびやかに見えてしまう、そんなリャンホアが左手でなにかを突き出した。それは、重力と慣性にギリギリで耐えてる謎の塔だった。

 そう、御重おじゅうだ。

 重箱タワーである。

 調理室に保管されてるのを覚えている。

 実習では、花見の季節にみんなでお弁当を作るのに使った。

 だが、リャンホアの一挙手一投足に揺れる姿がまさしくバベルの塔だった。


「ワタシ、皆の分もお弁当作ったアルヨ! これまさに絶品……御賞味ごしょうみあらしゃりませアル! ――っと、ととと? あわわ、鎮まれ、鎮まれアル! ワタシの左手!」


 リャンホアがバランスを崩した。

 危険な曲線にたわんだ重箱の全てが、重力に身を委ねて乱舞した。

 リャンホア、意外にドジっ娘である。

 優輝にとってはつい、それすらも演じているキャラ付けなのかと思えてしまった。

 そんな自分がまたしても嫌になって、とりあえずシイナをかばう。

 リャンホアが友達同士でワイワイつつきたかった料理が、全て台無しになって降り注ぐ。その大半を優輝は、シイナの代わりに浴びる羽目になった。

 通り過ぎてく匂いも、直撃する香りも、食欲を思い出させて刺激する。

 だが、現実にはビチョビチョでベチョベチョな自分がいるだけだった。


「あわわ……ごっ、ごめんアル! やってしまたアルヨ……シイナ、大丈夫アルカ? それに、優輝も」


 恐らく、リャンホアのクラスは家庭科の調理実習だったのだろう。だが、エビチリや青椒肉絲チンジャオロースに塗れたままで、優輝はまばたきを繰り返すしかできなかった。

 でも、怒ったり激昂げきこうしたりしない。

 妙な話だが、おっちょこちょいな嫁を見るしゅうとめの気持ちがわかった気がした。

 だから、自然と笑顔で自分の卑屈な卑怯者の一面を振り払う。


「ドンマイ、リャンホア。気にしないで」

「で、でも、優輝……ワタシ、なんてことを」

「ね、リャンホア。焼きそばパンって食べたことある? えっと、大陸だと焼きそばは」

「焼きそば……炒麺チャーメンアルカ? でも、パン?」


 すぐにシイナが、リャンホアに駆け寄り手を取る。

 そういうとこ、憎いぞ? お兄ちゃん。

 だから、優輝は理不尽で不条理なアクシデントになんか負けない。負けてやらない。リャンホアにも負けてほしくないと、この時は心から思えた。


「リャンホア。片付けは私たちがやるから、シイナと購買部に行っておいでよ。リャンホアのお弁当は駄目になっちゃったけどさ。焼きそばパン、この学校の名物だから」

「優輝……で、でも、ワタシ」

「いいから、いいから。さ、シイナ。エスコートしてあげて。私は大丈夫だから」


 寝起きの朔也も、その耳を引張る千咲も驚いた顔をしていた。

 なによりシイナが、黙って立ち去れぬという目で優輝を見る。でも、通じてと願って祈るように、優輝は瞳で頷く。

 こうして優輝は、午後の授業をジャージ姿で過ごすことになるのだった。

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