春の嵐の贈り物

山本 風碧

隣のイケメンに○○○を拾われました。

「あーもう! なんでよりによってアレを飛ばしちゃうわけ!?」


 ベランダに突っ伏したくなった私の髪を、苦境を作った原因の大風が巻き上げていく。


 千葉という土地は風が強い地域らしい。

 就職先に選んだ会社は江戸川にあったけれど、縁あってこの土地に住み着いた。

 突風が吹いていても誰も話題にしないところから、普段から風が強い土地なのだろうとは思っていたけれど……。正直、ここまでとは思わなかった。

 このマンションに引っ越してきてまだ一月だが、洗濯物が飛んで行くことは既に三回。

 ものが飛ぶ度に対策を重ね、ハンガーは物干し竿を挟めるタイプに買い替えたし、ピンチハンガーもステンレスの丈夫そうなものに買い替えた。

 だけど、太平洋で生まれた千葉の風は手ごわかった。

 本日飛んだものは、しっかりとピンチで挟んだはずの下着だった。

 一応、一人暮らしの女の嗜みとして、そのまま堂々と干すことはしなかった。バスタオルで囲いを作り、その中に干していたのだけれど……売りとなっている肌触りの良さが仇となったのだろうか。

 引っかかりがないがゆえに、見事にバスタオルの壁を飛び越えて、更には隣の部屋の手すりまで飛び越えて着地していた。


 ――隣の部屋のベランダへと。


 手すりに身を乗り出して、隣を覗き込む。

 は隣家のベランダの隅に落ちていて、おおよその距離は二メートル。いくら伸ばしても手は届かない。

 外に落ちてたらこっそり拾いに行けたのにさ! どうしてよりによってそこに落ちてしまうわけ!?

 私はベランダに屈みこんだまま、今後自分に降りかかるであろう二次被害について真剣に悩んでいた。

 パンツ一枚でどうしてそこまで? と思うかもしれないけれど、考えてみて欲しい。

 隣人が男性だとすると? しかも自分と同じ年代の、若い男だとしたら?

 たまたまエレベーターなどで一緒になったときに挨拶程度はするけれど、名も知らないくらいの通りすがりに近い人だ。近所付き合いをするつもりがなかったので、会ってもすぐに顔を下げてしまっていた。顔さえもあまり見ていないので、どんな人なのか全くわからない。

 彼の方もきっと同じだと思う。


 それでも彼はきっと落とし主を確定するだろう。

 なぜなら彼の部屋は三階の角部屋であり、もし洗濯物が迷い込むとしたら、うちか上階の住人となる。

 だが私には既に前科がある。

 以前に飛ばした洗濯物の三回のうち一回が、彼の部屋に迷い込んでいたのだった。


 落とし主を確定した場合、次に彼が取る行動。普通は


 一、ゴミとして捨ててしまう

 二、届けてくれる


 の二択だ。


 どうか一でお願いします!

 私は願うけれど、二の可能性が非常に高い。というのも、前回はうちのベランダの手すりにハンガーごと戻されていたからだ。ちなみにその時はお礼のお手紙とお菓子をポストに入れておいた。


 だけど今回は?

 丸めて投げ込む? 丸める? パンツを?

 で、その場合、返してもらったお礼を言いに行く? いや手紙だとしても無理だから、それ。文面思いつかないし。


 想像すると、恥ずかしいだけでなく、相手にも申し訳なくて死にそうだ。気まずいことこの上ない。

 いっそブツだけ残して引っ越してしまおうか! そんな衝動が湧き上がるけれど、敷金と礼金を考えると、薄給の今は無理だ。なによりこのマンションは、駅近で買い物にも便利なので気に入っているのだ。

 そうだよ、あんな安物パンツごときで引っ越すのはもったいないよ! 

 現実的に考えよう、冷静になれと言い聞かせる。

 知らんぷりする? そうだ、うちのじゃありませんってしらばっくれる? 

 ふと上を見た私はふとひらめいた。頭上には長い物干し竿。

「そうだよ、見つかる前に回収できたらそれが一番だよ!」

 善は急げと私が物干し竿を外して、脇に構えたときだった。

 どん、と隣の部屋で音がした。当然同じ作りなので、アレが何の音かはわかる。玄関の扉が閉まる音だ。

 えっ。このタイミングで帰宅? ちょっと神様、ひどすぎない!?

 私は思わず仕切りの影に隠れる。隙間からベランダを覗いて蒼白になる。

 隣の物干しには洗濯ものが干されている。

 ってことはつまり――

 直後、予想通りにガラガラと窓が開く音がして、私はひっと悲鳴を飲み込んだ。

「…………」

 部屋の明かりがベランダの床を照らしていた。

 男は無言で洗濯物を取り込んでいく。ぱちん、ぱちんとピンチを弾く音がいくつか響いたあと、特に目立った反応はないまま彼は部屋に引っ込んだ。

 暗いから、気づかなかったのかな? そう思った私は再び危険物処理に向かおうとして、目を見開いた。

「え」

 先程まで落ちていたブツが、きれいに消えてしまっていたのだ。

 


「……ゴミ処理の方だった?」

 私はソファに沈み込むと呆然とつぶやいた。

 だとしたらよかったと思いたいけれど、よくよく考えるとゴミとして出されるところを確認することは出来ない。

 アレの運命を知ることは出来ないと気がついたら、急に不安になってきた。

「あー、まさかだけど、《三》とかいう可能性はないよね……?」

 つぶやいてゾワッと鳥肌が立つ。考えたくなくて候補に挙げなかった可能性。

 つまりはネコババ。

 自意識過剰かもしれないけれど、世の中には下着泥棒という悪しき性癖を持つ人だっている。そういった用途で使われないとは限らない。

「いーや、いやいやいや、ないよ、持ち主、私だし!」

 ははは……、まさかーと笑ってみるけれど、確認が取れないということは可能性がゼロではないということで。

 隣人の人となりを知らないせいで、まったく予想がつかずに困惑する。

 かといって、返してくださいと自分から行く勇気はない。

「だいたいなんて言って返してもらうわけ? おたくにパンツがお邪魔してるので、返して下さい?」

 いろいろありえない。てか、もっと言いようがあるだろ、私。




 あまり眠れないままに夜は明けて、翌朝のこと。


 会いませんように。

 願いながら部屋の鍵をあける。

 今までに朝出会ったことは一度もないから、おそらく大丈夫だと思うけれど――

 えいやっと思い切ってドアを開ける。しんと静まり返った廊下にほっとした。

 だが、直後、かちゃりと鍵が開けられる音がして私は文字通りに飛び上がった。

「あ」

 扉の隙間から目が合う。はじめてまともに見た顔の予想以上の端正さに私は目を見開く。

「あ、あの」

 動揺しつつ、アレの行く末を尋ねるかどうか迷った私は、はっと目を見開いた。

 彼はゴミ袋を手にしている。そういえば今日は燃えるゴミの日だ。あれは布なのできっと燃える。

「あ、あの!」

 その中にパンツ入ってます? 働いていない頭が質問しろと命令を下した。喉元まで出かかるが、理性がなんとか待ったをかけた。

 ――え、私この人にほんとに言える? それ。

 逡巡しているうちに、お隣さんはドアを閉め、鍵をかけ、こちらに向き直る。

 え、あ、もしかしたらそっちから来てくれますか? でも何て言うわけこういう場合! パンツ落ちてましたよ? まさか!

 思わず構えた私に向かって、

「おはようございます。いい天気ですね」

 彼は、すこぶる爽やかに笑うと、何事もなかったかのように脇を通り過ぎていく。


 え?


 え? 今の、どう解釈すればいい?

 いい天気? 今日曇りだけど? つまり、何かの皮肉? 洗濯してもいいですけど、干すときに対策して下さい的な? 


 『いいお天気ですね』の様々な解釈が、頭の中を飛び交う。呆然と立ちすくんでいると、ふとネームプレートが目に留まった。

 それはかっちりとしたデザインフォントで作られている。単身者向けマンションで表札出すなんてきちんとしているなあと思う。

 笑顔の挨拶と表札で印象は良くなる。しかも相手は結構なイケメンだった。

 こ、これはもしやロマンスの始まり? ぼうっとなりそうになったが、直後私は「アホか」、現状を思い出して自分の頭をげんこつで殴る。

「どう考えても違う! これ、不審物落ちてました系の事故だよね! 平謝り案件だよね!?」

 瞬く間に踏み潰されるお馬鹿な妄想。

 青くなって、ああああああ、と叫びながら私は階段を駆け下りた。



 *



 例えば、古典的な恋愛テクニックに、ハンカチを落として拾ってもらい、話題作りをするという物がある。

 だが、それはハンカチという当り障りのないものであるからこそ話題が作れるというもの。もし落ちていたものがとてつもなく話題にしにくく、話題にしたが最後、下手をすると変態扱いされてしまうものだとしたらどうだろう。


 ある日家に帰ったら、ベランダに黒い物体が落ちていて。

 布のようだと拾ってみて、直後、僕の体には電流が走った。

 それがなんであるのかと、落とし主が同時にわかってしまったからである。

 とっさに握りしめたまま部屋に入ったのだけれど、よく考えるとそれが間違いのもとだった。

 冷静になってみると、相手の出方がわかるまで気づかないふりをして放置が最善だった。そのままそっとベランダに投げ込むのが次善の策だろうか。

 だが、一度回収してしまったからには、何らかの形で処分しなければならない。


 一、そのままゴミ箱へ

 二、隣へ届ける


 以前、同様に洗濯物が飛び込んできたことがあるけれど、その時は隣に何の興味もなかったし、色気も何もない白シャツだったため、そのまま手すりにかけておいたのだ。変に顔を合わせて礼でも言われると気まずいと思ったから。この程度のことで隣を意識したくない。そう思っていたのだ。

 だが、隣人はお礼の手紙と、ささやかで返礼を気にしなくていい程度の菓子をポストに入れてくれた。

 やり方がスマートだなと思った。悪い気はしなかったし、丁寧な人だなと好印象を持った。

 それ以来、なんとなく意識してしまっていたのだけれど、最初の手紙の印象通り、丁寧できちんと生活している人だなという印象を持った。

 朝七時頃に洗濯物を干し、僕が帰る夜八時までには洗濯物は取り込まれている。

 晴れた休日は布団を干す。布団だけでなく、枕も干し、リネン類をすべて洗濯してベランダは大賑わいになっている。

 だけど、夕方になると物干し竿からはすべてのものが取り込まれる。

 夜のベランダはいつも整然としている。なのに季節ごとに寄せ植えが置いてあって、殺風景ではない。

 見ていると、実家を思い出してほっとした。母の手で、丁寧に手入れされた家や庭を。

 言い訳するみたいだけれど、決して覗いているわけではない。仕切りに隙間があるから洗濯物を干したり取り入れたりするときに見えるだけで、断じて。


 ベランダの観察だけで、人柄が想像できて余計に気になっていた――そんな折だった。爆弾のように投げ込まれた刺激物に僕はいろんなものをやられてしまった。

 そのせいで今朝はまともに対応ができず、つい、営業用の挨拶をしてしまった。何がいい天気だ。今日は曇りだろうが、とあの後頭をかきむしった。

 彼女は紛失物の在処に気づいている。でないとあんな風に僕を見たりしないだろう。

 拾ったと気づかれているのならば、このままスルーできそうにない。

 というより、スルーするのはもったいのではないだろうか。


「ここは返すべきだよ、な?」


 だが、どうしても出来そうになくて頭を抱える。

 だってどうやって?

 大体、返されても見知らぬ男が触ったものなど、気持ち悪くて使えないだろうと思う。だからといって買って返すのも筋が違って、別の意味で気持ち悪い。

 どうすればいいのか途方に暮れたまま帰宅した僕は、ひとまず洗濯物を取り込もうとベランダへ向かう。

 そして、風に揺れる影を見てふと思いついた。


「毒をもって毒を制す、か」


 気まずさもろもろを消し、この件を上手く解決する方法を。


 **


 家に帰ると洗濯物を取り込むためにベランダへ出る。ハンガーごと室内に入れ、クローゼットにきれいに並べる。ピンチハンガーはとりあえず引っ掛けておいて、じょうろに水を汲んだ。

 動揺して花に水をやっていなかったことを思い出したのだ。

 少ししなびていたけれど、枯れてはいない。

 オレンジ色のスミレはホームセンターで一目惚れして買ってきた。寒さが和らいだからか、次々に花を咲かせて心を慰めてくれている。

 スミレが終わったら何を植えようかな。

 そんなことを考えていたとき、視界に見慣れない物が移り、私は目を眇めた。


「…………?」


 近づいて拾う。開いてみるとクマ柄の四角い布。なんだかぱりっと糊がきいてるし、真新しい。これってなんだっけ? 首を真横に傾け――


「へっ? ――ええ!?」


 思わず声が出たときだった。


「すみません」


 隣のベランダから声が上がり、私はぎょっとして手に持っていた物を手落とした。


「洗濯物が飛んでいってしまったみたいで。拾わせてもらっていいですか?」

「えっ、え――あああああの」


 何と返していいかわからない。だってそれは昨日の私のセリフであって。

 まごまごしていると、隣との仕切り板の向こう側から、ひょいと顔が飛び出した。


「あ、それですそれ」


 握りっぱなしの布を指差されて、私はぎゃっと声を上げる。やばい、パンツ握りしめてた! っていうか、この顔でクマ柄!? ありえん!


「ご迷惑おかけしました。風、ほんと強くて困っちゃいますね」


 手を差し出され、恐る恐る近づく。手に持った布を差し出すと、彼は「ありがとうございます」と笑う。

 その気安さに私は、すべてが許された、そんな気になる。心が緩み、ずっと引っかかっていた言葉が喉からこぼれ出た。


「あの。実は私も昨日飛ばしてしまったんですけど……」

「……ええと……これ、ですよね」


 差し出された小さな紙袋に、気が遠くなりそうになる。


「す、すすすす、すみません、お見苦しいものを――」

「い、いえいえ、おあいこですし! 気にしないで下さい、僕も気にしないんで!」


 彼は恥ずかしそうに拾得物を背に回し、それでは失礼しました、と家の中に入っていく。

 昨日から張りつめていた心がどんどん溶けていくのがわかった。不安、羞恥の代わりに安堵が広がっていく。

 ああ、これでまた何事もなく日々を過ごしていくことが出来る。もちろん引っ越す必要もなさそうで。

 そう思って星空を見上げた私は、風で吹き上がった髪が彼の部屋の方に流れていくのを見て、ハッとした。


「あ、れ?」


 今日の風は東から吹いている。そして彼の部屋は風下の西。

 その事実に気がついて、私は胸の中に温かな感情が広がっていくのを感じた。


 明日の朝。もし会えたらちゃんと目を見てお礼を言おう。拾得物を届けてくれたこと。そして気遣いにも。

 風が柔らかく髪をなでていく。


「ほんと……なんてもの、飛ばしてくれるわけ」


 風が飛ばしたものはひどかった。けれど、素敵なものを一緒に運んできてくれたのかもしれない。

 そんな気がしてしかたがなかった。

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