第二十一章 祈り(16)

十六


 その時、掃き出し窓越しに、中庭に自転車が降って来るのが見えた。大枝の時とは違い、平屋建ての前方部分の屋根を越えて吹き飛ばされてきたのだ。映画ではない、実際の光景ではおおよそ考えられないことが起こっている。自転車は能舞台に斜めに飛び込んできて、大枝の頭をかすめ、さっき三人が瞑想していた辺りを直撃したのち、さらに奥まで舞台を滑って、松が描かれた一番奥の壁にぶち当たって大破した。車輪が横の橋掛かりを力なく転がって、座禅を組んだままの杏児の体側に当たって倒れた。


 ユキはその一部始終を茫然と見ていたが、我に返って、「杏ちゃん!」と立ち上がり、杏児の元へ駆け寄った。よろよろと車輪が当たった程度だったので、杏児は無傷だったが、ユキはまたパニック状態になった。


 ――ここは安心できない。万三郎のところまで杏ちゃんを動かそう。


 決心したユキは、杏児の雨具とスーツのジャケットを脱がせ、残る体力を振り絞って杏児の足を解き、両腕で抱きかかえた。


「んーッ!」


 歯を食いしばって、杏児をようやく万三郎の隣の長椅子に安置した。万三郎の頭と杏児の頭が向き合うように寝かせる。杏児を抱き上げながら体温を感じ取っていたので、ユキは安心したが、念のため杏児の身体にも毛布を掛けた。


 ――あ、しまった。懐中電灯、あそこに忘れてきた。


 だがユキの体力はもはや限界だった。後ろの列の長椅子を背もたれ代わりに使い、二人の頭が向き合う手前の床にへなへなと座り込んだ。すぐには動けない。


 バリーン!


 参集殿の、別のガラスが割れた。闇の向こうだ。


 バリーン!


 もう一枚……。


 ガッシャーン!


 次は、割れた窓から吹き込んだ暴風で、室内の棚か何かが倒れた音だろう。ひときわ大きな空気の通り道が室内にできたようで、暗闇の向こうからビュウと風が吹き始める。わずかに雨粒も混じっている。


 ユキは呼吸のため口を半分開けて、音がした闇の方を茫然と見つめていた。


 ――もう……だめかもしれない。


 うつろな目を万三郎に移し、そのままその胸を見つめる。


「……」


 三重に毛布で包んでいるので、よく分からなかった。ユキはもう一度目を凝らして万三郎の、今度は口元を数秒間、見つめた。


「……!」


 がばっと身を起こすと万三郎の口元に耳を当ててみる。


 ――呼吸が、ない……。


「うそ……でしょ」


 ユキは目を見開いた。身体を少し傾け、毛布の端をめくって胸に耳を当ててみた。心臓は、動いている。


「今、死にかけてる……の?」


 ユキは誰にともなくつぶやいた。


 バリーン!


 今度はすぐ近くで窓が割れる。その割れた音と、ユキの叫び声が同時に響いた。


「イヤアアア!」


 ……ぽたっ、ぽたっ。


 万三郎の両頬を両手で挟んで、涙が彼の眼窩に落ちるのも構わず、ユキは目を見開いたまま、無我夢中で万三郎の名を呼んだ。


 闇の中、近くに脱ぎ捨ててあったユキの上着の内ポケットから光が漏れていたが、万三郎を見つめているユキの目には入らない。着信音は、部屋を通う風の轟音にかき消されてユキの耳には入らなかった。

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