第二十章 伊勢(16)

十六


 そう言ったのは万三郎ではない。ユキが雉島の右背後から、万三郎の手首をつかんでいる雉島の上腕に斜めに手刀を振り下ろしながら言ったのだ。ところが、雉島は背後のユキに気付いていた。肩口から肘関節のあたり目がけて振り下ろされてくるユキの手首を、雉島は左手で素早くつかんだ。


「あっ!」


 ユキが叫ぶ間もなく雉島は、手首をつかんだままの左手を、自分の頭の周りをぐるりとめぐらせて、万三郎とは反対側へ導いた。なされるがままにユキは雉島の左側へ回り込まされた。そうしなければ腕がへし折られるからだ。


「クッ……」


 ユキもまた、捻られる手首の痛みに唇をゆがめた。


 雉島は言う。


「貧困、飢餓、暴行、略奪、裏切り、陰謀、戦争、レイプ、テロ……。人類が生きている限り、これらは地球上から無くならん。そして今、ほとんど百パーセントに近い確率で小惑星が衝突するってのに、皆が皆、お行儀よくお茶の間で希望だけを念じていると思うか。【hope】たちを撃ち落としている本質は【bad!】ではない。【bad!】の周りに続々と集結している、ほかならぬ、人類自身のネガティヴなことだまなのだ。見ろッ!」


 雉島は両手をクイッと捻り、上空を顎で示した。促されて、というより、強制されて、捕われの二人は空を見上げた。最後に飛ばした【hope】たちも、やはり追撃され、落下しながら光を失っていった。


「【hope】たちに取りつく【-less】どもだ。喜んで自分たちで飛び立っているんだ。プラスとマイナス。ことだまエネルギーが打ち消されて堕ちていく。【hopeless】――絶望、だよ」


 雉島はそこでいったん言葉を切って、フッと笑った。


「お前たちがレシプロしてくる前、俺は【bad!】が今いる場所を見てきた。無数の【-less】どもがひしめいていた。【hope】を無効化するにはうってつけの奴らだ。お前らが【hope】に限って招集したのとは対照的に、ネガティヴ・ワーズどもは何も限定されていないから、【no】、【despair】(絶望)、【disappointment】(落胆)、【pessimism】(悲観)、【lament】(悲嘆)、【dismay】(狼狽)、【catastrophe】(悲劇的結末)など(2)、それはもう、多彩な顔触れがそれぞれ無数に集結していた。今ここに集まっている【hope】より、あっちの方が多いくらいだろう。お前たちは今、目の前の【hope】たちを見て、希望で胸を膨らませているかもしれんが、むしろこいつらは少数派マイノリティーなのだ。分かったか!」


 そこへ、杏児の叫びが重なる。


「絶望だって? 絶望したら、あんたも死ぬじゃないか!」


 杏児が雉島の後ろから襲いかかった。羽交い絞めにして、万三郎とユキを解放させようとする算段だ。


 だが、首にかけた杏児の右腕が、雉島が大きく息を吸ったのを感じ取った次の瞬間、杏児は勢いよく後ろに吹き飛ばされていた。杏児だけではない。雉島が手を離したのだろう、万三郎もユキも、それぞれステージの端っこまで吹き飛ばされたのだ。それどころか、ステージ前の【hope】の群集も大勢が倒れ、うめいていた。杏児は、したたかに身体を打った痛みとは別に、気持ち悪さが蔓延し、思わずウェッとえづいた。


 雉島は車椅子に座ったまま振り返って静かに杏児に言った。


「気をつけろ、俺はだてにことだま裏ワールドを支配しているわけじゃない」

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