第二十章 伊勢(2)

 

 言葉を失う万三郎に代わってユキが尋ねる。


「そんなに、ひどい状況なんですか」


 神谷の影が暗がりの中で頷いた。


「神宮司庁にわずかに残っていた職員が御正殿の様子を見に行こうとしたけれど、参道沿いの杉の、中ぐらいの太さのものまで結構倒れているようで、途中で引き返さざるを得なかったと言ってきました」


「そんな……」


大宮司だいぐうじ様のご判断で、世帯主である職員は皆、家族のもとへ帰しましたので、今は、職責の重い人たちと、衛士では私のような老いぼれや、逆に独り者の若い職員がわずかに居残っているのみです。これから雨風がさらに強まって危険なので、帰宅しない職員は司庁舎に集まるよう指示が出ているのですが、私は官邸からのお電話を取った責任上、ここであなた方をお待ちしていました」


 万三郎は茫然とした。ここまで来てこんなことになろうとは。


「では……、どうあっても御正殿への参拝は無理だと」


「私は、昼のテレビで総理の緊急放送を見ました。あなた方がどういう目的でこの嵐の中、ここまで来られたのか、分かっているつもりです。ですが、御正殿の無事を心から案じる若い職員でさえ、様子を見に行くのを断念せざるを得ない状況です。あなた方が無理を押して向かっても、たどり着けないどころか、命の危険があります。どうか、ご理解ください」


 万三郎が立ち上がって神谷に食って掛からんばかりに大きな声を出す。


「そうですか分かりました、なんて言えません! このままだと明日はないんです! 僕ら、行きます!」


「台風の!」


 年老いた衛士は、大声を出して万三郎を遮った。三人がびくりとするくらいの大声だったが、衛士はその後、元のように落ち着いた声になって続けた。


「……台風の威力を、甘く見てはいけませんぞ」


 一瞬、部屋を静寂が包む。すると、屋外で荒れ狂う暴風雨の音が再び四人の耳に入ってきた。空き缶か何かが、風に吹き飛ばされて転がっていく高い音がした。


「お三方はお若いから、伊勢湾台風をご存知ないかもしれませんなあ」


 ユキが答える。


「私は、聞いたことはあります。昭和三十年代に未曽有の人的被害をもたらした台風だというくらいしか存じませんが……」


「そうですか。私はその恐ろしさをこの目で見ておりましてね」


「……」


「当時私はあなた方と同じくらいの歳で、この近くの川沿いに居を構え、妻と三歳の娘、一歳の息子と住んでいました。すでにここで神宮の神様にお仕えしていました。若かったので上司の制止も聞かず、司庁に詰めてお宮をお護りしようと雨風の中奮闘していました。だが、自然の猛威の前に、私や同僚は為す術もありませんでした。それどころか、参道の見回りで、倒れてくる杉の大木の下敷きになって死にかけました。一夜明けて近所の人から知らせが入りました。自宅が流され、私は妻と子供たちを失いました」


「……」


「私一人、ここに残ってあなた方を待っていたのは、あなた方を制止するためです。私がいなければ、あなた方は無理に参拝に向かうと思ったからです。残念ですが、ご参拝は諦めてください」


 万三郎が食い下がった。


「か、神谷さん、僕らは命を惜しんではいません。世界の、地球の危機なんです! 例え死ぬと分かっていても、行かなくてはなりません」


「この馬鹿者ッ!」


 神谷が一喝したので、場がピンと凍りついた。


「あんたが死ぬのは構わんが、天照大神様のおします御正殿の前で死ぬのだけは絶対に許さん。神道では死は最大の穢れなのだ。我々代々の神職が、千三百年以上にわたって日々守り通してきた、穢れなき聖域が神宮なのだ。あんた、自分の狭量な正義感だけで、その聖域を穢して歴史を終わらせるつもりか。日本が滅ぼうとも、大神様の御前に死体を晒すなどということは断じて許されることではない」


 年老いた衛士のあまりの迫力に、一同何も言い返すことはできなかった。暗闇の中、神谷の目だけが、どこかの微かな光を反射してか、キラリと光っている。


 なるほどと万三郎は思った。それぞれの立場の人にそれぞれの思いがある。ことだまの国、日本の中心は伊勢の神宮であると思い立って一方的に押しかけて来た若者に、神宮の大神にお仕えすること半世紀以上の年長者の思いを一蹴して良いはずがなかった。


 万三郎は素直に謝った。


「申し訳ありませんでした。思い上がっていました」


 万三郎に合わせて、杏児もユキも黙って頭を下げる。神谷は、また落ち着いた声色に戻って三人に言った。


「いや、取り乱して申し訳なかった。行くところがないのでしたら、司庁舎へおいでになりませんか」

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