第二十章 伊勢(1)


 防犯、防災の両方への用心から、雨戸のある家は雨戸を全て固く閉ざし、商店や事務所はシャッターを下ろしていて、人はもちろん、野良猫一匹街を歩いていない。


 長引く停電で外灯はおろか信号すら消えている。樹木が暴風に翻弄されて起こる枝擦れの音も、路面を激しく叩く雨音のホワイトノイズに塗りつぶされ、他には何も聞こえなかった。


 内宮の神苑を縁取って流れる清流五十鈴川。この川にかかる宇治橋のたもとに神宮をお守りする衛士えじの見張所がある。その見張所の前に杏児が運転する軽自動車がたどり着いた。


 懐中電灯を手に、引き扉を開けて出て来た一人の年配の衛士は、驚いた表情で運転席に近寄った。杏児が窓を開ける。激しい雨音に混じって、衛士のいたわるような声が車内に入って来る。


「救国官の皆さんですね。この嵐の中をよくご無事で……。衛士の神谷と申します。どうぞお入りください」


 杏児は後部座席の万三郎を振り返る。アポフィスの軌道を変えるためにことだまのエネルギーを送り込むなら、一秒でも早くレシプロを始めるべきで、残された時間は多くない。しかし、万三郎が疲れた表情をしているので、せめて濡れた頭や身体を何とかさせたいと思い、杏児は神谷と名乗った衛士の申し出に頷いた。


「事前連絡が入りましたか」


「はい、昼ごろ、通信が途絶する前に、大泉総理の秘書官から電話がありました。それに、二、三時間前に、女性二人を付き添わせた男性の方が来られて、『三人の優れた人たちが来たらよろしく』と頼んで行かれました」


 杏児とユキが怪訝な顔になっているのに対して、思い当たりがある万三郎が思わず噴き出す。見張所の中はわりあいに広かったけれど、神谷以外は誰もおらず、がらんとしている。神谷は懐中電灯を片手にタオルを取って来て、三人に手渡しながら言った。


「きっと大変な思いをしてここまでたどり着かれたと思いますが、停電の上にガスも止まり、熱いお茶ひとつお出しすることもできません」


 杏児はタオルを押し頂き、頭と顔を拭きながら答える。


「お気持ち、感謝します。ですが、今は一刻を争います。もしありましたら、レインコートをお貸しいただけませんか」


「……」


 そのまま神谷が黙りこくってしまったので、三人ともタオルの手を止めて神谷の方を見た。神谷は最初、何か迷っていたようだったが、意を決したように口を開いた。


御正殿ごせいでんにお詣りしたいのですよね」


「はい。そして祈りたいのです。そのために東京から来ました」


「残念ですが、それはできません」


 それまでたった一人、疲れた様子で折りたたみ椅子に腰を下ろしていた万三郎が、神谷の思いがけない答えに顔を上げ、憤然と食って掛かった。


「どうしてですか!」


 その権幕に少し驚いた神谷は、万三郎の方に向き直って申し訳なさそうに言った。


「参道の木々が風で倒されて、道を塞いでいるのです」

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