第十六章 使命(6)


 バスが倒れるまで少し間があったのと、転倒の勢いが殺されていたので、二階の乗客はバスから投げ出されはしたものの、皆受け身の姿勢で怪我を免れたようだ。


 ユキと杏児は身をかわして地面に倒れ込んだまま、上体を起こして茫然とことの成り行きを見守っている。


 倒れたバスから運転手が出てきた。


「げッ!」


 杏児は運転手の男と目が合った。それは、バス会社の制服を着てはいたものの、ほかならぬ【bad!】その人だった。


 ――すると、二階の観光客というのは……?


 地面に転がった人々がこっちを向いて起き上がる。その頬を見ると、【evilイーヴル】(邪悪な)、【viciousヴィシャス】(悪徳の)、【brutalブルータル】(極悪の)、【relentlessリレントレス】(無慈悲な)、【ferociousフェロウシャス】(凶暴な)……。


「ユキッ、レッツ・ゴー行こう、レッツ・ゴー、レッツ・ゴー!」


 杏児は大慌てでユキの手を引っ張る。体力が充分回復していないユキは杏児に引きずられるようにして奴らから離れていく。


 二人が車道に急に飛び出したものだから、イエロー・キャブが急ブレーキをかける。


「あぶねえじゃねえか!」


 タクシーが止まったのを幸いに杏児は後部ドアを叩きながら運転手に叫ぶ。


「乗せて! 早く!」


「何だ? お客さんか?」


 そう言って運転手が後部ドアを開けるや否や、杏児はユキを座席に押し込んで、続いて自分も座席に倒れ込む。


「閉めて!」


 フロントガラス越しに、邪悪な連中がこちらへ向かって駆け寄ってくるのが見える。


 運転手が慌てる。


「何だ? あんたらこいつらに追われてるのか?」


「車、出して! 早くッ」


「出してって、嫌だよ、俺はトラブルに巻き込まれたくない」


 ユキが叫ぶ。


「もう遅いわ。あなた、滅茶苦茶にされるわよ。早く車を出しなさいッ!」


 運転手も叫び返す。


「車、出せって、奴らをひき殺せというのか」


「転回して後ろに逃げるのよ」


「馬鹿言うな! この道は一方通行だ」


 フロントガラス越しに迫って来る男たちがほとんどタクシーに至る。杏児とユキは先頭の男の顔に【evil】(邪悪な)と彫られているのをはっきりと認めた。杏児が叫ぶ。


「バックだ!」


 恐怖を感じていた運転手は反射的に後ろを振り返るとギアをバックに入れ、アクセルを踏み込んだ。


「あわわわ……」


「ダメッ、乗ってるッ!」


 ユキがうろたえる通り、【evil】がボンネットに乗っている。エンブレムに足を掛け、左手でワイパーを握って、奴は右手で拳銃を取り出した。


「げえーッ!」


 恐怖に顔をゆがめる運転手。


【evil】は上体のバランスを取って撃鉄を起こそうとした。


「転回だッ、ハンドルを切れ!」


 杏児の叫びに運転手は反射的にハンドルを切る。タイヤを軋ませながらタクシーは急転回する。引き金が引かれる瞬間、【evil】はバランスを崩した。撃った弾はフロントガラスを危ういところで逸れた。【evil】はボンネットから落下し、タクシーはそのまま急ハンドルで完全に向きを変え、一方通行を逆行し始めた。

交通量が少ないのが幸いだ。肩で息をしつつ目を大きく見開いて、前方を注視しながら運転手が言った。


「何てこったい、ホーリー・マッカラル!」


 ユキが後部座席から後ろを振り返りながら言った。


「万三郎以外の人が言うの、初めて聞いた」


「あんたら、いま車を寄せるから、とっとと降りてくれ!」


 そう運転手が言い終わらないうちに杏児が大きな声で拒絶する。


「ダメだ! 銃の射程距離から出るんだ! もっと先へ行ってくれ!」


 運転手はその声にビクリとして、「ガッデム!」と叫んだ。だが彼は前を見るのに必死だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る