第十四章 覚醒(22)
二十二
万三郎はふと我に返り、水を飲みきって何気なく右を見た。そして、ユキがさっきと変わらず毛布の隙間からこちらを見ているのに気がついた。
「ユキ……」
万三郎が何か言おうとするのを、ユキは左手を毛布から出して、人差し指を立て、シーッというジェスチャーをした。万三郎を黙らせておいて、ユキはその左手で、シートのアームレストを立て、シートとシートの間に納めた。境い目のなくなったシートをまたいで、ユキの左手は万三郎の右手を探り当てた。
ユキは万三郎の手を握った。そしてほとんど聴き取れないような声で訴えた。
「ねえ、私、震えが止まらないの。手……握ってて。お願い」
「あ、ああ。分かった」
万三郎は少し驚いたが、毛布の隙間からのぞくユキの目が濡れているように見えて、安心させてあげなくてはと、ユキの手を握り返す。風邪で熱がこもっている感じではなかった。きめの細かい、さらさらと滑らかな手の甲から伝わってくるのは、むしろひんやり生ぬるい体温で、ユキの手は力なく万三郎に握られるがまま、そこにあった。
――ことだまワールドで、ユキの手を握ったことがあったかな……。
覚醒してまだ丸一日ほどしか経っていないのに、ティートータラーでよく食べた、マスター・ジロー白洲田特製ハンバーグの、あの香ばしい匂いや肉汁たっぷりの味のリアリティーも、もう色褪せ始めている。
いろはの鴨焼きは脂ののりといい、得も言われぬ旨さだったように思うが、それすら情感を伴わない記号へと、刻一刻と変わりつつあるようだ。
――あ。いろはの店の外でユキを抱きしめたことがあったな……。
だが今、あの時のユキの頭の重さや髪の毛の質感は幻のようにしか思えない。
「もし――」
「ん?」
「もし、地球が助かったら、私たち、どうなるのかな……」
「……」
「万三郎とも離れ離れになっちゃうのかな……」
万三郎はクスッと笑って、ユキを握る手に少し力をこめた。
「ほら、考えること増やさないで、頭と身体休めようよ。そう言ったのはユキの方だよ」
「フフ……、そうね」
ほんの少しだけ、ユキの手の体温が上がったように万三郎には感じられた。そしてそれが万三郎には心地よかった。
一年間にも思えたリアリティーの不在。万三郎は、救国官として自分が何をすべきなのか、今ようやくはっきり分かった気がした。
――ユキの手の、この温かさを守りたい……。
そう思ったら、握られていた手の甲を反転させて、ユキの方が万三郎を握り返してきた。
「万三郎。私も万三郎と一緒に、伊勢神宮で祈りたい」
万三郎はユキの目を見ながら、再びユキの手を握り返した。
「ああ、もちろんだ」
安堵の残像を残して、ユキの目は毛布の中に消えた。
万三郎はユキの手を握ったまま窓を振り返る。オーロラは相変わらず飛行機を覆うように声なき威嚇を続けていたが、雲海は消え、眼下には漆黒の絨毯が無窮の広がりを見せている。ただ、よく目を凝らせば、かすかに金粉を散らしたような街明かりが遠くにうかがえ、そこに命と生活があることを主張していた。仄かであっても、それもまた、守るべきリアリティーなのだと万三郎は思った。
◆◆◆
(1)一人の人間の知能は二種類に分類できるそうだ……英国生まれの心理学者レイモンド・キャッテル(Raymond Cattell, 1905 - 1998)は、知能を結晶性知能と流動性知能に分けた。
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