第十三章 選別(1)
一
新渡戸部長がこれほど真剣な表情を浮かべるのは珍しかった。真剣というより、深刻といった方がふさわしいくらいだ。それは場の空気をおのずから引き締まったものに変える。みどり組だけではなく、スピアリアーズの面々もいつになく険しい表情で新渡戸の説明に聞き入っている。その中にあって、万三郎の集中力はふと理由なく途切れた。
第三研修室。思えばここを学び舎として、みどり組の三人のETが腰を据えて英語を学び始めて、かれこれ一年になる。
――もう、一年になるのか……。
アメリカの若きエリートたちが、日常生活に差し支えない程度の日本語をマスターするのに平均三千時間ほどかかるという雉島の話を、万三郎は思い出した。九時間×三百三十日で、ほぼそれと同等の時間になる。万三郎たちが業務として英語習得にかけてきた時間だ。もちろん、求められていたのは日常生活に差し支えないレベルではなく、もっと高度な英語の使い手の水準であり、その要請に応えるべく万三郎たちは、一日の業務が終わってからも教本を開いたし、問題集も解いた。休みの日には英語のことを考えないどころか、英語しか考えない日を多く過ごした。それらの時間を勘案すれば、日本語を学んだ米国のエリートより、もちろん努力してきたといえる。
もともと英語が苦手で嫌いだった万三郎にとって、初めの頃、業務としての学習が本当に苦痛だった。だが、さすがKCJ人事部能力開発課が誇る優秀な講師陣だ。倉間ほうぶん先生をはじめとして、甲斐先生、片井先生、戸井先生が、卓抜なるティーチング・スキルをもって丁寧に指導してくれたおかげで、万三郎の頭の中の、蒙昧なる厚い雲の隙間から、光が一条、二条と差し込んできて、次第に空が明るく晴れ渡っていく爽快感を感じることができた。未知を既知に変えていく喜び。それは、黒から白へ、ドミノが放射状に倒れていくように、加速度を伴って広がった。
万三郎の変化は、この研修室だけでもたらされたわけではない。みどり組の三人はもちろん、スピアリアーズの三人も、バー・ティートータラーによく通った。マスター・ジロー白州田や、店員マサヨからも、この一年、英語に関する多くのことを学んできた。
みどり組の三人はまた多くの知己も得た。人間ではない、ワーズたちだ。彼らの多くには親兄弟や子供がおり、人間の親兄弟の顔が似通っているように、彼らもお互いによく似ている。万三郎たち三人のETは、努めて彼らと胸襟を開いていろいろな話をした。できるだけ彼らの話を聴き、彼らを理解しようとしてきた。さらに、多くの会合やサークルのイベントに顔を出すようにもしてきた。それに伴ってワーズの知り合いは今に至るまで加速度的に増えてきている。
三人はまた、オン・ザ・ジョブ・トレーニングも数多くこなしてきた。すなわち、ローチング・ステーションのプラットホームに立って、実際にクラフトマンの業務を行うのである。初めて編成作業を行ったときは、万三郎と杏児は二人とも大失敗した。まさに、これから先が思いやられると二人とも落ち込んだものだ。一年経った今、あのときとは雲泥の差である。ユキは元々そこそこのパフォーマンスを見せていたが、そのユキを含め、みどり組のスキルは相当向上したと自負しているし、実際、新渡戸部長からもたびたび褒められた。
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