第十章 鴨焼(8)


 どうしてだろう、なぜか微妙な空気が場に広がった。ほうぶん先生が「ファウル・チップ」と意味不明なことをつぶやいた。


「ぢゃ、訊いてみっぺ」


 この空気を破ろうとしてか、文ちゃん先生が五郎八を呼んで訊く。


「鴨串……おれっち、昔、裏メニューで喰ったことある的な感じすんだけどさ……」


「そうですか、厨房に訊いてきますね」


 五郎八を見送ると、皆が万三郎と杏児の胸元に視線を戻す。鴨の目はもう光っていなかった。おかしな緊張感のある場の空気がようやくほぐれたように感じられる。万三郎が顔を上げて、誰にともなく訊いた。


「鴨……そういえば、前から思ってたんですけど、ETの社章、どうして鴨なんですかね」


 皆の視線が万三郎の社章にいく。鴨の目は、光っていなかった。それを認めて、ほうぶん先生も、いくぶんホッとした表情に戻った。


「その件に関しては、文ちゃん先生が事情に明るいと存ずる」


 今度は皆の視線が文ちゃん先生に集まる。先生は咳払いをして、ポケットから取り出したハンケチで額を拭った。文語的な、片井文吾郎モードに変わったようだ。


鴨族かもぞく――」


 文吾郎先生は、ナプキン立てからペーパーナプキンを一枚抜き出して、内ポケットから取り出したボールペンで、漢字を書き始める。


「漢字で書くと、『鴨』とも『賀茂』とも『加茂』とも『賀毛』とも書く豪族が、弥生時代中頃に、今の奈良県御所市ごせし近辺、葛城山南東麓に住んで、水田を開墾し、米を作っていたという伝承は……」


 ナプキンの漢字を皆に向けてしっかり見せながら言う。


「……疑義を差し挟む余地これなきにしもあらずと人をして言わしむるほど確度の高い史実であるとはいまだ断言出来かねるゆゆしき論争のさなかにあるともないともごにょごにょごにょ……」


 そこへ五郎八が戻って来た。


「鴨、今日は入っているので、お出しできるそうです。おいくつお焼きしましょうか」


 すると、まだほんのりと耳の赤い戸井久美子先生が急に、バリトンの効いた中年男性のような低い声で万三郎に呼びかけた。


「中浜さん、よい練習の機会です」


「うわっ!」


 戸井先生のその声色に激しく驚いたのは、実は杏児だけだった。他の先生やETは、戸井先生がこの声を出せることを体験的に知っていたので、特段驚きはしない。戸井先生は杏児を無視して、感情のない声で万三郎に指示した。


「次のA、B、あるいはCの中から、ベストなレスポンスをセレクトしなさい。それらはテストブックには印刷されていません。ナウ・レッツ・ビギン」


 そのセリフの内容にも、杏児以外は皆、特段の驚きを示さない。


 戸井先生は、しばしば自分の世界に入り浸って、何かのきっかけで突然、ビジネス英語試験の問題を出す癖がある。万三郎は、これまでの授業でそのことをよく知っている。いわば発作みたいなものだろうと以前、ティートータラーで言っていた。戸井先生が三十になっても結婚できないのは、この奇妙な癖のせいではないかと続けたから、めったなことを口にするものではないと万三郎をたしなめたことがある。だがともかく、ノッてやらないと機嫌が悪くなり、授業が終わってから、彼女が「登録内容変更届」と呼んでいる反省文を提出するよう求められるので、戸井先生の突然の出題に極力付き合うことにしていると万三郎は言っていた。付き合うと先生は機嫌が良いらしい。


 そういうことだから、今回も万三郎は慌てることなくペーパーナプキンを抜き出し、文吾郎先生からボールペンを借り受けてスタンバイした。


 戸井先生は、どこか厳かに、中年男性の声でゆっくりと言った。


「ナンバー・イレブン(出題番号十一番)」


 皆が沈黙する。


 そうした戸井先生の事情を知らない五郎八は、自分が先ほど訊いたことが無視されているかと思い、おずおずともう一度訊いた。


「あの……鴨、何本お焼きしましょうか」


 即座に戸井先生が、おっさんの声のまま選択肢を示す。


「A『とりあえず、十本お願いします』、B『はい、それはとても良くできた鴨です』、C『ハモを食べるなら夏がいいですよ』」


 万三郎は即座にペーパーナプキンに「A」と書き、その下に楕円を書いて黒く塗りつぶすと、ナプキンを手に持って五郎八に示した。


「Aでお願いします」

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