第四章 研修(8)


 万三郎は反射的に右手で頬を押さえる。何が起こった? 万三郎はそのまま後ろを振り向く。髪ビシ女は、昨夜どじょう掬いの時に自分の鼻の穴に詰めていた、折れた割り箸を一本つまんでいた。


――あっ、あれを俺の頬に……?


 女は今さらながら割り箸を隠すように手のひらに握り込んだ。


「ちょっとぉ、急に振り返らないでよ」


 そう言ったものの、女は万三郎を睨む代わりに目を伏せたのだった。髪がきつすぎるくらいにまとめられている上、眼鏡のフレームでビジュアル的に顔から切り離されて露わになった両耳が、真っ赤に染まっていた。昨日のことを万三郎にはっきり指摘されて、よほど恥ずかしいのだろう。「よくもそうはっきり言葉で言ったわね」という、非難の意味での割り箸アタックであることは分かったし、彼女は万三郎の頬が当たる瞬間にわずかに割り箸を手前に引いて衝撃を和らげたのは万三郎も感じていた。それでも万三郎はムッとする。


――それにしたって、あぶないじゃないか。


 そこで万三郎は、さらに意地悪く女に問う。


「あれ? なんで、どじょう掬いの時に君が鼻に詰めた割り箸をまだ持っているの」

 女は眼鏡の奥から万三郎を恨めしそうに見ながら、慌てて割り箸をポケットに隠した。


「ポケットにたまたま入っていたのよ。それより何よ、さっきからどじょう掬い、どじょう掬いって。何を意味不明なこと言っているの」


 万三郎は苦笑する。


――ははあ、とぼけることにしたのか。まあ、ここは合わせておくか。


 しかし、万三郎がそう思った一方で、杏児はこの女の言動が腹に据えかねたと見えて、先ほどバッグをぶつけられたお返しとばかりに女にかみついた。


「あ、そうだ。社章うんぬんと偉そうに言っていたけど、君も昨日、どじょう掬いを踊っていた時、社章を身につけていなかったじゃないか」


 女は勢いよく立ち上がって、万三郎と杏児を交互に見ながら言った。


「あのねえ! あなたたち何言ってんの。誰がどじょう掬い踊ったって? だいたい私はあなたたちに会ったのは今朝が初めてでしょう。社章がどうのこうのと、はあ? 訳わかんない!」


 杏児が張り合うように立ち上がる。


「僕の方が訳わかんなくなるよ! 同い年ならなんでそんなに偉そうなんだよ」


「あなたたちが頼りなさすぎるのよ、そんなんで地球を守れるはずないじゃん」


「はあ? 何言ってんだ。君の方こそ訳わかんない」


「何よ!」


「何だよ!」

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