第三章 由紀(2)
二
マスターは表情を変えず、グラスにビールを注ぎながら答える。
「気になるのなら申し訳ない。だけど、もうその呼び方に慣れてしまっていてね。どうか見逃してよ、ユキちゃん」
「……」
――マスター、さっきよりビール少な目じゃない?
私は、それがマスターなりの優しさだと気づいているのだけれど、今夜は素直になれずにいた。
「マスターがマサヨさんをこよなく愛しているのは分かるけれど、私はともかく、初めてここに来るお客さんがそれ聞いたらびっくりすると思うわ」
――引くよ……きっと。
私が今日、上司から何を言われたか聞かれたくないのと同じように、マスターにとって触れられたくない話題に、私はひょっとしたら触れてしまっているのかな、とふと思いつつ、言い出してしまったばかりに私は食い下がって意見していた。
「気持ち悪がって、二度と『ティートータラー』に来なくなるかも知れない。それって、お店にとって損じゃない」
マスターは、頬杖をついた私の目の前に新しいコースターを敷いて、さっきよりジンジャーエールを多めに入れたシャンディーガフを音もなく置いた。
「マサヨたんとおしゃべりする目的で来店してくれる男性のお客様も結構いてね、それはお店にとってありがたいことだから」
私は来たばかりのシャンディーガフにすぐ口をつけ、その四分の一ほどをごくりと飲むと、マスターに言い返した。
「でもそれなら、マサヨさんがマサヨたんじゃなくて、マサヨさんと呼ばれていても、お客さんは来るんじゃない?」
炭酸で、のど越し爽やかに楽しめるはずなのに、私はげっぷが出そうになる。そのえづきが引き金になって、吐き気を催すのではないかと恐れた。まったく、慣れない量のお酒はやるもんじゃない。「お代わり」を繰り返させる自分とは別の自分が頭の中でそうつぶやく。
マスターは私の頭がボーっとしていて、論理的に考えられないのをいいことに、澄まして答えるのだ。
「そのお客様たちは、マサヨたんの呼ばれ方がマサヨたんであってもなくても、最初の来店の時に、私がマサヨたんをマサヨたんと呼ぶのを聞いていたにもかかわらず、マサヨたんのことが好きでマサヨたんに会いに来てくださるので」
――ダメだ。私、マスターに良いように玩ばれてる。
だけど、今日の私はそのマスターの落ち着き払ったあしらい方が気に喰わなかったので、さらに突っかかった。
「それならマスター、賭けをしようよ」
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