第79話 文化祭Ⅺ

 文化祭まで残り三週間。俺たちには大きな問題が発生していた。

 晴人のプロットが出来上がっていないのである。

 プロットは小説を書く上での出発点と言っても過言ではなく、プロットがある程度でも組上がっていなければ、実際に小説を書く工程、表紙のイラストを決める工程に取り組むことができない。次のステップに進むことができない。まして編集作業ともなれば程遠い工程と言えるだろう。

 プロットが律速段階となってしまっている原因は、もちろん担当者である晴人にある。

「明日にはプロットを完成させるよ」

 この一週間、晴人のその言葉を毎日聞いてきたが、明日に仕上がっていたことはない。どんなシナリオを考えているのか、ジャンルだけでも構わないから教えてくれ、と尋ねてみても、一向に答えが返ってこない。……正直、完成どころか、出だしのところすら考えることができていないのではと思われる。

 今日こそは深く聞く必要があると思い、少し問い詰めるような口調で聞いてみると。

「……ごめん、プロットのアイデアが全然浮かんでこなくて」

 確かにプロットは物語の指針を決める大切な段階だとは思うが、何もそこまで悩まなくてもいいだろう。

「うん、そうだね、ありがとう」

 はっきりとした答えは返ってこず、下を向いたまま答える晴人。

「……一緒に考えますか。晴人さん」

 編集と統括を担当している冬川は、現在特にやることもないようで、晴人のプロットづくりを手伝おうと持ち掛けている。……まあ、俺も暇なんだけどね。執筆だし。晴人のプロットができないと書き始めることができないし。秋月はといえば、生徒会と小説を掲載する冊子の体裁について、交渉をしているなどで、現在は不在である。

「ありがとう、冬川さん。でも、これだけは自分一人で考えたいんだ。本当にごめんね」

 気晴らしに行ってくるね、と席を立ち、晴人は部室から出ていった。

「……晴人さん、苦労されているみたいですね。何かお手伝いできることはないでしょうか」

 中学から晴人のことを知っている俺からすれば、今の状況は《晴人らしい》といえる。

 確かに中学の頃の晴人であれば、今の状況に俺は不自然を感じたであろう。しかし、あの頃の晴人は何がきっかけだったのかはわからないが、いつからか鳴りを潜めてしまった。どこかへ行ってしまった。

「まあ、晴人らしいといえば、晴人らしい」

 どこか一人ごとのようになってしまったが、それでも冬川の耳には入っていたようで、答えが返ってくる。

「そういえば、春樹さんは晴人さんと中学のころからのお知り合いなんでしたっけ」

「ああ」

「でしたら、春樹さんならわかるんじゃないですか。晴人さんをどうしたらこの窮地から救い出すことが、引っ張り上げることができるのかを」

 握った両手を胸の前に慎ましく持ち上げている仕草は、ウサギなどの小動物を想起させる。本人にはもちろんそんなつもりは毛頭ないのだろうが。

 それにしても、窮地に立たされているのは俺たちも同じなんだがな。道連れで引っ張り落ちていく状態なんだがな、今の俺たち相談部は。

「昔はあんな感じではなかったんだけどな、晴人のやつ」

 その言葉を聞くや否や、机越しに身を乗り出し、俺のほうに冬川が急接近する。

「それは一体どういうことですか!」

 ああ、この話はしたことなかったか。する機会もなかったし。というか、晴人の許可なしで話してもいいのかな、この話。まあ、いいか。あいつとは腐れ縁だしな。俺が個人的に思っているだけかもしれないが。

「今の晴人、いろいろなことをよく知っているよな。《歩くウィキ》なんていう二つ名もあるし」

 まあ、その二つ名は俺が命名して、俺だけが晴人をそう呼んでいるんだがな。つまりは、客観的に見て、晴人が物知りかどうかはわからない。あくまでも俺の主観だってことだな。……冬川が頷いてくれている。これを一つの根拠としようじゃないか。根拠の弱さは気にするな、諸君。

「中学のころの晴人は、何も知らなかったんだよ。いわゆる一般的に《常識を知らない奴》にカテゴライズされるような人物だったんだ。これは知識としてはもっているが、態度が非常識という類のものではなく、あいつは、晴人のやつは、知識すら持ち合わせていなかったんだ。しかも、その知識のなさのレベルが段違いだった。自転車の乗り方は知らない、地図の見方が分からない、中学の漢字をほとんど覚えていない――いろいろと身の回りで必要な、常識といわれるものを獲得していなかったんだよ」

 よく俺たちの高校に受かったなと思ったが、どうやら晴人は数学や物理など、必要最低限の情報を頭に入れれば多くの問題が解ける教科で点数を稼いだらしい。

「でも、当時の、中学の頃の晴人は、それをカバーできるだけの《アイデア》を持っていた。思考力とでもいえばいいのだろうか。その力で知識を補っていた。自転車は構造を見ただけで乗り方のコツが分かったらしく、一度目の乗車ですいすいと自転車を漕いでいた。地図も自身の身の回りの《風景のかたち》と見比べることで、地図記号の意味を理解していた。中学の漢字は、各部首の意味をイメージして覚えることで、漢字を書く際にはイメージに合う部首を選んで、その場で漢字を作り出すようにしていたらしい。圧倒的に不足している知識を補うだけの考える力が晴人には備わっていた」

 そんなに万能の力ではないだろうが、それでも知識を補うには十分過ぎるほどの考える力が晴人にはあった。

 しかし、今の晴人は――。

「見る影もないけどな」

 中学の三年だったと思う。晴人の様子が変わってきたのは。それまで知識を身につけることを面倒がっていた晴人が、急にむさぼるように本を読み始め、知識を身につけるようになったのは。受験勉強に向けて勉強でも始めたのかと思い、当時は特に気にも留めていなかったが、今思い返せば、そのときから晴人は変化をきたしていた、変わることを強いられていた。何かに突き動かされるように、変わることを余儀なくされているようだった。

 ――そして、あいつは考えることができなくなった。それこそ当時は、意識的に考えることを避けている節があったのだと思う。考え方を短期間で変えることは難しいだろうから、何とか考えないように、頭を使わないようにしていたのだと思う。それでも、その考えない習慣が徐々に晴人を侵食し――晴人はそれこそが目的だったのだろうが――晴人から考える力を奪い去った。今の晴人は、自分で考えることをしなくなった。知識量は中学の頃と比べて圧倒的に増えたが、その増加分だけ、下手をすればもっと多くの分量だけの考える力、思考力が失われてしまった。思考人は知識人へと変化した。その変化がよかったのか悪かったのか。晴人本人はどう感じているのだろうか。

「きっかけは何だったんでしょうか。晴人さんが考えることをしなくなってしまったきっかけは一体――気になります」

 ……晴人のことを心配しているのかと思っていたが、別にそういうわけでもないらしい。氷のような冷たい感情をもつ冬川。冷たい、冬。うん、なんかいいね。

 ということが冗談ってことは、夏休みの出来事があったからこそ分かる。冬川が心優しく温かい感情を持っている人間だってことは知っている。今の冬川の言葉が、部屋の雰囲気を軽くするために発せられたものだってことが俺には伝わってくる。

 そんな四月からの俺たちの成長ぶり(?)に感銘を受けながら、そんなことは表には一切出さず、冬川に言葉を返す。

「分からん。時期は確か、中学三年の――あんまり覚えてないな。晴人が変わってしまいそうな出来事は特になかったと思うし、一体どうして晴人が心変わりしたのかの原因は不明だ」

 少なくとも中学三年のころに、晴人が変わってしまいそうな出来事はないはずだ。あくまでも俺の目から見ての話だが。

「聞いたことはなかったんですか? どうしてそんなにお前は変わってしまったのだと」

 ……冬川がお前という言葉を使うことに驚きを禁じ得なかった。漫画やアニメに登場しそうなセリフだった。もしかして、もしかすると、冬川は漫画やアニメが好きだったりするのかな。

「……ある。ただ、《春樹には関係のない話さ》とばっさり切り捨てられてしまってな。晴人があんなに強く否定するのも珍しいし、よほど聞かれたくないことだったんだなと思って、それ以降は一度も聞いていない」

 その晴人が、今再び考えようとしている。考える力を取り戻そうと、失われた、失おうとした、考える力を手に入れようと躍起になっている。それが、小説のプロットを考えるための行いなのか、それとも他にも考えることがあってのことなのか。いずれにせよ、晴人は自身の考える力を必要としている。おそらく喉から手が出るほどに。

「ただ、もし仮に中三の頃に何があったのかを知ったとして、それで俺に何かできるのかと言われると――」

「春樹さん」

 アニメや漫画をこよなく愛する(これは俺の勝手な思い込みだが)とはいえ、普段は穏やかでお淑やかな冬川が、これほど力強く響きわたる声を出すなんて……。あっけにとられている俺にかまわず、冬川は話を続ける。

「そんなに卑屈になってはいけません。自分を卑下するようなことを言ってはいけません。人間は思考が言葉に出ると言いますが、それと同時に、言葉が思考を形作っていると私は考えています。そういうことを言っていると、本当に矮小な存在になってしまいますよ」

 それに言葉も暴力的で清楚さが感じられない。

「私は怒っているのですよ。……吹奏楽部の事件や、私の問題、他にもこれまでにいろいろと様々な数多くの問題を解決に導いてきた春樹さん。そんなあなたに私はとても感謝しているし、他の救われた彼・彼女たちもそう思っているはずです。……そんなに自分を貶めるような発言はしないでください」

 ……俺はそんなに大した奴じゃない。冬川は救われたと言っているが、俺は特に何もしていない。冬川が勝手に自分で自分を救っただけだ。だから――。

「私が春樹さんに救われたと感じている。これが何よりも大切なことだと私は思います。救う、救わないの議論は、結局のところ救ってもらった人がどう考えているのか、これが最も大事な、最も尊ぶべきところなのではないかと思います。だって、救われたかどうかを最終的に決めるのは、詰まるところ、救済を受けた人なのですから」

 冬川の微笑みは俺を救済する。……いつも俺はみんなに助けてもらってばかりだ。高校生になっても、自分の殻に閉じこもった人生を過ごしていくのかと思っていた。何の変哲もない、誰にも何も与えない日々を、誰からも必要とされない毎日を送るのだと決めつけていた。今の晴人も自身の殻を破ろうとしているのか。自らが作ってしまった殻に閉じこもった日々に、再び光を差し込ませようともがいているのだろうか。

 確かに、殻を破るのは最終的には中にいる自分自身かもしれない。でも、その殻を破るのを手伝うこと、少しでも外から罅を作ってあげることは、他の人にでもできる。俺たちにもできる。

 もし晴人に拒絶されたとしても、ノックし続けよう。晴人の心の届くまで、何度でもより強くたたき続けよう。

「……ありがとう。ちょっと行ってくる」

 教室を出ていく直前、ほのかな香りを纏った声が耳に届いた。

「こっちこそ、ありがとうだよ」

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