第64話 夏休み最終日Ⅲ
家にお邪魔するなんて、何年ぶりだろう。もちろん秋月の家は初めてなのだが、他の人の家にお邪魔するのが久しぶりだ。『未知の領域に踏み込むことは、不安という感情に足を踏み入れることだ』という自作の名言を心の名言集に刻み込むことで、緊張を和らげた――この行為がいけなかったのだろうか。
二階へと続く階段を上った先にあった部屋を開く。開くと、そこは楽園であった。ピンク色に彩られた部屋に、目を引く大きなベッドが一つ。それよりも目が吸い寄せられるのは、ベッドの上の光景だろうか。白い布地のスカートから伸びる二本の脚が交互に曲がっては伸びて曲がっては伸びて、弧を描いていた。
……部屋を間違えたか。俺は瞬時に事の次第を察したが、向こうの方が早かった。正確には、彼女が見舞ったロ―キックを腹に受け、背後から地面に倒れこんだときに俺は察した。
「不審者逮捕しました!」
俺の体をこれでもかというほどに強く押さえつけながら彼女は叫んだ。
必死に弁解しようとするが、ロ―キックの影響で腹が痛すぎて声が出せない。
「あなた、何者ですか。女子中学生の部屋に無断で入り込んで、私の肢体にいやらしい視線を送りつけて」
息を吸い込んで吐いて吸い込んで吐いてをゆっくりと繰り返す――よし、話ができそうだ。相手に話が通じるのかはわからないが。
「俺は、秋月の友達だ。秋月に部屋に行っておいてくれと言われたから――」
今度は腹にジャブが繰り出された。
「あなたみたいな友達は知りません! 勝手に友達面しないでください。ありもしないことを言わないでください。いくら妄想癖があるからといって」
そうか、こいつも秋月か。殴られながらも冷静に――やばい、マジで痛いんだけど。
「美蓮! ちょっと何してるの!」
馬乗り状態にされている俺は、何とか首だけでも階段の方へと向けた。
「……秋月、何とかしてくれ」
繰り返す腹への圧力に耐えながら、朝食を外に出してしまわないように踏ん張りながら、俺は助けを求めた。しかし、伸ばした手は届かなかった。
「あ、お姉ちゃん。遊んでもらってるの!」
こいつ、何を言ってるんだ。
違うんだ秋月。確かに部屋に無断入室したのは俺に非があったのだがそれは過失で故意ではない。俺は今こいつに一方的に暴力を振るわれているんだ。
そう言って抗議しようと口を開かれたところを、腹への連続ジャブで黙殺させられる。黙らさせられる。
「そう……なんかでも、春樹苦しそうだけど」
よくぞ気づいてくれた。俺の友達秋月よ。さあ、もっと言ってやってくれ。
「これはそういう演技をしてもらってるんだよ、先輩に。今度の演劇の練習を手伝ってもらっているんだよ。連続ジャブに苦し悶える主人公を真似てもらっているの」
演劇だって? 演劇部にでも所属してるのかこいつは。それに俺が主人公になっちゃってるし。
「なるほど。演劇部の練習だね」
はい、演劇部でした! まさかの劇を演じちゃう部活でした。何を言ってるのか自分でもよくわからなくなってきましたー。
「じゃあ、練習が終わったら部屋に来てね、春樹」
一方的な暴力現場を秋月が涼しい顔をして通り過ぎていく。隣の扉を開き手を振る秋月。それに手を振って答える秋月妹。
秋月が扉を閉めるや否や、馬乗り状態が解除される。
「あー、すっきりした」
両手を組んで高く上げて背伸びをする秋月妹に突き刺すような視線を送りつける。
「全然迫力がありませんよ、先輩」
突き刺すことをやめ、普段の視線に戻す。
「そんな元気ゼロパーセントな表情をしないでください」
……これが真顔なんですけどね。
「私が悪かったですよ、迫力がないだなんて失礼なことを言ってしまって」
……謝るところ、そこじゃないよね。まずは暴力行為の謝罪が先だよね。
「男のくせにそんな頼りなさげなんて、先輩の将来を悲観してしまいます。絶望的な将来にならないことを切望してしまいます。そんなことだから入学式の日も――」
秋月の部屋の扉が開かれた。
「お、春樹じゃないか。もうみんなそろってるよ。ん? そっちは――秋月さんの妹さんかな」
部屋から出てきた晴人は、こちらにやってきたかと思うと、しげしげと秋月妹を観察し始めた。
そんな晴人に対して後ずさりながら、こちらに助けてくれというような視線を彼女は送ってくる。
口笛を吹きながら、実際には口笛など吹けないので吹く真似をしながら、スルーしていると、彼女は自分の部屋へと駆けていった。
「覚えておいてくださいよ、先輩」
そう言い残して自室へと戻っていった。
ようやく彼女から解放された俺は、晴人の髪をも揺らす勢いでほっと息をついた。
「ところで何をしに出てきたんだ」
「ああ、トイレに行こうと思ってね」
……俺はトイレに救われたのか。そう思うとなんだかひどく些細な出来事に苦しんでいたように感じられ、心の涙がポロリと流れ落ちた気がした。
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