叫びソムリエ

 彼の職業は叫びソムリエ。

 クライアントの人柄から、海に向かって叫ぶ最適な言葉をアドバイスしている。

 海に向かって何か叫びたいものの、いざ海を前にして何を叫んだらいいのか分からない……そんな悩みにお応えし、スッキリした気持ちになって帰って頂くという実にニッチな職業であった。


 彼の職場は、〈海叫び〉の名所と言われる崖の手前にポツンと建てられた小さな小屋。

 窓を開けるだけで、潮風と波の音が部屋の中へと舞い込んでくる。

 海を愛し、常に海と共に居られる幸せを感じながら、ソムリエがいつものように真っ白なソファに座って優雅に本を読んでいると──。


 トントントン。


 木の扉を叩く乾いた音。


「はい、どうぞ」


 ソムリエが優しく声をかけると、ギギギと音を立てながら木の扉が開いた。


「失礼します。叫びソムリエさん……ってここで良いんですか?」


 姿を現したのは、落ち着いた服装に身を包んだ若い女性。

 顔や表情も大人しそうで、とても海に向かって叫ぶようには見えない。


「そうですよ。いかにも、私が叫びソムリエです。どうぞどうぞ、そちらへおかけ下さい」


 ソムリエが正面のソファに手を向けると、女性は「よろしくお願いします」と頭を下げながらそっと座った。


「では早速ですが、今回は何がきっかけでこちらへ?」

「はい。具体的にこれ、というものがあるわけじゃないのですが、何となく心がモヤモヤしちゃって、海に向かって叫んだりとか出来たらスッキリするのかな……って」

「なるほど」


 ソムリエは少しニヤッと笑いながら、「あっ、失礼。いま飲み物を用意しますので」と言ってソファから立ち上がり、そばに置いてあるウォーターサーバー……ではなく、小さな流し台の蛇口を捻って紙コップに水を注いだ。

 ソファに戻り、テーブルの上にそれを置く。


「どうぞ」

「えっ、あっ、はぁ……」


 女性は戸惑いながら紙コップを手に持って、ひとくちだけ飲んですぐにテーブルの上に戻した。


「特にないってことだけど、実は何かあるんじゃないかな? いや、絶対あるでしょ。ここに来るのに何か無いわけがない。騒ぐんだよね。ソムリエの勘、ってヤツが」

「えっ? いや、本当に何も無いんですけど……」

「そんなわけ無いでしょ。ちなみにあなた、職業は?」

「会社員……です」


 気が弱そうな女性は急変したソムリエの態度に顔を引きつらせつつも、すぐにこの場を立ち去るようなことはしなかった。


「なるほどね。だったら、イヤな上司の1人や2人、気に食わない同僚や仕事相手の2人や3人ぐらい居るでしょ?」

「それは……まあ、全く居ないと言ったら嘘になるかもしれませんが、基本的にアットホームな職場ですし、仕事内容的にもそれほどタイトでも無いので強く恨むようなことは別に──」

「あっ、分かった。友人関係でしょ? そうだそうだ。あなた、気が弱そうだもんね。友達から行きたくも無い誘いを受けても断れなくてイヤな思いをしたり、自慢話をされ続けてうんざりしたり。それとも、自分だけのけ者にされてるのをSNSで知っちゃったとか……」

「そんなことありません! 確かに、人付き合いが得意な方じゃないですけど、とても良い友人たちに恵まれていてイヤな思いをしたことなんてほとんど無いです!」


 女性の表情が熱を帯びてきてるのを確認すると、ソムリエは何故か嬉しそうに笑った。


「はいはい。じゃあ恋愛関係だな。間違い無い。男と縁が無くて辛いとか? それとも、付き合った男に浮気されまくってるとか、金をせびられてるとか──」

「無いですってば!! いま付き合ってる彼はとても優しいですし、浮気なんか絶対にする人じゃ無いです! 確かに、ちょっとしたことでケンカしちゃったりもするけど、怒鳴るとか手が出るなんてことは絶対に無いですし、ちゃんと言葉を交わして最後はお互い納得できてるんでストレスになったりなんてしてませんから!!」

「ふーん。それじゃ、家族関係か」

「違います! うちはみんな仲良しなので!」

「じゃあ、金か」

「違います! 贅沢できるほどは貰って無いですけど、困るほどでも無いので!」

「なるほど。それじゃ、こんな所に来る必要無いのでは? 仕事も人間関係もお金も特に悩みが無いなんて幸せ以外の何ものでも無いですよ。さあ、帰った帰った」

「そ、そんな言い方……。酷い! 酷すぎる! さすがに我慢できません。失礼します!!」


 女性は顔を真っ赤にしながら立ち上がると、ソムリエを睨み付け、スッと背中を向けて駆け足で小屋から外に飛び出した。

 その背中を、ソムリエはフフッと笑いながら黙って見送った。

 そして……。


「バカヤロー!! なにあのソムリエ、言いたい放題言いやがってバカヤロー!! 言葉じゃ上手く説明出来ないモヤモヤがあるんだよー!! そもそも叫びソムリエとかいう仕事自体胡散臭いんだよー!! ちゃんと資格持ってるのかバカヤロー!! 何も分かって無いくせに偉そうなんだよバカヤロー!!」


 潮風と共に、女性の叫び声が窓を通って小屋の中へと飛び込んで来た。

 それを耳にしたソムリエの顔は見る見る内に曇っていく……どころか、満足げな笑みすら浮かべている。


 怒りの対象が明確な人間は、迷わず海に向かって叫ぶことができるのだ。

 しかし、現代にはびこるストレスの多くはそう単純では無い。

 細切れのストレスが折り重なり、その形は歪で実にモヤモヤしたものである。

 そんなクライアントがやってきた場合、熟練の叫びソムリエは進んで自ら〈仮想敵〉なり、自然と海に向かって叫びたくなるように促す。

 大声で叫ぶというのは、実に健康的かつ効率的なストレス解消法なのであ──。


「バカヤロー! なんか終始ニヤニヤしてるの気持ち悪いし反吐がでるよー!! しかも歯に青ノリ付いてるの気付いて無いだろバカヤロー!! お昼に焼きそば食べたろバカヤロー! ちゃんと歯磨きしろバカヤロー!」

「……えっ!?」


 ソムリエは慌てた顔して立ち上がり、急いで鏡を探すのであった……。

 


〈了〉

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