キスが死ぬほど上手な男
あるところに、キスが死ぬほど上手な男がいた。
中肉中背。
顔も普通。
しかし、キスが死ぬほど上手だった。
その男にキスをされた女性は、あまりの気持ちよさにイヤな事を全て忘れることができた。
どんなに大きな悩みやストレスを抱えた女性でも、彼にキスをされたらそんな感情は全て吹き飛び、明るく前向きに生きていけるようになった。
そして、彼自身も自分のキスに特別な能力が備わっている事を自覚していた。
女性達は皆、彼にキスされた後は当然の如く2度目のキスを求めたが、彼は必ず断った。
1人でも多くの女性とキスをして、1人でも多くの女性を救う。
それこそが、この世に生まれてきた自分の使命のように思えたからだ。
彼の噂を聞きつけて、世界中から悩める女性達が彼のキスを求めにやってきた。
収集が付かなくなったので、事務所を借りて、インターネット予約制にした。
家賃やスタッフの給料を賄うために、少額ながらキスを有料化したのだが、それでも極上のキスを求める女性達は減るどころか増え続ける一方だった。
事務所の周りには、キス待ち女性のための飲食店や滞在するためのホテルが次々とオープンし、どこも連日満員状態。
キス後女性は心のモヤモヤが晴れて、財布の紐も緩くなり、その需要に応えるかの如くアパレルショップやブランド直営店なども次々と出店し、笑顔の女性達で賑わった。
元々、事務所は2つの駅のちょうど中間地点に位置していたのだが、急速な発展に便乗するかのごとく、鉄道会社は突貫工事で新駅を開設。
瞬く間に、世界一の乗降客を誇る駅となった。
キスが死ぬほど上手な男は、来る日も来る日も、女性にキスし続けた。
食事とトイレと睡眠以外全ての時間をキスに費やした。
それでも最初の頃は、彼自身もキスに快感を覚えていたが、いつの頃からか、全く何も感じなくなってしまった。
相手の女性が美女だろうがそうでなかろうが、好みのタイプだろうがそうでなかろうが、キスしても何も感じない。
ただ、唇と言う名の肌と肌がふれ合ってるだけ。
ただ、舌と言う名の肌と肌が絡み合ってるだけ。
彼とキスを交わした女性達が幸せになるのに反比例するかの如く、彼の心は渇いていった。
とある晩。
営業時間が終わり、彼は腫れた唇にクリームを塗りながら、ふと考えた。
自分のキスで女性を幸せにすることができるけど、それは果たして女性だけなのだろうか?
「今日もお疲れ様でした」
男性スタッフが、暖かいコーヒーを持ってきてくれた。
キス男は、半ば無意識にスタッフの手を握った。
スタッフはビクッとなったが、その手をふりほどこうとはしなかった。
キス男は、好奇心半分、そしてもう半分はいつも尽くしてくれる男性スタッフへの慰労の気持ちとして、そっと彼の唇にキスをした。
数秒後、キス男は野暮は承知の上で、男性スタッフに「……どう?」と聞いた。
男性スタッフは自分の心の中を探るように目をつぶり、そしてまた目を開けた。
「ごめんなさい。たぶん、女性たちのようにはなっていないと思います」
男性スタッフは申し訳なさそうに答えた。
「あっ、でも……さすがに上手っすね。僕、もちろんそういう趣味なんて無いんですが、今までのどのキスよりも凄かったです。とか言っちゃったりして」
と、はにかむ男性スタッフの無邪気な笑顔に、思わずキス男はキュンとしてしまった。
自分だってそういう趣味があるわけじゃない。
だけど、ある意味ビジネスと化した冷たいキスばかりの日々で冷え切った唇が、男性スタッフとのたった1度のキスで温もりを取り戻していた。
そんなことあるわけ無い、と思いつつ、恋愛感情のようなものさえ芽生えていた。
それから数日間、通常通り営業したものの、キス男は耐えきれなくなり、突如店じまいした。
男性スタッフに対する純潔、ある種の貞操観念のようなものだった。
彼以外の人間とのキスによる罪悪感に耐えきれなくなったのだ。
当然、死ぬほど上手なキスを待ちわびていた女性達からのクレームが相次いだ。
キスが死ぬほど上手だった男は、全世界に向けて声明を出した。
「キスとは、本当に愛している人とするべきです。
あなたたちの心を癒やすのにふさわしい人間は私ではなく、
あなたたちが愛する人。
あなたたちを愛してくれる人。
それは、すぐに見つからないかも知れない。
でも、どんな人にも必ずどこかにその相手は存在しています。
その相手を探す事、それも愛の一部なんだと私は思います」
そして、彼は普通の男に戻った。
〈了〉
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