第13章 エッジ(8)

 

 

 

「優丸、教えてくれ。どの辺りで、パラレルワールドに陥ってしまったと気付いたんだ?」

 

 しばらく待ったが、優丸の返答が頭の中に流れてこない。涼香が察するに、礼韻が打ちのめされるのを慮って、口を噤んでいるようだった。

 

「優丸、正直に答えてくれ」

 

 礼韻が促し、優丸は目を閉じて腕組みをした。そして、

 

「福島正則が撃たれたとき」

 

 礼韻と涼香の頭の中に、優丸の声が静かに流れてきた。拈華微笑の会話は声を発しないので、やり取りをしているとき、表情は平静で、特に変化がない。しかしこの言葉のあとだけは、礼韻は悔しさを顔いっぱいに浮かべた。3人だけだからいいものの、他人がいれば不自然に思うほどの表情の変化だった。

 

 それだけ礼韻の悔しさは強いのだ、と涼香は思った。福島正則が明石全登の指揮する鉄砲隊に撃たれたとき、礼韻は、史書にも書かれていない場面を見られたと興奮していた。涼香自身もそう思った。しかし優丸だけは、沈んだ面持ちだった。涼香はそのとき分からなかったが、こうなって初めて氷解した。そのときに聞いた舌打ちを、今、思い出した。

 

 同じ場面を見ながら、思慮がまわらなかった。礼韻は自分の無能さを責めた。何故、疑わなかったのか。自分の都合のよいように信じてしまったのか。しかも、まるで子どものようにはしゃいでいた。ましてや、となりにいる人間が気付いているというのに。礼韻は最も信頼していた「自分」というものを信じられなくなった。それは落ち込むと同時に、怖いことだった。これで今後、頼るべきものがいなくなってしまったのだ。礼韻はうなだれ、頭を抱えた。

 

「あの時点でパラレルワールドに気付いたとしても、もう手遅れだった。礼韻、そう自分を責め立てるな。責めて、なんの得がある。この状況下で悩んだり自分を責めたりするのは、不利になるだけだ」

 

 優丸は礼韻の合理的な性格に合わせて慰めの言葉を送ったが、今回ばかりは効かなかった。礼韻は、自分はバカだ、自分はバカだと繰り返した。

 

 しばらくはなんの言葉も受け付けないだろうと、涼香は盆地の方に体を向けた。礼韻の性格や行動パターンを熟知している度合いは、優丸より上だった。ここは少なくとも、5分や10分は触れないでおくに限る。涼香は意識そのものを礼韻からはずすようにして、それを優丸にも拈華微笑で伝えた。

 

 盆地のそこかしこに、炎の明かりがあった。機械の作り出す灯りはなく、その、中空の星のように散らばる、揺らめく原始的な光を、涼香は心の底からきれいだと思った。なんだか、体の中がきれいに掃除されていくような感覚になる。ほんの一瞬だが、この景色を見られたのなら、思い残すことなく死ねるのではないかという気分になった。

 

 もう日付は変わっているのだろうか。丑三つ時までどれくらいだろうか。時計がないので分からない。次元断層に嵌ったところで、帷面はなに一つ変わることなく迎えに来るかもしれない。だが事前の説明では、迎えに行ったらいなかったという例も多いと言っていた。もしかしたら行方不明の時間旅行者は、自分と同じように次元断層に落ち、パラレルワールドに行ってしまったのではないか。先ほどは景色を見て死んでもいいと思った涼香だが、今はもう、そんな思いが消し飛んでいる。両親の顔や声、印象に残っている思い出が頭に浮かび、涙が頬を伝った。

 

 果たして帷面が来なかったとしたら、その後、どうすればいいかも問題だった。帷面がパラレルワールドの一つ一つを捜してくれるとしたら、時間がかかっても見つけてくれるだろう。もしそうなら、それを想定してこの場所に居着かなければならない。だが、それは不可能に思えた。そして帷面と出会えないのであれば、この戦国の世で生きなければならない。

 

 意外にも、寒さは厳しくなかった。あるいは、現代に戻れるかどうかという気の張った状態なので、寒さなどに気がまわらないのかもしれない。いずれにしても、寒さは気にならなかった。それでも暖まっておこうと、涼香は盆地に向けた体を焚火に戻し、手をかざした。

 

 

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