第11章 裏切り(19)

 

 涼香は最初、銃声に驚いて小早川秀秋がひっくり返ったのかと思った。

 

 だが、様子が違った。

 

「なに、あれ?」

 

 その異常な光景に、涼香は思わず望遠鏡を外して肉眼で凝視し、しかし見づらいからと再び望遠鏡で見た。

 

「なんなの?」

 

 あまりの思惑の外の光景に、呟きは無意識から発したものだった。天に向かった小早川秀秋の顔が、赤く染まっている。口から、泡状の血を流しているのだ。時おり間欠泉のように、シャッと噴き出す。その浴びせられる血を、秀秋は拭こうともしない。

 

 さらには地についた背からの血。赤い輪が、拡がっていく。両の腕が不規則に宙を掻いていた。

 

 平岡頼勝が秀秋に向かって猛然と走る。さきほどまでのどっしりと構えた様がウソのような俊敏さだ。そして滑り込むように秀秋の側面に付いた。

 

「なんで、どうして?」

 

 頼勝に上半身を起こされた小早川秀秋の目玉が、今にも飛び出しそうだ。秩序ある現代に生まれた涼香は、当然ながら殺害場面になど出遭ったことなどない。しかしこれはどう見ても、死ぬとしか思えなかった。

 

「なんで、なんで……」

 

 涼香の呟きがうわ言のようになっている。望遠鏡越しの光景が、どういう訳なのかまったく分からない。関ヶ原の合戦というストーリーでは、小早川秀秋は死ぬ役割ではない。これは決まりきったストーリーで、変わるはずがなかった。

 

 しかし、秀秋は撃たれ、最早絶命しかけている。一片も想像しなかったことが、目の前で繰り広げられている。全身の痙攣に多量の出血、喀血。戦国時代より医療の発達した現代でさえ、あれほどの重症は手に負えないだろう。

 

「どうして……」

 

 これは礼韻の呟きだった。ハッとして涼香は礼韻を見る。涼香と同じように、望遠鏡を外して驚愕の表情で見つめていた。

 

 自分と同じように驚いている礼韻を見たことで、涼香はいくぶん冷静さを取り戻した。そしてあらためて望遠鏡を手にし、松尾山を見た。

 

 近習に囲まれ、秀秋どころか頼勝も見えない。「殿ォ!」、「殿ォ!」とここまで聞こえるほどに、男たちが叫んでいる。

 

 小早川秀秋は関ヶ原の2年後に狂死する。その定説はウソだったのだ。涼香は今度、反対側の優丸を見る。礼韻と同じような驚愕の表情があると、当然思い込んでいた。しかしちがった。平然と松尾山を見ていた優丸は涼香の視線を感じると目を合わせた。そしてどういう訳か、小さく苦笑を浮かべた。

 

 その笑った顔を見た涼香は、理由もなく背筋を凍らせた。状況にかみ合わない表情に対する薄気味悪さももちろんある。しかしそれ以上に、笑い顔そのものが、冷水を浴びせられるように恐れを抱かせるものだった。

  

 近習の輪から一人が抜けた。信じられないという顔の平岡頼勝だった。おそらくは小早川秀秋が絶命したのだろう。涼香は思う。当たり前だ。あれほど血が噴き出していたのだから。平岡頼勝もまた、全身血だらけだった。あれは秀秋の血なのだ。

 

 これからどうする。平岡頼勝が軍を率いていくのだろうか。涼香はその定説とのあまりのギャップに、頭がまったく回らなかった。

 

 

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