22、恋に耽溺する

 飛蚊症、正しくはそれが原因で飛んでいる虫に恋をした。

 それは私の視界の端から前方にかけてチラチラと自由に舞っていて、私がじっと見つめるとすっと消える。意識していないとずっとそこにいて、それでも彼女は美しい。私が一歩前に出ると彼女も一歩、と言っていいのかわからないけれど前に進む。

 私は彼女に触れたいけれど、その手は何時も届かない。それはきっと彼女が私の目の中にいるからで、それでいて私のからだの外にいるからである。彼女も私に恋をしているから私の目の中で外で飛び回るし、私はそれを眺めて幸せな気分になれる。私たちはいいパートナーになれるだろう。

 私は彼女と旅行に来ている。そこは海の綺麗なところで、夜になったら涼しいだろうから後で2人で歩こうと思う。楽しみだな、期待に胸を膨らませ。

 私は旅館で2人ぶんの食事を前に彼女と向き合っている。彼女はご飯が食べられないから、やっぱり視界をふよふよと漂っている。箸で掴もうとしたけれど、当然の如く空振りする。悔しいから何度も何度も掴もうとした。届かない。いつも逃げる。逃げるから届かない。逃げて届かない追いつきたい届きたい。逃げたい消えた現れてまた消えた。がしゃん、御膳を倒してしまった。

 2人分の御膳を見て訝しげな顔をする仲居さんを見送って席について大人しくご飯を食べる。やっぱり彼女の御膳の上の物は減らない。彼女は僕の中にいて外にいるから、他に人には見えない。そこに存在するのに存在しない。そこに飛んでいる彼女は上に飛び回って落ちる。手を伸ばしたら消える。消えて現れて消えて現れる。見え隠れ見え隠れ。そこから落ちてまた浮く。そして激しく揺れ動く。まるで僕の心みたいに上下左右に振動している。揺れ動く揺れ動く。掴みたい届かない消えた見えた。逃げた消えた、私の彼女はそこにいるはずなのに消えた見えた。なんで、なんでなんでどうして。嘘、嘘。

 海に出る。海から星が見えるから海に出る。空の星を見たいから堤防に登る。上、上、彼女が星と星の間を飛び回っている。空、星、空、空、時々満点の星空。橋がかかっている訳じゃ無いのに、彼女は川を泳ぐ。ああ、そっちに行かないで、彦星の元に行かないで、牽牛の元に行かないで、ああ、僕の織姫。僕の彼女、離れないで、追いかける掴む消える落ちる。私が恋に耽溺しても彼女は私と一定の距離を保って追いかけてくる。私は手を伸ばす掴む消える届かない深みに沈む。ああ、美しい彼女と沈む。意識そのままに沈む沈む、恋に沈む耽溺する。願わくば愛したい、愛せない、沈む。彼女の手を掴む、掴む。意識が沈む。おやすみ飛蚊。

 私にとっては、めでたしめでたし、ハッピーエンド。

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