第40話
連中の変身ぶりときたら、それは、それは、見事だった。あのお祭り騒ぎは現実だったのか。皆のスイッチが受験モードに切り替わった中で、さり気なく立て掛けられた蛍光色の巨大ポスターだけが、少しの余韻を醸し出していた。
僕らの周りはどうだろう。ほんのちょっぴり彩度が上がったと感じるのは、僕だけだろうか。
高く澄んだ空から冷たい風が降りて来る頃、海雪が話してくれたとおりに、小さな庭の楓は鮮やかな金色に輝いた。同じ頃、僕のもとには、先々にやらねばならない重要な事を教えてくれる場所への入場許可証が届いた。
想像すらできなかった未来でも、いつかはやって来る。そして、また、続く。
夢の扉を開けたり閉めたりしている僕の頭に、ぼんぼんと絃を叩く音が鳴り響いた。
いきなり二小節目で間違えたラフマニノフは、あたかも海雪が編曲でもしたようにハーモニーが調和していない。ちょっと聴かない間に下手になったな、と思いながら、僕は何度も眠りに堕ちた。
やがて、不安を煽る子守歌と雨音の韻律が交差して、扉は開け放たれる。
あめがふる
あめがふる
あめがふるから
お庭は、よそう
坊やは、いいこ
いいこは、ねんね
あめがふるから
おうちで、ねんね
それがドビュッシーだと判断した頭は、瞼を押し広げた。
僕の眼に映ったのは、開きっ放しの英語のテキストと、しわくちゃに丸められたハンバーガーの包み紙、それから、ストローのささった紙カップがふたつだった。
「空から金平糖がバラバラって降ってきたみたいだ。雨の庭、じゃなくて、飴の庭、だな」
晩春にふたりで聴いたフジコ・ヘミングを真似ようと、夏によちよち歩きしていた指が、いつの間にか十二月の雨と同じ音を叩いている。
「飴玉が空から降ってきたら最高じゃん」
と、海雪はいっそう愉快に『雨の庭』を鳴らす。
「課題は……?」
ベッドの上で半身をねじると、チョコレート色のピアノが威厳を振りかざすように海雪を包んでいるのがぼんやりと見えた。
「終わったよ」
ぐりぐりと眼をこすりながら机に手を伸ばし、テキストの下に挟まったノートをつまみ取ってみたけれど、僕の顔の上に広がる文字は、寝ぼけた脳みそのせいでナメクジが這った跡にしか見えなかった。
「ちゃんと、やったって……」
僕から奪い取ったノートを枕元に放り投げた海雪が、ベッドに潜り込む。忌々しいほど爽やかな香りが、僕の鼻をくすぐる。
「俺さあ、海雪の受験が終わるまで、来ない方がよくない? 何もしないでごろごろされたんじゃあ、勉強の邪魔でしょ?」
「邪魔じゃないよ」
暇なら本でも読むか、という言葉には首をふったけれど、退屈で、つい眠ってしまった。どうも、あの古い書棚は苦手だ。
「誰も居ないと、勉強サボるかもしれないじゃん」
そう言って、海雪は幼い子供のように、僕の体をきゅうと締め付ける。
「あったかい……」
やわらかい髪がうなじに触れた。体をずらしてごろんとうつ伏せになると、窓際の鉢植えに指があたった。
「冷てえっ」
そっと脇腹に忍び込んだ指に、思わず身をよじった。
「ああ……さっきまで……ピアノを……弾いていたから……」
宿主となったコオロギが心を食んでいた。でも、すっかり鈍麻な僕は「代替品」に甘んずる。
「……ねえ……また……連弾……しよ……」
「海雪が大学に合格したらな」
腰骨にあたる海雪の小指がジーンズのベルトを引っ掛ける。
「……うん……」
今は、ただの〝僕ら〟でいい。けれども僕のコオロギは、海雪がいつか言った空気や風になりたがっているのかもしれない。鳥が落とした種を萌芽させ、やがては結実させる、例えば土なんか、いいかもしれない。
そんなことばかり静思する、この部屋は暖かな巣箱で、僕らは飛べない雛鳥だ。
あめがふるから
おうちで、ねんね
僕は、傍らで寝息をたてるこの子を、ただ、護りたかった。
夢の扉の向こうに、僕は立っていた。
雨は、そんなに甘いものじゃない。
体をすっぽり覆い隠す大きなこうもり傘を差し、どこを見回しても何もない灰色の空を見上げていた。
傘に穴が開かなければ、いいな───
ひと粒ずつ光を放つ雨は、見たことのないくらい美しかったけれど、どれも傘の上で勢いよく跳ねていた。跳ねた雨粒は、ぶつかり合っては鋭い音をたて、黒い厚底のゴム長靴の下で割れていた。
足に刺さらなければ、いいな───
解けることも流れることもなく積っていく雨粒を、僕の長靴はざりざりと踏み潰す。歩いても歩いても、雨は、行く先を隠す。神様が降らせているのは、硝子の欠片だった。
そして、老人のように腰を曲げた僕は、裸足で眠る海雪を背負い、降り続く硝子の中を彷徨っていた。
了
硝子の庭にライムの香り 吉浦 海 @uominoyama
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます