第70話

僕が代々木の予備校に通っていた高校3年の夏のことだった。

僕はその日の夜、夏期講習を終えて、

新百合ヶ丘の駅で始発の多摩線の電車に乗り換え、出発を待っていた。


出発まで少し間があったので、携帯ラジオをつけた。

当時僕はヘッドホンステレオなどという、しゃれたものは持っていなかった。

当然スマホはない。

ラジオだけが、僕の頼りだった。

野球も音楽も好きなので、ラジオがあれば当時は生きていけた。


その日も、プロ野球巨人戦のナイトゲームの中継を聞こうと、ラジオをつけた。


すると、手が滑って、

普段使わないテレビの音声を聞くモードに変えてしまった。


1チャンネル、NHKが入った。

すぐに元に戻そうとしたが、鈴木健二アナウンサーの声が聞こえた。


僕は中学生のとき、鈴木さんの本を読んで面白いと思ったので

鈴木さんが何をしゃべっているのかが気になった。


「小学生にも人気があったのですか、この番組」


何のことだろう、と思っていたら、今度は女優さんが


「そうなんです。では、番組でよく歌われた歌『涙をこえて』です。どうぞ」


と言って、僕は驚いた。


「え、涙をこえて!?」


僕は中学1年のときに、

隣のクラスの合唱曲として「涙をこえて」に出会い、メロメロになったが、

僕の実家はかなり田舎で、レコード屋も遠かったので

「涙をこえて」をレコード屋で捜すことはなかった。


僕の知っている「涙をこえて」は、

田舎の中学生の下手くそな声の塊に過ぎなかった。



その歌をこれから歌う。本物の「涙をこえて」が聞ける。

高校生の僕は、突然の幸運に驚いていた。


僕は耳を澄ませた。

快活で滑舌のよい澄んだコーラスと、アップテンポの演奏に惹かれた。


最後の「アーッ」「アーッ」「アーッ」というコーラスのところでは、鳥肌が立った。



そうか、「涙をこえて」って、本当はこんな曲だったんだ。


中1のとき出会ってから、5年経って、ようやく本物の「涙をこえて」に出会えた。

僕は本当にうれしく、巨人戦のことはもうすっかり忘れていた。

その後もこの番組を聴き続けたところ、

「思い出のメロディー」だということがわかった。


家に着くと、たまたま父親がビデオにこの番組を録画していたので、

僕はそのビデオの「涙をこえて」の部分を再生してカセットテープに録音し、

勉強の合間に、テープが擦り切れるくらい聞いた。


このテープと、それから何と言っても佳子さんの存在が励みになり、

僕は、ものすごい長時間の受験勉強にも、耐えられた。



もし、この多摩線のさびしい電車の中で

本物の「涙をこえて」に出会っていなかったら、

僕は一体、どんな人生を送っていたのだろう。



こんなに大きな思い出を、いつの間にか忘れていたのも不思議だが、

新百合ヶ丘のホームと多摩線の電車を見て、急に思い出ががよみがえったのも、

また不思議だ。


人間の記憶は、やはりどこかにすべて眠っていて、

きっかけの連鎖で再起動されるものなのか。


そして、自分の人生の場面場面に「涙をこえて」が何度も出てくるのは、

さらに不思議だ。



そういえば、以前、坂の上テレビの先輩に言われたことがある。

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