第五話 たったひとつの
──雪の上にただ一つ、血に濡れた赤い宝石。冷たくしかし尊く、失うことなき輝き。傷つきたとえ砕けても、変わりなきその気高さよ。
──その宝石拾う者、おのずとその手を血に染める。血に飢える石よ、新たなる滴りに輝き。その石持つ者、天の声聞き。その石持つ者、地の声を聞く。
──天の彼方の音なき声。地の底よりの音なき声。真白き雪に覆われて、全てを無に還しても。囁く石は血に染める。囁く石は血に染める。
1ミリア。ゲートの外に停まったのは、黒塗りの高級車。定刻通りだった。
カツミの腕を掴んで離さなかったシドだったが、なだめられて渋々後部座席に乗り込む。
「今度はいつ?」
「すぐに。待っていて」
車の窓越しに交わされる優しいキス。カツミの返事に微笑んだシドは、素直に頷くと手を振った。
音もなく滑るように車が遠ざかる。赤いテールランプを見送るカツミの背に、背後から声がかけられた。
「これで良かったんですか?」
振り返ることなくカツミが答えた。
「他の方法なんて思いつかなかったんだ」
「貴方のことを?」
「ジェイだと思ってる」
自分はシドに与えられるだろうか。いや、奪っただけのものを埋めることが出来るのだろうか。
そう思いながらも、カツミはひとつの区切りにようやくほっと息をつく。その右手に重い罪を、左手には彼もまだ知らない希望を握ったままで。
「俺は忘れませんでしたよ」
「みたいだね」
頬を緩めてカツミが振り向くと、見くびるなと言わんばかりに顎を上げたルシファーがいた。
カツミの行動に干渉しない。しかし共有する記憶だけは手放さない。ルシファーは全てを知りながらも、ただ見守っていた。その宣言通りに。
「俺と貴方とアーロン。それくらいですか? あの人を知ってるのは」
「でも、今からまた知っていくんだよ」
後のことはアーロンが全て引き受ける。それがカツミの条件だった。
純化された存在は、想いとともにずっと生きるのだ。瞼を閉じるだけで大切な人は傍にいる。
「会いに行くんですね」
「もちろん。大切な人だからね」
ルシファーの瞳に映るカツミは、微かな笑みを浮かべていた。殺すこと以上に残酷なこと。それを実行しながらも。
「あ、呼んでる」
心の中にシドの声を聞き、カツミが呟く。
ジェイへの想い。その想いだけを胸にシドは生きていた。苦痛はない。彼はもう、それを感じることが出来ない。その意味すら分からない。真っ白な自我に、ジェイへの想いだけを映しているのだから。
「今日の任務、忙しいですよ。眠れますか?」
ルシファーの問いに、カツミが目を細めた。
「眠るより、やりたいことがあるんだ」
「やりたいこと?」
「うん。つき合ってくれる?」
「なんですか?」
再び問われたカツミが拗ねた顔をすると、ルシファーが瞬きをした。鈍いやつと言うなりカツミが歩き出す。
透明な、まるで穢れを知らない笑みを浮かべて。
◇
早朝。寒さに目を覚まして寝返りをうったルシファーは、カツミが身体を起こしていることに気づいた。慌てて眠ったふりをすると薄目を開ける。
カツミは膝を抱え、何かを祈っているように見えた。その肩は震えている。嗚咽を堪えているのがすぐに分かるほどに。
しかしルシファーは声をかけなかった。ただ、ずっと傍にいる。見守り続ける。それだけを思っていた。
出兵を明日に控えながらも、ルシファーは高揚感に満たされていた。カツミと一緒ならば、きっと、ずっと遠くまで行ける。そう感じていたのだ。
不安の中にも希望があった。分からないから、未知だからこそ、人は道の先に望みを繋げる。今を生きられるのだ。隣で歩く人がいてくれるから、自分は今の立ち位置を知ることが出来る。
視線の先には紅く印を残した背。思わず頬を寄せたくなる柔らかく波打った髪。しなやかに伸びた腕。
愛おしさの中で、ルシファーは再び寝返りをうつ。
そっと顔を向けたカツミのことは知らなかった。
静寂が続いた。息苦しさなど微塵もない、安らぎに満ちた静けさが。
「力を分けてね」
突然、呟くようにカツミが願いを告げた。
「まだ、道の途中だから」
その声を耳にしたルシファーが、そっと頬を緩める。彼の脳裏に、カツミが解放した意識が静かに流れ込んできた。
──まだ、行く末を定めたばかりだから。
突き進むことも。立ち止まることも。沈黙も激昂も。許容も放棄も。歩を踏み出す道の上。砂粒のように無尽に敷き詰められたもの。
簡単に飛び越えられる時もあれば、踏みしめて血を流さなければ、進めない時もある。
傷ついては癒し、俯いては顔を上げ。それでも、人は歩き続けていく。たったひとつのものを掴むために。
起き上がったルシファーが、カツミの肩に腕をまわした。そっと耳元でささやく。
「ずっと一緒ですよ」
寄り添うひと言に、カツミが小さく安堵の息を漏らした。その頬に伝う涙は……温かかった。
◇
春を告げる終わりの雪が降っていた。雨まじりの重たい雪が。やがて来る春風を待ちきれない小さな花が、微かに芳香を放っている。
終わってしまったものと終わらないもの。これからも続くものと変わりゆくもの。
生と死。それは、この薄い花びらの表裏ほど近い。
糸のように細い道の上を、鋭く切り立った断崖の上を、誰もが奇跡のように歩いている。
道の先で待つのは、カツミに課せられた使命だった。『導く者』。この星を導く者。四世代にも渡り試練を受け続けた一族の末裔。それが、カツミだった。
──束ねるものと出会いなさい。
百年前。予言を残し、この星の海に消えた王女。
彼女は告げ続ける。カツミがその声を聞く時まで。この星の意識の底を洗う日まで。
◇
──半年後。
カツミは父の残したデータカードを片端から端末に差し入れ、ある情報を探していた。
表示されるデータは父の仕事関連のものばかりだったが、それとは別の何かが残されている予感がしたのだ。
夜半過ぎ。
「これ……だ!」
表示されたデータを見て、カツミが思わず声をあげた。予感は当たっていた。
データの文頭にあったのは、この国の誰もが知る伝説だった。ラヴィ・シルバーとルディ・セルディス。かつての撃墜王と、その盟友の物語。
カツミがルシファーと出会ったのは、決して偶然ではなかったのだ。過去から続く引力を運命と呼ぶのなら、二人の出会いをそう呼ぶのかもしれない。
シーバルという姓は途中で変えられたもの。元々はシルバー。カツミこそがラヴィ・シルバーの末裔だった。
しかし。その後の記録は現実からかけ離れ過ぎていた。百年前から続く呪いの予言。それに翻弄された先祖の歴史。そして、カツミに課せられた宿命。
事実なのか、空想の産物か。それすら分からない。
嬉しさと不安。何も知らないカツミは、相反する思いの中で戸惑うばかりだった。
──束ねるものと出会いなさい。これから連綿と続く、この国を束ねてゆくものと。そのものの指し示す事々に従いなさい。この混沌を救う神に出会いなさい。
その『声』が届くのは、カツミが本当の意味で能力の封印を解く時。
その日まで、あと十年の歳月が必要だった。
──了──
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