第八話
部室の扉の前で一度立ち止まり深く息をする。
躊躇ってもしょうがない。ここまで予定通りじゃないか。
中に入るとドラムセットに座った戸神が責めるよう鋭い視線をこちらに向けてきた。
「貸し切りって言ったのに」
「そのことは謝る。ごめん。だけど」
「バイトがあるから」
「待って! 少しだけ話を聞いてほしい」
「言いたいことはわかってる」
先ほどの事を思い返しているのか、戻りつつあった血の気がまた引いていく。
「確かにあそこからだと人の視線は見えない。でも、そんなこと関係ない。見えてなくても感じるの。私を攻撃してくる多くの視線を」
そんな事は言われなくてもわかっている。戸神が感じている視線は戸神自身が作り出しているものだ。そこに人がいるかいないかは関係ない。しかし、俺が伝えたかった事はそういう事ではないんだ。
「感じたのはそれだけか?」
俺の問いに戸神の動きが止まる。
「セッションしてる時どうだった? 途中から視線なんてどうでもよくなってただろう。それにこっちを煽って楽しんで」
「そんなのわかってる!」
戸神は感情を吐き出すように叫ぶ。
「頭ではわかってるの……楽しかった。あんな大きな場所でセッション出来て爽快だった。でも、もしも、次駄目だったら。本番で駄目だったら。そう考えると、手が震えて」
「そんなもしもは考えるだけ無駄だ。戸神が気にするべきもしもは俺の事で十分だ」
「どういうこと?」
「俺が駄目になりそうなとき助けてくれただろ。そういうことは周りの空気に敏感なやつじゃないとできない」
ハッと息をのむと瞳を大きく見開く。
「胸を張っていう事じゃないが、俺はまだまだ初心者に毛が生えた程度だ。だからこそ、戸神のドラムが必要なんだ。戸神となら俺は100%の演奏が出来る」
大きく開かれた瞳で戸神は何も応えずじっとこちらを見据える。
「だが、俺もリズム隊だ。これからどんどん上手くなって引っ張っていけるようになるから。空気読むのは少し苦手だけど、勢いだけはあると思ってるし。任せっきりにすることは絶対に無いから」
もう一押しのはずなのだが、上手い言葉が浮かんでこない。
「どうしてそこまでするの?」
戸神は言葉を零すようにこちらに問いかける。
「音を探しているんだ。昔聴いた心が弾んで、踊って、昂る様な音を」
それはカノンとだけ演奏をすれば見えてくるものではないと今では思っている。音の形を想像してみて気づいた。俺の音には鈴葉や戸神が混ざっている。
「それを見つけるためにも俺はみんなと新フェスに出たい」
「もう一つ聞いていい?」
戸神はこちらに視線を合わせると、表情に決意の色が浮かべる。
「私をバンドに誘うのは私の為?」
まるで赤と青どちらの導線を切るのか選択を迫られているようだった。
「もちろん」
迷うことはない。正直に話そう。正直に話せば許してくれる。
「バンドの為だ」
たとえ嘘をついても、人の気持ちに敏感な戸神にはすぐばれる。
「このバンドには戸神のドラムが必要だ。最初からそうだった。戸神の視線恐怖症を
克服するために誘ったわけじゃない。寧ろそんな事はどうでもいい」
どうして俺はこんなに必死になっているのだろう。皆でバンドを組んで新フェスに出てその先には待っているものとはいったい。
「……わかった」
ぼそりとソプラノの声が響く。
「私もバンドの為に新フェスに出る。ついでに視線恐怖症も治ったら一石二勝」
どうやら俺は正しい選択をできたらしい。
「それを言うなら一石二鳥な。これからよろしくな」
握手を求めて右手を差し出す。
「ベースとドラムはパートナーだからな」
戸神は今まで見たことがないほどに、戸惑った表情をしている。手を震わせながら、こちらの手に僅かに触れた。握手には程遠く、しかし、無視でもなく。
「バイト、行ってくる」
戸神は逃げるように部室を後にする。
俺はうまくいったことへの高揚感を抑えられず、足取り軽く鳥籠に向かった。
鳥籠に戻ると正面入り口で両脇を楽器に挟まれた鈴葉が茜空を眺めていた。足でリズムを刻んでいるところを見るに、また脳内でセッションをしているようだ。
「今度は何の曲?」
「あ、今良いところだったのに」
そんな理不尽な文句も今は受け入れなければならない。あの場に鈴葉一人を残して出ていったのだから。
「ごめんな。色々大変だっただろう」
「りっちゃんにすごく怒られたけど平気だよ。その様子だとヒロくんの方はうまくいったのかな?」
「そりゃもちろん」
鈴葉の問いかけに親指を立てて全力で笑ってみせる。
「良かったね。これで一歩前進だ」
少しだけぎこちない笑顔を浮かべて空に視線をうつす。他人事なのが気になる。
「鈴葉も良かったな。これで脳内セッションは卒業できるぞ」
「どういうこと?」
「だって、これで三人そろったわけだし、新フェスに向けて練習できるだろ」
「組まないよ」
「え?」
耳に入った言葉は身体中を巡って急速に体温を冷ましていく。
「私、バンド組まないから」
俺は今まで一度だって、こんなに冷たく言い放つ鈴葉の言葉を聞いたことがない。
真夏の炎天下に氷水を懸けられたように感覚が麻痺していく。
「そういうことだから、頑張ってね」
何とも思っていないように、鈴葉は突き放すような笑顔で言う。
順調にいっていると思ったのに。なんで今になってそんなこと言うんだよ。
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