136.世界が月を分かつとき
黒と白が絡み合う。
誕生したその少女はプラウではなく、さりとて観測ユニット・ルナでもなく、全く新たな存在としてそこにいる。
今までにない凄まじい力が身体に宿っているのを神谷は感じていた。
「わたし、どうなって……?」
自分の身体をまじまじと見る。敵の攻撃で欠損した身体は元通りになっている――いや。
ところどころ、外見がルナのものになっている。
《君が受けた傷……損傷はわたしの身体と力で補った》
「カガミさん……!?」
どこからともなくカガミの声が響く。
ひとつになり身体を共有したことで意識のやり取りができるようになったのだ。
「そっか……ありがとう」
《礼なんて言わなくていい、元はと言えばわたしのせいだ……それより》
目の前には虹色の球体……人類の統合意志。
復活したはいいが、この相手をどうにかする必要がある。
《人類は救われた。あとは合体を解除しわたしを奴に差し出すんだ》
「それはできないよ」
《沙月……》
確かにルナの言う通りにするべきなのだろう。
ルナは人類を滅ぼそうとした存在で、絶対に許されることは無い。80億の人類全員に訊ねたって口を揃えてそう言うだろう。
だが、
「わたしだってカガミさんが許されるなんて思ってない。だけど、だからこそ、消えてはい終わりなんてのは違うって思う」
例え許されなくても償うべき罪がある。
神谷も、このゲームに園田たちを巻き込み傷つけた。彼女たちは許してくれるだろうが、その事実にはこれからずっと付き合っていかなければいけないことだ。
「それにわたしは寂しがりなんだ。だからカガミさんにもいてもらわなくちゃ」
《そんな理由で――――》
【警告】
ルナの言葉を、その声が遮った。
子どものようにも、老人のようにも、男のようにも女のようにも聞こえる声色だった。
【対象:地球観測ユニット。平行世界の我々が製造した個体と判断。人類の生存における最大の障害と断定――排除します】
「だったらわたしが止める!」
《待って沙月、もういいよ!》
「よくない! これだけはどうしても諦められない……!」
だって、ずっとそのために戦ってきたのだ。
あのゲームを起動したときからずっと。
『カガミさんにもう一度会いたい』――その願いを胸に抱いて。
会えたらそれでいいわけじゃない。これからの未来を、また一緒に歩いていきたいからその願いを入力したのだ。
だから、この願いが間違っていたとしても、どうしたって捨てられない。
「カガミさんがわたしの中にいればあいつはずっとわたしを狙う。だったらわたしがあいつを倒し続ければ、永遠にカガミさんを消すことはできない!」
《そんなの無理だって、わかってるだろう……?》
「……………………」
囁くような問いを無視して走る。
カガミの言う通り、そんなことは続かない。
一度や二度なら倒せるかもしれない。しかし人類が在る限り何度でも統合意志は復活する。
神谷がルナと合体し力を増したと言えども、その事実はどうやっても覆らない。
だからこの戦いに意味は無い。敗北と喪失は、この時点ですでに確定している。奇跡が起ころうと何も変わらない。
だがそれでも止まれない。諦めることができない。
ひとつになったとは言え、吸収したのは神谷だ。よって身体の主導権は完全に神谷にある。だからルナに神谷を止めることはできない。
疾走する神谷に対し、統合意志は変形を始める。表面をぐにゃりと歪めたかと思うと、巨大な虹色のロケットを撃ち出した。
人類の叡智。むき出しの好奇心の極地。その象徴が、正面から神谷へ迫る。
「ホワイト・レフト!」
黄金の左目が煌めき、左腕の白光がひときわ輝く。
突き出した左手から羽根状の弾丸が無数に撃ち出され、ロケットに殺到――粉々に砕く。途端に広がる虹色の煙をかき分けるように突っ切り接近する。
だがすでに次の攻撃が用意されている。
頭上には虹色の球体が生み出した人工衛星――オーロラのような輝きを放つそれは、同じ色の閃光を月面の神谷に向かって発射した。それは『月の涙』によく似ていた。
「こんなものでわたしは止まらない!」
白光がうねり、巨大な左手の形にその輪郭を変化させた。純白の左手は、まるで傘のように真上から落ちてきたオーロラ砲を防ぐ。
1秒、2秒、3秒。砲撃が収まったのを確認すると、巨大な白い左手を統合意志に向かって飛ばし叩き付ける。虹色の球体は月面に落下し、そのまま抑え込まれた。身じろぎするが脱出は叶わない。
「ブラック・ライト!」
黒の右目が煌めき、右腕の黒闇がうなりを上げる。膨れ上がり、本来の右手を覆う形で巨大な拳を作り上げる。
走る神谷はその勢いのまま跳躍。眼下には虹色。統合意志。
「はああああああああッ!」
抑え込む白い手ごと、全てを懸けた拳を振り下ろす。
まるで隕石のような拳は球体に叩き込まれ――直撃。爆発。暴風。
途轍もない衝撃が炸裂し、月面にクレーターが一つ増えた。
渾身の一撃を終えた神谷は軽やかに着地し息をつく。
「これで……とりあえずは倒した、かな……」
砂塵の向こうには動かなくなった球体が横たわっている。おそらくはしばらく動けないだろう。
……そこで、気が抜けたのか神谷の全身から力が抜け、受け身も取れずに倒れこむ。
「う、あ」
限界。
もともと死にかける前からぎりぎりの状態だったのだ。傷が塞がれようと失った体力までは補填されていない。だから――当然のごとく、ここまでである。
《――――終わりだ、沙月》
「まだ……まだわたしはなにも……!」
立ち上がるために力を込める。
しかしもぞもぞと蠢く以上のことは叶わない。
気力も体力も、もう尽きた。残っているのは意地だけで――そして、意地だけでは身体を動かすことはできない。
《わたしを守るために戦ってくれて嬉しかった》
「ちがう、わたしはただ……わたしのためだけに戦って……全部わたしのエゴでしかないんだよ……」
どれだけ気を吐いても指一本動かない。
心と身体が一致しない。どうして肝心な時にばかりこの手はどこにも届かないのか……そう自分を呪う。
《ありがとう、沙月》
そんな時、神谷の右腕が動く。
意志に応えてくれたのか――一瞬そう思ったが、違う。
ルナが動かしているのだ。力尽きた神谷から、一時的に身体の主導権を奪っている。
右腕から噴き出した黒闇は宙に漂ったかと思うと、少しずつ神谷へと近づいていく。
そして……同時に神谷とルナの合体も解除される。ルナが自分の意志で神谷の身体から離れたのだ。
その姿は白い少女のそれでは無くなっている。いまや白くか細い、小さな結晶体になってしまったルナは神谷の目の前に浮かんでいる。
彼女もまた、ほとんどの力を使い果たしてしまったのだ。
《その黒いのが、地球へと君を返してくれる。君を待っている人たちの元に帰れるんだ》
「いやだ……! まだわたしは何もできてない……っ、こんな終わりなんていやだ……!」
《いいんだ。もともとわたしも限界だった。最初に『月の涙』を撃った時からわたしの身体は崩壊を始めていた》
あの世界でアカネに喰らった一撃は、正しく致命傷だった。
即死こそしなかったが、あの時すでに運命は決定づけられていたのだ。
受けた傷は癒えることなく、ルナを苛み続けていた。
神谷の身体が、少しずつ闇に吸い込まれていく。
少女は動けない。抵抗できない。
別れの時が目の前に迫っているのがわかった。
《最後までこんなことしかできなくてごめん。わたしは親失格だ……でも》
空中に浮かびあがり、ゆっくりとルナに近づいてくる。
《大好きだよ、沙月。ばいばい……》
黒闇に完全に包まれる、最後の瞬間。
統合意志が大口のようにその身体を開き――白い結晶を飲み込んだのがはっきり見えた。
「カガミさああああああんっ!!」
その慟哭は暗い宇宙に溶けて消え。
誰も聞くものはいなかった。
消滅の直前、ふと物思いにふける。
君は覚えているかな。
8つの時だ。
「料理がしたい」と、君はわたしに言ったね。
最初はもちろん断ったさ。火も使うし危ないからね。
でも君があんまりにも不満げにするものだから、じゃあ二人で一緒に作ろうと。
作ったのはハンバーグだったね。
こうやるんだよと、ひき肉をこねるわたしの手元を見つめる君の視線がキラキラしていて、なんだかくすぐったかったのを覚えている。
手間取りながらもなんとか完成させて、二人で食べたハンバーグの味を忘れた時はなかったよ。
これまで何十万年も生きてきて、一番美味しかった。
ほんとだよ?
君にとってはどうだったかわからないけど、わたしにとっては間違いなく一番だ。
味の問題じゃない。
君と作り、君と食べるごはんが一番美味しかったんだ。
人の親ってのはこんな気持ちになるものかと――こんなに幸せなのかと驚いた。
親子ごっこだけどね。
最初は自分の目的のためだけに育て始めたはずの君だったけど――君が成長していく様を見るのが何よりも嬉しかった。
本音を言うともっと見守っていたかったけど、でももう充分だ。むしろわたしのような、人類を殺した殺人犯には身に余りすぎる幸福だろう。そろそろ罰せられるべきだ。
大丈夫。
君はもう大丈夫だ。
もうわたしの影を追いかけなくても大丈夫だ。
今の君には、君を愛する人々がいる。君が愛する人々がいる。
その子たちと一緒なら大丈夫だ。
人生は長く、これから辛いこともたくさんあるだろうが――今の君ならきっと乗り越えられる。
さようなら、我が半身。
どうか幸せに――願わくば、わたしの事は忘れてくれますように。
地上。
園田たち三人はその時を待っていた。
「沙月さん……」
手を組み、祈る園田。心配げにアカネがそれを見守っている。
そして……ただ前を見つめていた光空が最初に気付く。
「あっ……」
黒い渦が、すぐ目の前に出現する。
その中から出現した神谷が地面に倒れこんだ。
「沙月さん!」
慌てて駆け寄り抱き起す園田。
酷くぐったりとしてはいるが、無事だ。どこにも傷は無い。
「約束、守ってくれたんですね……」
「あ、あたしは別に心配してなかったけど」
「よかった、沙月……」
思い思いに声をかける三人……しかし、神谷の頬に光るものを見つけると、揃って口をつぐむ。
神谷は泣いていた。止めどなく雫を流してした。
そして、神谷の薄く開いたその瞳に、アカネが真っ先に気付いた。
あの世界でもっともルナと対峙し、仇と定め憎んでいたアカネだからこそ最初にそれがわかった。
「あんた、その目……!」
神谷はもともと両目とも黒だ。しかし今、左の瞳だけが金色だった。それ以外の見えないところも、あちこちがルナの身体で代替されている。
そうだ、傷ひとつないなんてありえない。月に行く前、ルナとの戦いであちこちに傷を作っていたはずなのだ。それすらも治っている。
合体の際、ルナの身体が補ってくれたのだ。全く同じ体形、全く同じ身体の作りだからこそそれが可能だった。
「守れなかった……わたしはまた……なにもできなかった……」
滂沱のごとき涙と共に零される言葉には深い後悔が含まれていて――それだけで、園田は神谷が何をしに月へ行ったのかを悟ってしまった。
最初からずっと、彼女が求めていたのは……唯一の家族との再会だったのだ。
悲嘆に暮れる少女の戦いはここに終結し。
神谷沙月は再び大切なものを喪失した。
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