127.残照
がらがらと古びた音を立てて引き戸が背後で閉まった。
思わず振り返ると、差し込む夕陽がもたれかかった扉。見上げた先、壁から伸びるプレートには『職員室』と黒い行書体で書いてある。
わたしはここで何をしているんだろう。
……そうだ、クラスメイトから集めたプリントを担任の先生に届けたんだった。
よいしょ、と背中のランドセルを担ぎなおす。
なんだかとっても時間がかかっちゃったような気がするけれど、早く教室に戻らないと。あの子を待たせているから。
一歩一歩階段を昇る。
目指すは三階の4-2教室。いちいち昇るの面倒だなあ。わたしもそろそろ老けてきたのかも、なんて。まだ小学生なのにね。
「っと、三階」
手すりをつかみ最後の一段を昇り切る。
視界の端に映った自分の手が、なぜかいつもより小さい気がしてまじまじと見つめる。
小さな手だ。今は同級生の子より小さいけど、きっとその内大きくなるはず。
…………なるよね?
誰もいないからスキップとかしちゃう。
一定のリズムで鳴り響く足音が楽しい。
ぱこん、ぱここん、ぱここん、ぱここん。
上履きの靴裏ゴムがリノリウムの床を鳴らす。リノリウムって何だろう。先生に聞いたら名前しか教えてくれなかった。あんまり詳しくないらしい。
たん、と両脚そろえて着地。わたしの教室の前に着いた。
引き戸の取っ手に指をかける――なぜか少し躊躇う。
この向こうにいるのはわたしの一番の友達。今日も一緒に帰る約束をした。
少しだけ脈が速くなったのを感じる。
緊張してる……のかな。
でも行かなきゃ。わたしはそのためにここに来たんだから。
軽く深呼吸をし、意を決して扉を開いた。
オレンジ色に目を潰されるかと思った。
教室の窓からは傾いた陽がこれでもかと夕焼けを放っていて、床に影と光のコントラストを作っている。
教室の奥、窓際の席にその子はいた。逆光でよく姿は見えないが、確かにわかる。
ランドセルを机の上に置いたまま、窓の外を眺めている。
「ひーちゃん。来たよ」
万感の思いを込めてその名を呼ぶ。
今はもう使うことのなくなった呼び名。
少しの静寂の後、果たして彼女は振り返る。
「さーちゃん……」
長い前髪。俯きがちな顔。
懐かしいその姿は、見間違えようもなく光空陽菜だった。
「一緒に帰ろう。もう下校時間だよ」
ひーちゃんは首を横に振る。その動きに合わせて長い前髪がさらさらと揺れた。
彼女は席から動こうとしない。
「私は行けない。いろいろ酷いことをしちゃったから」
ひーちゃんは、みどりとアカネを騙し、傷つけた。
そしてわたしに選択を迫った。二人を捨てるか、自分を倒すかという選択を。
それは事実だ。無かったことにはできない。
だが、それならなおさらするべきことがある。
「なら謝ろう。わたしも一緒に行くよ」
均等に並ぶ机の横を通り、ひーちゃんの元へ。
まだ小さい自分の手を差し伸べる。
それでもひーちゃんは無言で首を横に振った。
彼女はとても頑なで――でもわたしがひーちゃんの立場だったら同じことをするだろうな、とも思う。
そんなわたしだからこそこの世界は存在する。
「わたし言ったよね。わたしにとって陽菜はずっと特別なひとりだって。それはずっと変わらないって。覚えてる?」
「……私たちが仲良くなったのは、プラウだからだよ。プラウは母体に戻ろうとするから……だから引かれたんだ」
光空陽菜は、プラウだ。
プラウは母体であるルナ、もしくはそれに極めて近い存在であるプラウ・ゼロ――つまりわたしに引き寄せられる。それが物理的なのか精神的になのかはわからないが、それは確かなことだ。
だとしても、ひーちゃんの言ってることは矛盾している。
「ううん。だったら昔わたしの家に来たとき、カガミさんの方にも引かれてないとおかしいはずだよ。でもひーちゃんは『友達の親』くらいにしか捉えてなかったよね」
「……それは」
おそらくは、プラウ・シックスの特殊な在り方に起因している。
プラウとは、ルナから切り離された力の欠片だ。しかし
「もうひとつ。わたしたちが出会った時の事、覚えてるかな」
「忘れない。忘れるわけないよ」
そこでやっとひーちゃんは顔を上げた。
前髪の隙間から、空色の瞳が見える。
「あの時最初に話しかけたのはわたしの方だったんだよ。わたしの方がひーちゃんと仲良くなりたかったんだ」
あの時のことは今でも思い出せる。
柄にもなく緊張して、タイミングを計って、やっと声を掛けられたんだっけ。
あの時頑張ってよかったと、今でも心から思う。
「な、なんで? あの時から不思議だったんだ、なんでいつも教室の隅っこでひとりでいた私にさーちゃんが声をかけてきてくれたのかって」
「ん、あー……これちょっと恥ずかしいんだけど」
ぐしゃぐしゃと後頭部をかき回す。
改めて聞かれると結構恥ずかしいし、今思うと『そんな理由で?』って感じだ。
でも、それは確かにわたしの中にある。
「小2の時の話なんだけど――――」
いつかの昼休みのことだ。
わたしはクラスメイト達といつものようにドッジボールをしていた。
その時誰かが放り投げたボールが勢い余って校舎裏まで飛んで行ったのだ。
外野だったわたしは率先して取りにいった。
その時に見たのだ。
花壇に咲く花に水をやっているひーちゃんの姿を。
ただのクラスメイトのひとりだと思っていた彼女が気になり始めたのはこの時だった。
それから休み時間の旅にひーちゃんの後をつけた。
彼女は一日も花の世話を欠かすことは無かった。
水をやったり、肥料をまいたり、雑草を抜いたり……きっとわたしが見つける前からそんなことをずっと続けていたのだろう。
校舎裏なんて来る人は少ない。
そんなところに花を植えて育てたって意味があるのかと、正直言ってそう思っていた。
でも違った。花を育てる彼女は笑顔だった。
綺麗に咲き誇る花々を見ながら、なにより嬉しそうにしていたのだ。
その時、わたしはひーちゃんと友達になりたいと思った。
「そんなことで……?」
「他の誰もそんなことやってなかったから……気になったんだよ、この子はどんな子なんだろうって」
「私はただ、枯れた花を見つけて……それがすごく悲しくて」
「うん、それだよ。その優しさをわたしは好きになったんだ。ううん、それだけじゃない。高校で再会して、ひーちゃんを拒絶し続けたわたしを諦めないでくれた」
辛いとき、ずっとそばにいてくれた。
笑顔でいてくれた。
それがどれだけ助けになったか――当時のわたしはそのことにも気づかないでいたけれど。
「わたし、ひーちゃんがいないとダメなんだよ。いてくれないと嫌だよ。罪悪感で外に出られないなら、わたしのために一緒に来てよ」
取り繕わない、心からの懇願。
いつだってわたしは本気でそう思っていた。
月は太陽がなければ輝けないのだと。
「いい、のかな」
「お願い」
空のオレンジに藍が混ざり始めていた。
落陽が近い。あの夕陽が完全に落ちたら何が起こるのだろうか。
それをわたしはきっと知っている。
わたしたちは――知っている。
踏み出すならここしかないのだと。
息を詰めたひーちゃんが、意を決したように口を開く。
「……もうすぐ夏だね。海に行ったり、花火見たりしたいよね」
「宿題も頑張らないとね、ひーちゃん」
「あはは……その時は助けてもらおうかな、さーちゃん」
いつの間にかわたしたちは、
伸びた背丈に、黒セーラー。
だけど、今も昔も変わらないものがここにはある。
「「行こう」」
声を重ね、手と手を繋いでわたしたちは外に出る。
停滞の世界はもういらない。
あの世界で生きていく。
ひとりじゃないならきっと大丈夫だと、重なる手の温かさが教えてくれた。
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