105.さいしょのおわり、さいごのはじまり
壊れてゆく。
ひとつの喪失によって、少女の心が壊れてゆく。
目の前で血を流し倒れる幼馴染が絶望の源だ。
そして。
彼女を手にかけたのが自分であるという事実を、右腕にべっとりとついた真っ赤な血が嫌というほど訴えてきた。
「…………あ」
どこからだろう、私を呼ぶ声がする。
重いまぶたをなんとか開く。それでも世界は真っ暗だった。
ああ、そうか。もう見えないんだ。もう一度見たかったな、沙月の顔。
「……やだ、いやだ、こんなの……! 陽菜お願い、死なないで……」
……そっか、やっぱり泣いちゃったか。辛いことをさせちゃったな。本当にごめん。
でもこれしかなかった。沙月に私を倒してもらうしか道はなかった。その先がどれだけ過酷な道のりだろうと、希望はそこにしかないから。
…………それも、か細い希望だけど。
それでも私は沙月に託す。
試練を乗り越え、未来を掴んでくれると信じているから。
「……………………!」
あ、もうダメみたい。なんにも聞こえない。
どうだろう、私は今笑えてるかな。
君が好きだと言ってくれた私の笑顔。
最後に見せるならそれがいいな。
私の手を握る手の暖かさ。血の匂いに混じる甘いミルクみたいな香り。それ以外何も感じない。
どうやらお別れの時間がやってきたようだ。
「……さーちゃん……ばいばい」
どこかの場所、いつかの時に言った別れの言葉をもう一度。
それを最後に、光空陽菜の意識はどこかへと失われた。
「ひ、な……?」
神谷の目の前で、太陽の巫女はその身体を光の粒子へと変えていく。
輪郭が崩れる。その存在がおぼろげになる。
そのうち完全にばらばらになって……神谷へと吸収された。
「あ、ああ」
空に鎮座していた太陽が消え、満月が現れる。
それは昼の終わりを意味していて――瞬く間に青空は夜空へと姿を変えた。
彼女が倒れていた床を手で擦る。
しかしそこには何もない。光空が流した血すら、一滴たりとも残っていない。
まるで最初から存在していなかったかのように。
光空と過ごした数え切れないほどの記憶が神谷の脳裏を駆け巡る。
楽しかった思い出。
嬉しかった思い出。
悲しかった思い出。
そして最後に記憶の海から飛び出したのは――四月の頭、光空と再会した時の記憶。
それら全てが神谷にとってかけがえのない思い出だ。生涯大切に抱き続けるであろう宝物だ。
しかし、それら全てが今、神谷の心をズタズタに引き裂いてゆく。
思い出す度に血を噴く。
思い出ひとつごとに、心がぱっくりと傷を作る。
「光空さん……どうして……」
後ろから、檻から解放され床まで降りてきた園田の声がした。左肩を抑えるアカネに肩を貸している。
血を流してはいるが、アカネは無事なようだ。このまま元の世界に戻ればすべて元通りになるだろう。
だが。
「なんなのよ……なんでこんなことになるのよ……」
憔悴した様子で呟くアカネ。表情が苦しげなのは傷のせいだけではないだろう。
神谷と光空が仲睦まじい幼馴染であることは、アカネも充分にわかっている。だからこそあの戦いをただ見ているだけしかできないのは歯がゆくて仕方がなかった。
どうしてこんな時に限って自分の異能は働いてくれないのか――そう運命を呪いすらした。
園田の目から涙が一筋流れ落ちる。
自分がついていればこんなことにはならなかったかもしれないと思うと、悔やんでも悔やみきれない。
自分さえ光空に騙されることがなければ。そう思わずにはいられなかった。
しかし何よりも、神谷のことを思って泣いていた。
どれだけ辛く苦しいことが彼女を襲ったのかと考えると涙を抑えられなかった。
ふざけるな、と叫びたかった。どうしてこんなことを、と糾弾したかった。
光空を恨めればどれだけ楽になるだろうと願い――しかしそれは叶わなかった。
これまで接してきた光空と、今回の惨状を引き起こした光空がどうしても重ならなかったのだ。
何かに操られているか、そうでなくても重大な理由があったか……しかしそれを知ることはもう叶わない。
なにしろその本人が失われてしまった。
これで終わり。
いくつもの謎を残したまま、ゲームはクリアされてしまった。
三人が空虚な達成感を味わっていると、そこに――――
「――――ゲームクリアおめでとう」
その声が最初、どこから聞こえてきたものかわからなかった。
この場にいる誰もが聞いたことのある声色で、しかし全く聞き覚えのないものにも聞こえた。
「え…………?」
神谷は喉を抑えている。
”自分の口から”発声されたその声に戸惑っている。
しばしの空白――すると。
「うぐ、がっ、があああああ!」
突如神谷は苦しみ始める。
全身が白く淡い光を放つ。
これ以上何が起こるのか――園田とアカネがそう考えながらも呆然と見守っていると、白い光は徐々に神谷の身体を離れ、傍で集まり、徐々にひとつの形を結び始める。
それは少女だった。
神谷と同じ背丈。同じ髪型。同じ顔。
違うのは、黒いセーラー服を着ている神谷に対し、新雪のように真っ白なワンピースを着ていることと、髪と瞳の色。
髪も瞳も黒い神谷に対してその少女の髪は真っ白。そして瞳は輝くような金色だった。
それ以外は鏡写しのように瓜二つ。
だがその表情や立ち振る舞いには差がある。
謎の少女は、まるで人ではないような超然とした雰囲気を纏っていた。
全てを知り、天から見下ろしているかのような――ありていに言ってしまえば神のごとき様相。
そっくりなはずなのに、見れば見るほど神谷とは別人に見える。
「あ、んた、は……!」
アカネもまた、頭を抱えて苦しみ始める。
脳がひっくり返ってシェイクされているような感覚に、たまらず床に転がった。
突然の事態に、園田はうろたえただ立ち尽くすばかり。
阿鼻叫喚――光空の消滅がすべての引き金になったのか。
そして混乱の中……神谷はゆっくりと顔を上げ、その少女の姿を視界に入れる。
「カガミ、さん……?」
その名前を。
彼女がたびたび口にしていたその名前を。
そもそもこのゲームを始める理由そのものだった彼女を呼ぶ。
「この人が……カガミさん……?」
驚愕する園田の声は、神谷には届かない。
今までどこにいたのか。
どうしてこんなゲームを残したのか。
どうしてこんな形で現れたのか。
疑問は尽きなかった。そのはずだったのに。
もう今の神谷にはどうでもよかった。
なぜなら心がもうズタズタだったから。取り返しのつかないほどの傷を負って、もう二度と戻らない。
だからずっと会いたかった目の前の彼女にすがるしかなかった。
「カガミさん……カガミさん……わたし、わたし」
「ああ、よく頑張ったね」
カガミは慈愛の表情を浮かべ神谷を優しく抱き寄せる。
それは言わば親子の再会。神谷がこのゲームにかけた願いは、数々の戦いを経てようやく果たされた。
それなのになぜか、園田の胸騒ぎはどんどん大きくなっていく。
これから、さらに恐ろしい『何か』が起こるような――そんな確信めいた予感。
そしてそれは現実になる。
カガミは、涙に濡れる神谷の顔を、くい、と指で上げたかと思うとしばらく見つめ――おもむろに口づけをした。
「…………!?」
突然の事態に園田は動けない。
なぜそんなことをする必要があるのか――混乱する頭で考えを巡らせていると。
「――――――――」
神谷の身体が、光の粒子に変わっていく。
それは、これまで倒してきたプラウに見られた現象だった。今さっき消えた光空と全く同じ。
「沙月さん……っ!?」
名前を叫ぶ、その直後。
神谷は完全にカガミへと吸収され――その姿かたちは消えて無くなった。
「――――さて」
カガミは園田の方を向く。
一度アカネを一瞥し、眉間にしわを寄せたがすぐ完全な無表情へと戻った。先ほどの柔らかい表情とは全く違う、純白の氷のような表情だった。感情を読み取る余地が一切無い。
「ゲームは終わりだ。エンディングを始めよう」
その宣言とともに満月は光り輝き全てを飲み込んだ。
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