81.望み欲するということ


 あんな夢を見てしまったからか、頬が熱い。

 二階の共有洗面所でばしゃばしゃと顔を洗うと少しだけ頭が冷えたような気がした。

 世の恋愛している子たちは本当にすごいと思う。こんな重い荷物を内に抱えて日々生きているなんて。私はもう張り裂けそう。


 朝食をとるため階段を降り――ている途中、はたと気付く。食堂には沙月さんがいるだろう。私たちの朝食を作って待ってくれているだろう。つまり、これから顔を合わせるということだ。

 どうしよう。

 夢のせいでまた顔が熱くなってきた。というかよくよく考えると、私は彼女とひとつ屋根の下で生活しているということになるのか。うああ。

 いやいや落ち着いて私。ここは寮。他にもいっぱい人が住んでる場所だから。

 そう言い聞かせ、ぶるぶると首を振る。


「抑えて私……冷静になって……!」


 いつもはここまで荒ぶることはない。誓って。抑えられているのだ、この気持ちを。今日が特にひどいだけ。全部夢のせい。

 でも原因がわかっているだけに、どうしようもないこともわかっていて、それがまたもどかしい。

 少なくとも今日一日はこれに耐え続けないといけないようだ。


 …………拷問ですか?




「あ、おはよみどり! 早いねー」


「…………」


 断じて私のテンションが低いわけではない。

 起き抜けの沙月さんの笑顔があまりに眩しすぎてノックアウト寸前なだけだ。

 というか普段の私はよくもまあ平気な顔をできているものだなと思う。ほら黙っているものだから沙月さんが怪訝な顔をしている。ああ首を傾げたところも可愛い、じゃなくて。


「ミ゛ッ」


「……そらしど?」


 奇声が出た。

 黙っていた方がマシだった。

 違う違う、こんなことが言いたかったわけではない。


「シュシュ、つけてるんですね」


「あ、これ? えへ、やっぱ浮かれちゃうね」

 

 にこにこと笑って右手首に巻いたそれを見せてくる。可愛い。死にそう。

 

「みどりは付けてないの?」


「学校の鞄につけてますよ。でも手首もいいかもですね。髪が邪魔な時にすぐくくれそうですし」


「そうしようよ。一緒がいいよね」


 などと、とても機嫌が良さそうに笑う。

 幼い顔は笑顔だともっと幼く見える。これで17歳だというのだから驚きだ。

 それでも、たまに見せる大人びた横顔にどきっとさせられることもある。

 本当に、振り回されている。


「あ、そうだ。昨日さあ、実はこっそり買っておいたゲームがあるんだけど、放課後一緒にやらない?」


「えと……いいですよ。光空さんやアカネちゃんも呼びますか?」


「ううん、二人プレイ推奨のゲームなんだよ。だからみどりとしようと思って」


「…………え」


 聞き違いでないのなら、それはもしかして。

 沙月さんの部屋で二人きりということだろうか。

 夢と同じで……それはもしかして、そういうこと、なのだろうか。


 この時点で私は頭がゆだっていて、正常な思考ができなくなっていたのかもしれない。

 後からそう思った。




「よし、このステージもクリア! いえい!」


「なんとかなりましたね……」


 プレイしているのは、二人用の横スクロールアクションゲーム。敵や仕掛けを二人の連携で突破していくようなシステムだ。最初はとても簡単で、ゲーム慣れしていない私でもすぐに慣れることができた。そのうち少しずつ難しくはなっていったが、そこはゲーム慣れしている沙月さんがカバーしてくれた。


 ふう、とため息をつくと、日が落ちかけているのに気づく。それなりの時間没頭していたらしい。

 …………ゲームに集中できたのは幸運だった。隣で一喜一憂する沙月さんにどぎまぎせずに済んだから。

 それにしても慣れないことをしたからか、どっと疲れが来た。


「あー、さすがに疲れたかも。結構はしゃいじゃった」


 沙月さんはそんなことを言い、ふらつきながらベッドまで歩いていき、仰向けに倒れ込む。

 学校から着たままのセーラー服がめくれ、白いお腹が見えた。

 夢と同じ情景がそこにあった。


「……あは、それにしてもなんだか夢みたい」


「夢……ですか」


 その言葉に、少し現実に引き戻される。

 沙月さんは横になったまま、普段のそれより幾分か緩んだ笑顔でこちらを見つめている。


「うん。偶然みどりみたいな美人さんと仲良くなれて、こんな風に一緒にゲームとかして……夢って言われても信じちゃうかも」


「――――」


 そんな風に思ってくれていたのか。

 ああ――――嬉しい。嬉しい。嬉しい!


 頭が熱い。

 お腹が熱い。

 身体に薪がくべられたのかと思うほどに。


 きっと疲れているのだ。彼女も……そして私も。普段はそんなことを言わないから。

 気づけばなんだかぼんやりとしていて、意識が曖昧になって、ふわりと甘いミルクのような香りがして――ぷつんと何かが切れた。


 


 これは全部夢のせい。

 

 おもむろに立ち上がる自分を、少し離れたところから見下ろしている自分がいた。

 これから自分がすることをわかっているような顔だ。

 

 あーあ、と。

 いつかやると思ってた、と。


 私は――私は、沙月さんに覆いかぶさる。

 自分の下で目を丸くしている沙月さんが見えた。

 当たり前だ。突然こんなことをすれば驚くのも無理はない。

 しかし今の私にそんな判断はできなかった。 


 沙月さんの小さい手に自分の手を絡めて逃げられないようにした私は、彼女の白い首元にくちづけをする。ひゃ、という甲高い、どこか抑えたような声が聞こえた。くすぐったかったのか、驚いたのか、それとも両方か。彼女の声が耳から浸透し、私の全身に甘い快感が駆け巡った。

 もっと聞きたい。


 次はぺろりと舐めてみた。


「だめ……みどり……っ」


 身体を捩るが、手を捕まえられているためそれだけしかできない。

 しょっぱい。汗の味だ。

 もっと。


 仰向けになった彼女は少し頬を赤らめていて、軽く息を荒げていた。少しめくれたスカートからのぞく太ももが眩しくて――有り体に言ってしまえば”実際的な行為”を想起させるような状態で。


 ――――ああ、この欲望という名の爪を目の前の柔肌に突き立ててやれたら……どれほどの快楽を享受できるだろう。


 ばくばくと、飛び出してしまいそうな勢いで早鐘を打つ心臓の音をどこか遠くに聞きながら沙月さんの手を離す。

 ごくりと生唾を飲み込み、意を決してセーラー服の裾に震える手を差し込み――――  

 

 

「いいよ」



 それは、信じられない言葉だった。

 思わず手が止まる。


「みどり相手なら、まあ、怒ったりしないよ」


 決して私と目を合わせないまま沙月さんは続ける。

 その言葉に、私は歓喜に打ち震える。しかし――――


「でも、きっとこれまでみたいに仲良くできなくなると思う。友達でいられなくなると思う」


 続いたその言葉に、頭から冷水をかけられた気分になった。

 沙月さんは、小刻みに身体を震わせていた。一言発するごとに、唇を堅く引き結び、息継ぎでもするようにまた開く。


「喋っててもぎこちなくなるだろうし、噛み合わなくなるかもしれない。ふいに今日のことを思い出して暗い気持ちになるかもしれない。それはたぶん、わたしも、あなたも」


 私の喉からかすれ声にも及ばない音が流れ出ていた。

 目の前にいる少女はどう見ても、恐怖に耐えているものでしかなかった。


「ねえ、教えて?」


 びくり、と自分でも驚いてしまうほどに身体が震えた。


「友達って、みどりにとって何?」


 ああ、と気付く。

 この瞬間、私はなにか大事なものを壊してしまったのか、と。


「無理やり押し倒して、こういうことするのが、みどりにとっての友達なの?」


 違う。


「わたしたちの今までってなんだったの?」


 こんな。


「こうやって、一時の勢いなんかで簡単に壊しちゃえるものだったの?」

 

 こんなはずじゃなかったのに。


 流れた一筋の涙を視界に捉えた瞬間、気づけば私は逃げ出していた。

 もしかしたら叫び声をあげていたかもしれない。

 ドアを開けて、廊下を走り、自室に駆け込んだ。


 寝ころんでいたベッドから驚いて飛び起きるアカネちゃんを無視して自分の布団をかぶりうずくまる。

 私を呼びかける声が聞こえたが、霧の向こうにあるようでよく聞こえなかった。

 全てを拒絶していた。



 どうしようもないことをしてしまった。

 取り返しのつかないことをしてしまった。


 今までの楽しかった時間が砕けていくのを感じる。

 バラバラの瓦礫みたいになったそれが私の頭上に降り注ぐ。押し潰されて死んでしまいそうだ。

 

 ……いや。本当に死んでしまえたらどれほど楽だっただろうか。

 もう終わりだ。全てが終わり。

 なのに私はここに生きていた。

 どうしようもなく生きていた。


 エンドロールが流れ始めるわけでもなく。

 時計の針は一秒一秒同じ感覚で、残酷に時を刻んでいた。

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