40.君を撃つ号砲
ぐしゃ、とボロ雑巾みたいに倒れる。
身じろぎすることもできない。どうやら限界みたいだ。
あー、やば。これどうやって寮まで戻ればいいんだろ。
意識がもうろうとしているのが分かる。このままだと気を失ってしまいそうだ。
そうなると、朝グラウンドに横たわる私が発見されて大ごとになる。夜な夜な何をしていたかもきっとバレてしまう。
「それは困るなあ……」
他の誰にどう思われてもいい。
けど沙月にだけは嫌だ。
絶対に心配をかけてしまうから。
だから這いずってでも寮に戻らないと、と決心した瞬間だった。
「陽菜ああああああああっ!」
叫ぶその声が私の鼓膜と心を震わせた。
いま一番聞きたくない声だった。
「ほんとに……沙月は、今も昔も沙月なんだね……」
駆け寄ってきた沙月は、仰向けに倒れる私の背中に小さい手を回し、抱き起こす。
「なにやってるのこんな時間に、こんなところで!」
「……練習、だよ」
「こんなになるまで練習なんてしたら身体が壊れちゃうでしょうが!!」
口調は怒っていても、眉根を寄せたその表情から本気で心配してくれているのが分かる。
パジャマのままでここまで来たようだ。顎あたりまで伸びた黒髪が汗で頬に張り付いている。
ああ、そういえば部屋の戸締りを忘れてたかも。気にするほどの余裕もなかったのか。しくったなあ……。
沙月はそれを見て押っ取り刀で駆け付けたのだろう。必死になって。
だけど私は、何にも知らないくせに、と理不尽な怒りを沸きあがらせる。
隠していたのは自分なのに。
「…………い…………が…………」
「え?」
よく聞こえなかったらしい。
もう喉が乾き過ぎて張り付いたようになってしまっている。
だから無理やり開くために声を張り上げた。
「タイムが、戻らないんだよ…………!」
震える手で、沙月の胸元を縋るように掴む。
精いっぱいの大声も、今は掠れたようにしかならなかった。
それでも続ける。溢れ出す。
「少し前から100mのタイムが落ちてきて、どれだけ頑張っても戻らなくて、みんな私を見てるのに、私は、私は」
うわごとのように繰り返す。はっきりしない意識では、もはや何を言っているのか自分でもわからなかった。
「調子が悪いときは誰だってあるよ。きっと時間が解決してくれるから……」
「……それじゃダメなんだよ。もうすぐ総体がある。みんな私に期待してくれてるんだ」
入学して陸上部に入ったときから期待の新入生などともてはやされた。
次代のエースだと言われ、自分でも周囲の期待に応えようと頑張ってきたつもりだ。
沙月の方を優先することもあったけど、それだってたまにだった。
みんなの期待を裏切ることはできない。
それに、
「こうなったのは、沙月がわるいんだよ」
「わたし……?」
本当に、やつあたりでしかない。
沙月は絶対に悪くない。私が勝手に疎外感を感じて、勝手に落ち込んでいるだけだ。
でも、弱った心は、柔らかい部分を簡単にさらけ出す。
「……いつの間にか私以外の友達作って。私を放って、私以外とあんなに仲良くして……いやだよ。寂しいよ。ずっと二人がよかった。こんなことなら前の沙月のままがよかった。ずっと下を向いててほしかった。勝手に成長しないでよ。置いていかないでよ。私をひとりにしないでよ……」
絶対に言うまいとしていたこと。そして、自分でも自覚していなかったこと。
それらが列を成して開いた口から流れ続けた。
どうしようもない破滅が目の前で起こっているような気がしたが、私の意思では止められなかった。
「他の子に『沙月』なんて呼ばせないでよ…………!」
ごめん、沙月。
本当にごめん。
こんな幼馴染でごめんね。
言い終わって口を閉じると同時に、今度は両の目から涙があふれ出す。
取り返しのつかないことをしてしまった後悔が堰を切った。
もう身体も心もぐちゃぐちゃで、どうしようもなかった。
溢れる感情の激流は、私自身を飲み込んだ。
「……帰ろう、陽菜」
静かにそう言った沙月は、無理やり私を立ち上がらせたかと思うと、肩を貸し、そのまま歩き始めた。
小さい身体なのに、驚くほど頼もしく感じる。
今の私は身体にほとんど力が入らない。だからかなり重いはずだ。
なのに沙月は、ゆっくりではあるが確かに一歩一歩進んでいく。二人分の体重を一人で背負っている。
「わたしたち、もっと話すべきだったんだ。大事な幼馴染だからって遠慮して、下手に距離を測ってさ」
ひどいことをたくさん言ったはずなのに、沙月はうろたえた様子はなかった。
私のどろどろした想いを、ただ受け止めてくれた。
「どれだけ距離が近くても、言葉にしなきゃ伝わらないし、理解もできないんだよ。ううん、ほんとは他人を理解することなんて一生かかっても無理なのかも」
そうなのだろうか。
私たちの断絶はどうあがいても埋まらないのだろうか。
しかし、その言葉に反して神谷の表情は暗くなかった。
「だからたぶん、理解しようとし続けることが大事なんだと思う。そうしてる限り誰かを見失うことは無いはずだから」
「……理解できない、のに……?」
「それでもだよ。わたしは陽菜と分かり合いたい。ずっとそういう関係でいたい。だから陽菜も同じように思ってくれるなら嬉しいな」
胸に詰めた息を吐く。
ああ――敵わないなあ、と思う。
ずっと前から今も変わらず、沙月は私の中心にいる。
さっき沙月が来てくれた時、一番聞きたくない声だなんて思った。
それは間違いではない。どうして放っておいてくれないんだ、などと身勝手な憤りを覚えたのも事実だ。
でも。
それは同時に、一番聞きたかった声だった。
結局私は、光空陽菜という人間は、ずっと助けてほしかったのだと思う。
そして私が救いを求める時、いつだって駆けつけてくれるのは彼女だった。
好き勝手やつあたりした私は、それでも今は沙月が自分を見てくれていることに浅ましくも喜びを感じてしまうのだった。
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