36.コーリング・アシンメトリー
数日後、寮に帰ってきた北条に事情と今回の経緯を説明した。
黙って最後まで聞いていた北条だったが、園田が話し終わると申し訳なさそうに「すまなかった。私がきちんと把握しておくべきだったのに……」と頭を下げ、その後「頑張ったな。後は大人に任せておきなさい」と優しく園田を抱きしめた。
それを見た神谷は感極まってしまい、いやそっちが泣くのかと二人に笑われた。
「ここがすごく軽くなりました」
胸元に手を当てる園田に、神谷は笑顔を向ける。
「北条さんにちゃんと話してよかったね」
放課後、寮の屋上で沈みゆく夕陽を眺めながら二人は話していた。まだ夏には遠く、この時間になるとちょうどいい涼しさの風が吹き抜ける。
「ええ。……こんなことならもっと早く話しておけばよかったかもしれませんね」
「そうだね。でも今は解決したし、これでよかったんだよ」
遠くのビルに少し差し掛かった夕日を見る。沈みかけとは言え、まだ明るいそれは目を眇めるには十分だった。それでももう少し見ていたくなって、輝きに負けまいと目は閉じなかった。
「みどりは勝ち取ったんだ。誇っていいし、喜んだっていい……と、わたしは思うよ」
「でも、一人ではできなかったことですから。神谷さんがいたからお父さんに立ち向かう勇気が持てたんです」
「ううん、それでもだよ。わたしだけでも駄目だったから……だからみどりは胸を張っていいの! わかった?」
びし、と指をさすと、園田は笑顔で頷いた。
少し沈黙が流れる。当面の危機は解決した。だが、神谷には少し気になっていることがある。
「ところでさあ、みどりはわたしのこと名前で呼んでくれないの?」
「え゛」
微笑んでいた園田の口元が歪む。
話を突然方向転換したからか、園田が今まで聞いたことのないような声を上げた。
「いや話の流れとは言え、わたしは”みどり”って呼ぶようになったよね。でもあれからみどりはわたしのこと”神谷さん”とすら呼んでくれなくなったでしょ? 呼ぶときも「あの」とか「えっと」とかばっかりで」
「あうあうあ」
「もしかして恥ずかしいの? 名前で呼ぶの。かといって名字で呼ぶのも、わたしが名前呼びしてるから気が引けるみたいな」
「ぐはぁ」
完全に図星。
弱点部位にクリティカルヒットした一撃は、園田のHPを一瞬で奪い去ってしまった。
「そ、そうですよ。はずかしいんですよ……」
「えー、何が? そんなにおかしなことじゃないと思うけど」
「改まって変えるのは私にとって勇気がいることなんですっ!」
そっかー、と頷くも、ん? とすぐに首を傾げる。
「でもみどりって小中あたりは友達普通にいたんだよね。その時も名字で呼んでたの?」
「あの時は……その、今と違って割り切っていたと言いますか……うう」
本気で困っている様子に神谷はだんだんと罪悪感を覚え始めた。
ごり押ししてまで強要することでもないか、とも思う。
うんうん、そうだ。やめておこう。……うん……。
「確かにそうだよね、急に言われてもって感じだよね! ごめんごめんちょっと焦っちゃったよ。名字呼びだからって仲悪いかって言うとそうじゃないもんね……」
と言いながらも明らかにしゅんとする神谷に慌て始める園田。
呼び名ひとつでここまでかき乱される二人の姿は、はたから見ればかなり滑稽そのものであった。
「さ、ささ、さ……ささつさ……」
顔を真っ赤にして全身をぷるぷるさせながら突然口をもつれさせ始めた園田に、神谷はこの上なく困惑して首をひねる。
「どうしたのいきなりさっささっさ言い始めて。査察官?」
「ち、ちがいますっ! いいですか、今から呼びます! 名前を! 両耳を貫通するくらいの気持ちで聞いてくださいね!」
「それ鼓膜破けない!?」
まるで暴漢のようににじり寄ってくる園田に否応なく慄く。とっさに逃げようとした神谷だが、勢いよく羽交い絞めされてしまった。
「やだー! やめてー!」
「ふ、ふふ……あなたが悪いんですからね……」
完全に変質者とその被害者である。
誰かに見られたら通報待ったなしの絵面であった。
逃れようとじたばたする神谷だったが、身体のサイズ差はいかんともしがたい。
「暴れないでくださいよ!」
「暴れまくるよこんなの! 助けて誰かへるぷみー!」
「誰も来ませんよ、この時間はみんな部活に行ってますから……観念してください」
はあはあと興奮しきった吐息が神谷の耳にかかり、背筋がぞわぞわする。
園田の石鹸に似た香りに包まれながら神谷は「しぬんだ……」とか細い声と共に半ば覚悟を決め始めていた。
(ごめんなさいカガミさん。わたしはここでゲームオーバーみたいです……)
まさかゲーム外で道が閉ざされるとは思わなかったなあ、としみじみ思う。
なんかこんなこと前にもあったな、園田さんたまに暴走しがち……と過去に思いを馳せていると、すぐ近くにある園田の喉からごくり、と生唾を飲み込む音が聞こえた。
この異様なテンションと至近距離で声を上げられたら間違いなく耳がおかしくなってしまう。
「い、いきますよ……」
「痛くしないでね……」
混乱で二人とも正常な思考ができなくなってきた。
ぐっばいわたしの鼓膜、また会う日まで……と神谷が謎の感傷に浸っていると、
「沙月、さん……っ」
意外にもそれは囁き声で。
衝撃に耐えようと身構えていた神谷はぱちりと目を開ける。
「はえぇ……?」
気が抜けて間の抜けた声を出してしまうと同時に、羽交い絞めから解放される。
「さ、叫ぶつもりだったんじゃあ」
「……? そんなわけないじゃないですか。お耳が痛くなっちゃいますよ、そんなことしたら」
確かにその通りだ、と今度こそ気が抜けてへなへなとへたり込む。と同時にさっきまで謎に焦り切っていた自分が恥ずかしくなってくる。
「あは、そりゃそうだ……っていうかさん付けなの? なにか遠慮してる?」
それを聞いた園田はふわりと微笑む。
「――――いいえ。これはわたしがそう呼びたいからです。だから沙月さんなんです」
「……そっか。ならそれで」
よいしょ、と神谷は制服のスカートに付着した砂を払いながら立ち上がる。
陽はもうずいぶんと傾き、夜が近づいていた。
「そろそろ部屋に戻ろうか。風がだいぶ冷たくなってきた」
「そうですね。そろそろお腹も空いてくる頃ですし」
二人連れ立って歩き出す。
と、神谷が再び口を開いた。
「喋り方……丁寧語。やっぱりまだ取れない?」
「ええ。直したいとは思ってるんですけど……私は、まだ……」
「……仕方のないことだと思うよ。ゆっくりやっていこう」
いたわるような神谷の言葉に、園田は静かに頷く。
確かに園田は父を、家庭を乗り越えた。
しかしそれは心の傷が癒えることとイコールではない。
心の傷に由来する習慣はそうそう無くなるものではない。暴力によって矯正された言葉遣いは未だにそのままだ。しかし園田は実のところそこまで気にしているわけでもなかった。
直せるなら直したいが、焦ることでもない。なぜなら神谷がそばにいてくれるのだから。
それを考えれば口調なんて問題ではなかった。
…………神谷が心配してくれるのが嬉しいから口には出さないが。
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