20.いつの日か輝く君のそのとなり


 走る。

 ひたすら走る。

 アスファルトを蹴り、木々の間を抜けどこへとも知れず、園田みどりは走る。

 ひ、ひ、と悲鳴の前兆のように跳ね上がる吐息は呼吸の形を成していない。

 

「うあっ!」


 地面に浮き出た木の根――これももちろん鋼鉄だ――に躓き、盛大に転ぶ。

 痛みで生理的な涙があふれ出る。どうやらアスファルトの凹凸が右ひざを浅く抉ったらしい。血が滲みだしているのが見なくてもわかる。

 だが、そんなことはどうでもいいとばかりに立ち上がり、また走り出す。

 つんのめりながら、ふらつきながら、手足をばたつかせ、不格好に走り続ける。

 

 とにかくあの場所から離れたかった。

 今でもあの光景が脳裏に焼き付いている。

 突然森の奥から現れた銀の触手が神谷沙月を貫き、そして連れ去った。


 滴る赤い血。

 動かなくなった神谷。

 少しでも足を止めたらその光景に飲み込まれてしまいそうだった。


 助けなければいけないというのはわかっている。

 いまここにいるのは自分だけなのだから。

 そしてそれ以上に――この状況を作ったのが自分なのだから。

 

 でも、無理だ。

 プラウという名のモンスター――あの岩の巨人と同じ、強大な存在を倒さなければ元の世界に戻れないということは神谷から聞いている。

 だからといって、自分にあの怪物が倒せるだろうか。

 誰もが不可能だと言うだろう。

 神谷のような、あんな力は園田には無い。

 怖い。


 そうだ、あんなに強い神谷が――園田が無敵だと信じていた神谷ですら、あっけなく倒れてしまったではないか。

 そんなのに立ち向かえるはずがない。

 

 わけもわからず走り続ける。

 踏みしめるアスファルトにはところどころ白色のラインがペイントされていて、もしかしたらここは道路だったのかもしれない、と錯乱した頭で、妙に冷静に分析する。

 叫び出してしまいそうなほど追い詰められた自分を、値踏みするように見つめている自分がいた。

 

 そして――走り続けたその先に、それはあった。

 どうやらある意味で逃げた方向は間違っていなかったらしい。

 どこまでも続くとすら思えた森はあけ、一つの建造物――いや、施設といった方が正しいだろう。

 入口に設置されている看板は表面が削られて何が書いてあるかは読めなかった。だが、園田はこの施設を知っている。


「〇〇医科……大学病院……」


 そこは、神谷と園田が通う高校から、さほど離れていない場所にある病院と同じ名前だった。

 園田自身ここに来たこともある。

 しかし彼女が知っているそれに比べ、少々寂れているようだ。

 あの道路と思われるアスファルトといい、神谷と園田が知っている場所。

 もしかすると、ここからあの崩壊した学校は地続きになっているのかもしれない、と思った。

 だが今はそれどころではない。


「病院なら、もしかしたら誰かいて……神谷さんを助けてくれるかも……!」


 そんなことを言いながら、病院へと入っていく。

 本当はただ、逃げ場所を見つけたいだけだというのに。




 ガラス張りのドアを開くとそこはエントランスだった。

 三階建ての建物で、吹き抜けになっている。

 本来なら照明に満たされているはずの広々とした空間は今は少し暗く、大きな窓から差し込む満月の明かりに任せきりだ。

 患者が順番待ちするための椅子はいくつか倒れたままで、ホコリが積もっていた。

 受付に目を向けても誰もいない。

 どこを目指すでもなくフラフラと歩みを進める。

 ただ奥へ。あのプラウという名の暴威が届かない場所へ。

 

 廊下を歩く。どこも人の気配はない。それに人が使用している施設特有の雰囲気がない。

 まるで長い間ここには誰もいなかった、ような。

 ここはゲームの中……のはずだ。園田は神谷からそう聞いた。

 だが、こんな世界を誰が作れるというのだろうか。それこそプラウのような、超常の存在なのではないか。

 そんなことを考えながら歩いていると、引き戸が少し開いている部屋を見つけた。

 たいした理由があるわけではない。

 だがなんとなく――そこに人の痕跡のようなものを感じて、少し震える手でドアノブを引き、部屋の中へと入った。



 部屋の中は薄暗く、目を凝らしてようやくまともに見える程度だった。

 入った途端鼻をつく薬品の刺激臭。あたりを見回すと、戸棚の中にビーカーや試験管などの容器が保管されており、臭いの源はそこだった。

 おそるおそる一歩踏み出す。するとつま先に何かがぶつかり、


「…………!!」


 と声にならない悲鳴を上げ、飛び上がった。恐怖によって神経が過敏になっているのだ、と自覚する。

 床に落ちていたそれを拾い上げてみると、それは分厚いファイルだった。

 他のファイルと比べてよく見てみると、このファイルだけはホコリがところどころ落ちており、ごく最近誰かが触れたということが窺える。

 もしかしたら。

 この近くに誰かがいるかもしれない。そうでなくてもこの状況をどうにかする方法の手掛かりになるかもしれない。

 そう思い、ファイルを開く。

 するとそこには大量の資料が挟まれており、


異能保持者ホルダー……体組織……?」


 見慣れない単語の並び。

 その中でも目を引いたのは異能保持者ホルダーという言葉だった。

 だが今求めているのはこれではない。

 なにか、なにかないのか。

 祈りにも似た心境でぱらぱらと資料をめくる。しかし破れていたりインクが掠れていたりでまともに読める箇所はほとんどなかった。

 

 ここには何もない。 

 誰もいない。

 それが分かってしまった。

 膝から力が抜け、すとん、と座り込む。


「う、ああ」


 うずくまる。溢れ出す涙を拭おうという気すら起きなかった。

 全ての気力が失われた。壮絶な無力感が全身を満たしていた。

 恐怖というものは、こんなにも簡単に人の意思を折ってしまうものなのかと打ちひしがれた。


 どうするべきなのかはわかっている。

 ここを出てあの鋼鉄の森へと駆け戻り、神谷を連れ去ったプラウを探し出して戦うべきなのだ。

 例え敵わないとしても、それ以外にここから出る方法も、神谷と園田が助かる方法もないのだから。

 もし倒すことができれば、ここから出られ、同時に神谷が負った傷も無かったことになる。そう彼女から聞き及んでいる。だが。


 理性は立ち上がりなさい、と叫んでいるのに、身体がいうことをきかない。心がそれを拒んでいる。

 怖い。床に手をつくと、どうしようもなく震えた指先が目に入った。


「助けて……誰か……! お願いですから……!」


 しゃくりあげながら、絞り出すように声を上げる。だが応えるものは誰もいない。

 自分しかいない。誰も助けてはくれない。

 あの頃、人々を篭絡して作り上げた壁はここには無い。誰も守ってはくれない。

 この期に及んで誰かに助けてもらうつもりなんですね、と。

 嘲るような声が頭の中にこだまする。


(だって仕方ないじゃないですか)

(私に……あの人のような力はありません)

(どうしろっていうんですか)


 ――――本当に、どうしようもなく弱いですね。


(……そうですよ。だからいつも周りの人を盾にしていたんです)

(それの何が悪いっていうんですか)

(誰も困っていなかったじゃないですか)


 ――――でも、それはもうやめるんでしょう?

 

(…………!)


 ――――したいことがあったんじゃないんですか?


 ――――親友が欲しかったんじゃないんですか?


 ――――喜びと悲しみを分かち合い、困ったことがあれば助け合い、後ろ暗いことは何もなく、利害など関係なく共にいる。


 ――――そんな存在が。


(私は…………)


 ――――助けましょうよ。

 

 ――――そうしたら神谷さんにいっぱい謝って。


 ――――その後、友達になってくださいって言いましょう。


「私、は」


 私は、神谷さんのことを強い人だと思っていました。

 だって、あんな怪物に立ち向かえる人が弱いわけないじゃないですか。


 でも違うんですね。

 あの子だって、ただの、同学年の女子高生でした。


そんなことは分かっていたはずなんです。

 彼女とあの崩壊した学校で出会ってから一週間、ずっと陰で見ていましたから。

 料理を失敗することもありました。教科書を忘れてうろたえることだってありました。授業中あくびをして、先生に注意されることだってありました。

 でも私はそんなところからずっと目を逸らしていました。強いあの人にそんな弱い部分があるわけないと。完璧なはずなんだと。


 そうやって見たいところだけを見ていました。

 そうです、彼女は怖いと言っていたじゃないですか。本当はすごく怖いと。

 そんなことも耳に入れていなかったのでしょうか、私は――――!


 私はあの時、『あなたを助けたい』と、そう言いました。

 その時は神谷さんのそばにいたいがための方便でした。


 だけど、それだけではなかったはずなんです。

 わずかにでも、本当に神谷さんを助けたいという気持ちが含まれていたはずなんです。

 『強い神谷さん』を前にしながら、無意識のうちでは、彼女がただの同い年の女の子だと理解していたはずなんです。それを奥底にしまい込んでいただけで。


 『助けたい』というのは、だからこそ出た言葉だった。

 だって彼女を見ていたいだけなら、わざわざあんなことを面と向かって言う必要はありません。

 今回のようにこっそりついていき、こっそり陰で見守っていればいいはずです。

 

 だから――きっとそれが私にとって本当の願い。


 不意に。

 あの時聞いたお母さんの言葉を思い出しました。


『何をしたっていいの』

『今までできなかった分、目いっぱいしたいことをしなさい』


 彼女は――神谷沙月という少女は、これから幾多の困難に立ち向かっていくことになるでしょう。

 どれだけ怖くても、ただひとつの願いのために。

 それは恐ろしく危険な道のりでしょう。その道を、ひとりで行かせたくありません。

 彼女を失いたくありません。

 これは私のエゴです。誰もそんなことを頼んではいません。

 それでも。

 これが私の――――


「私は、神谷さんを助けたい。彼女のあとを追いかける私じゃなく、彼女の隣に立てる私になりたい。彼女を助けられる私になりたい――――!」


 それが私のしたいこと。

 誰のためでもない。私が神谷さんあのひとを助けたい。

 やっと、『私』が分かったような気がしました。


 突然、りいん、と鈴の鳴るような音がした。

 

 思わず見上げると、そこにあったのは真っ黒な光の粒でした。

 光なのに黒い、なんて矛盾しているようにも思えますが、そうとしか見えませんでした。

 他の色が入り込むような余地がないほどの漆黒。なのにそれはあたりを少しばかり照らし、光としての役割を果たしていました。

 しかしその光の粒は小さく、輝きはあまりにも微か。少し目を離したらその隙に跡形もなく消えてしまいそうなほど頼りないものです。

 ですがその光はほのかに温かく、なにか覚えがあるような存在感を漂わせていました。


 だからでしょうか。

 私はその光に手を伸ばします。

 ゆっくりと距離が近づいていき――そして指先が光に触れました。


 その瞬間。

 黒い光の粒が指先から私の身体に溶け込みました。


「これ、は…………!」


 ずっと心を覆っていた暗雲が瞬く間に吹き払われるのを感じます。

 一気にクリアになった意識に、再びあの声が響きました。



 ――――さあ、『力』は手に入れました。次はどうしますか?



 優しく語りかけるような口調。

 私がなんと答えるのか――既にわかっているようでした。

 当たり前です。だって自分のことですから。


「――――行きましょう。あの人を助けるために」


 そしていつの日か。

 彼女の隣に立てますように。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る