第17話 記憶の歪
自分が最低だと思う。
わたしは彼女の優しさを無下にした。
優しさに感謝を伝えるどころか「迷惑だ」と優しさを跳ね除けてしまった。わたしの頬を叩き、そのまま逃げ帰る彼女を止めることすらしなかった。
あの時謝っていればと、今更後悔したって遅い。
ごめんなさい、ごめんなさい。
わたしは暗闇の中でひたすらに謝り続け、光を待った。
体育祭の日の朝。
起きてすぐに着替えてから居間に行く。
既に朝ご飯は準備されていて、由紀菜さんは一生懸命弁当を作っていた。
弁当くらい自分で作るのに……。
「おはようございます、由紀菜さん」
「あら、おはよう。結以ちゃん」
「わたし、途中でパン買っていきますから弁当はいいですよ?」
わたしがそういうと由紀菜さんはムスッとした顔でわたしを見た。
「そんなこと言わないの。折角の体育祭なんだから弁当も豪華にね」
満面の笑みでとても楽しそうにそう語った由紀菜さん。
そんな由紀菜さんを見ると悪いことを言ってしまったかな、なんて反省させられる。
朝ご飯を食べ、弁当を由紀菜さんに任せてわたしは家を出た。
今日はクラス全員で朝練をすることになっているので、保体委員から早く登校するように言われている。
学校に着き、朝練のために体操服に着替えてグランドへ向かった。
チャイムが鳴り、朝練が終わったあと、教室でホームルームを行う。
その後、急に意識が途切れたかと思ったら不思議な現象が起きた。
わたしは暗い闇の中にいた。
そして目の前には一つの映像が見える。
それはまるで誰かの視界の中から日々の光景を見ているような……
そんな感覚だった。
映像の中では保体委員の女子生徒が『視界の主』の腕を引っ張りながら校舎の階段を降り、グランドへ。先生に一言言って並ぶ列の中に混じる。
授業時間の練習で何度もやってきたことだ。
保体委員の彼女は「なんでさっさと降りてこないの」と『視界の主』を叱責した。
するとその後視界が動き、目の前に奏の姿が見えた。
奏が保体委員の彼女を説得しようとしてくれているのか一生懸命に彼女と話をしていた。
開会式の途中。
生徒代表、各組の団長達が選手宣誓を述べようとしたところだった。
目の前の映像が消えた。
なんとも不思議な現象だった。
その不思議な現象が終わり、目を開けた先ではクラスメイトが心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。
「あの、大丈夫?」
「誰か!水持ってきて!」
長椅子の上で寝かされていた体を動かしつつ辺りの状況を確認する。
どうやらもう各々の競技が始まっているらしい。
辺りには砂埃が舞い、生徒達の応援の声が鳴り響いていた。
水を取りに行ってくれていた男子生徒が戻ってきてわたしに水をくれた。
「ありがとう」
簡単に礼を述べると男子生徒は「おう」と手を挙げて返事を返してくれてそのまま走っていった。
誰かが呼んでくれたのだろうか。
奏と大和が慌てて駆けつけてきた。
二人はとても心配そうにわたしの顔を覗き込み、顔色を確認して安心そうにため息をついた。
「ごめん、ちょっとおでこ借りるね」
奏はそう言うとわたしの前髪を逆立たせ、掌で額に触れた。
奏の掌はとても冷たく感じた。
「ちょっと……。結以の頭熱いよ……」
「えっ、マジかよ」
奏はタオルを絞り、わたしの額に叩きつけるようにして置くと「保健医の先生呼んでくるから」と走ってどこかへ行った。
大和は奏と同じようにしてわたしの額に触れた後で怪訝そうな顔をして傍にあった椅子に座った。
大和の手も冷たい……。
「なあ、結以。いつから熱があったか分かるか?」
「いや、全く……。でも今日学校来た後で変なことはあったよ」
「変なこと?」
「なんかね、他の人の視界を見てるような感覚……?」
「……ッ!…そうか……」
わたしがそう言うと大和は嬉しそうな悲しそうな、よく分からない表情をした。
この現象について大和は何か知っているんだろうか……
「ねえ、大和……」
「お、お前さ。あれ以来、舞以と話ししたか?」
わたしが大和に話しかけようとした時だった。わたしの言葉を遮ってわたしの痛いところを突いてきた。
あれきり舞以とは口を聞いていない。
謝らなければ、と何度も話しかけようとはしたものの間が合わずに時間は過ぎ、ずるずると引きずったまま結局今日になってしまっていたのだ。
わたしは気まずさから自分で話に行くことが出来なかった。
だから今日こそ勇気を振り絞って体育祭が終わったあとでゆっくりと話す時間を作りたいなんて思って大和に言伝を頼もうと思ってたけど、この有様だ。
大和の顔を見ながらそんなことを思った。意気地のない自分に腹が立ってしまう。
「なっさけないなあ……」
「え?どうした?」
「いや……、なんでもないよ」
そんな心配そうな顔でわたしを見る大和。
そんな顔で見ないでよ……
頭の中で大和に抗議するも当然伝わる訳もなくわたしはため息を吐いた。
ため息を吐いたところで保健医の先生を連れて奏が戻ってきた。奏まで大和と同じような心配そうな表情をする。
まったく……この二人は……。
保健医の先生はわたしの額に手を当てた後で手に持っている鞄から体温計を取り出してわたしに渡してくれた。
脇に体温計を挟み、数分後に音が鳴る。
体温計は37.9℃を指していた。
「これはもう完全に熱が出てるわね。植村さんの親御さん、今日来てる?」
保健医の先生にそう尋ねられる。
「多分、来てるはずですけど……」
「あ、じゃあ私達が探してきますよ。先生は『彼方』のことをよろしくお願いします」
「はい、任されました」
笑顔でそう応じた先生は奏と大和が走っていったのを見届けると楽しそうにわたしに話しかける。
「貴方達、本当に仲良いわね。付き合いは長いの?」
この保健医の先生は由紀菜さんと知り合いらしく、この学校の教師の中でもわたしの事情を一番知っている人だった。
「大和は前から知ってましたけど、奏はわたしが日本に帰ってきてからの仲で、大和と話すようになったのもその時からだから、二人ともまだ二年くらいの付き合いですよ。ただ、出会った時に知った他での色々な繋がりが多かったからほとんど家族みたいなものだと思ってますけど」
「家族みたい、か。いいわね、そういうの」
先生はそう言いながらタオルの交換をしてくれている。
左目の眼帯を濡らさないようにゆっくりとタオルを額に置き、優しい手でわたしの頬に触れた。
「少し休みなさい。どうせ由紀菜と話すこともあるからすぐには帰れないからね」
そう言い、わたしの右目の瞼を軽く撫でるようにして優しく閉じた。
そうして視界を奪われたわたしはまるで魔法にでも掛かったかのようにすぐに眠くなって、数分も経たないうちに寝てしまった。
私は何も間違ったことはしていなかった。貴方が怒られるのはおかしいと思ったから。だからただ、貴方のために教師に訴えた。
なのに……。
私、何か間違えたかな……。
初めて同い年の姉がいると知ったのは中学生に上がる頃のことだった。
父が大事そうに保管してあったアルバムの中に一人の女性と産まれたばかりの赤ちゃんが写ったツーショット写真があった。
その女性が私の母じゃないことはすぐに分かったし、赤ちゃんが私じゃないことも分かった。
なら、誰なのか。
その日のうちに父に尋ねて答えを得た。
知った時は凄く嬉しくて泣いて喜んだと思う。
外へ出る度、すれ違う人に写真の赤ちゃんの面影を探してしまう。
とにかく会いたくて仕方がなかった。
高校受験、合格発表の日。
『植村彼方』という受験生が満点合格をしたという話を聞いて素直に凄いと思った。
私は芸術学科を受験して、提出した作品のお陰で合格できた様なもので、一般問題はギリギリだったのだ。
私は家に帰って父に合格したことと満点合格した女の子のことを伝えてあげた。
父は『植村』という苗字を聞いて顔色を変えた。
気になって父に詳しい話を聞いてみた。
父の旧姓は『植村』だったらしく、母の元へ婿入りした時に『綾辻』の姓に変わったらしい。
父はこう言った。
「この辺で『植村』なんていう姓を持っているのは由紀菜とその娘だけだ」と。
『植村彼方』。
その子こそが私の姉なのだ。
そう思ってより一層高校に行くことが楽しみになった私は入学までの日々を幸せに過ごしていたと思う。
入学式の日の朝。
それが誤解だったと気づかされ、落ち込んだ。
彼女が『愛』と呼んだ少女の事が気になって尋ねてみた。
でも答えが得られないまま式が始まる。
私は出席番号3番だったので先頭の方に並んだ。
A組の4番が植村彼方さんだったはずだ。
折角隣同士なんだし、A組が来たら一言謝ろう。
そう決めた直後、A組が入場してきた。
私の左隣に座ったのは全く知らない男子生徒だった。
横をA組の前の方に座る数人を見たけどどれも植村彼方さんじゃない。
そのまま式が始まってしまって、私は先生達の話など話半分にしか聞かず、植村彼方さんのことが気になって仕方がなかった。
指揮の途中で教師陣がざわつき始め、それにつられるようにして生徒達も騒がしくなる。
救急車の音が聞こえ、より一層生徒達のざわめきが煩くなり、救急車が遠のくとともに生徒達は静かになった。
途中で先生達と共に街田さんが壇上に上がり、事の説明を始める。
これを聞いてしまって涙すら出ない程の悲しみに心を打たれた。
入学式が終わり、明日からの連絡事項を聞くために教室へ向かう。
担任代理の教師側が来て、明日からのことを簡単に説明した。
私は頭の中が石のように固まって何も入ってこなかった。
そうして下校し、食事も摂らないままに次の日を迎え、由紀菜さんと逢った。
由紀菜さんと父が籍を入れ直した日からしばらく三人で一緒に生活した。
由紀菜さんはとてもいいお母さんで、たった少し一緒に過ごしただけで大好きになった。
三週間ほど経った時、彼方さんが目を覚ましたと由紀菜さんから連絡を貰った。
それを聞いた時には嬉しくて、何かしてあげたくなったけど、それを言った由紀菜さんの声が暗いことに気がついて彼方さんの記憶障害の話を聞いて絶望した。
学校に来れるようになった彼女は毎日同じクラスの本郷くんや街田さんとお昼を過ごしたりして楽しそうに過ごしていた。
私はあの二人が羨ましかった。
あの日以来彼方さんとは話が出来ていない。
どうにかして話をしようと思っているけど、なかなか間が合わないのだ。
だから今日の朝にでも話をしようと思ってたけど、なんだか彼方さんの様子がおかしくて近付きづらかった。
開会式の後に話そうと思っていたら彼方さんが倒れて運ばれた。
一つ、競技が終わった私は今度こそちゃんと話をするために救護テントの方に向かった。
救護テントに入ると彼方さんは保健医の先生に見守られながら気持ちよさそうに眠っていた。
「あら、いらっしゃい。怪我?熱中症?」
「あ、いえ。彼方さんが運ばれたと聞いて心配だったんです」
「ああ、そう。この子色んな人に心配されてるのね」
優しい目でそう言った保健医の先生が私に水をくれた。
彼方さんの状態を聞いてみると、彼女は熱を出しているために体育祭に参加不可能な状態らしい。
今、本郷くんや街田さんが由紀菜さんを探しに行っているらしく、それまでは寝かせるそうだ。
「あ、私から父に連絡しましょうか?」
「え?綾辻さんが親御さんに連絡して何か関係があるの?」
「ええ、きっと一緒に見に来てると思いますから」
私は父に連絡を入れてみる。
すると案の定、父と由紀菜さんは一緒にいたらしい。
由紀菜さんは携帯電話を家に置いていたために通じなかったそうで慌てて駆けつけると私や先生に頭を下げた。
先生は由紀菜さんと一緒にテントの外に出て、木陰に行くと二人で話し始めた。
残された私と父。
父は長椅子の上で寝苦しそうにする彼方さんに優しく触れ、慈しむように見ていた。
話が終わったのか、戻ってきた先生と由紀菜さんは彼方さんを起こし始めた。
目を覚ました彼方さんは重そうな体を由紀菜さんに支えられながら私と父、それから由紀菜さんを見回して何かを思い出したように眉間にシワを寄せた。
「あ、申し遅れたね。俺は綾辻……」
父が名乗り終わる前に彼方さんは保健医の先生に帰ることを伝え、由紀菜さんの手を引いて学校から出て行った。
父が自分を問い詰めて反省していたので、フォローをしたくて「彼方さんは記憶を無くす前に父さんのことを『由紀菜さんを傷つけた人だ』って怒ってたから……。だからどうしてもこうなっちゃうんだよ」って慰めたつもりなのに父は落ち込んでしまった。
何もかも上手くいかない。
結局謝れてないし。
私は早く仲良くなりたいだけなのに……
「もう、結以ちゃんったら……。あんな態度取らなくてもいいのに」
「何かあの人は嫌だったの。あの子と同じでよく分かんないのにイライラするんですもん」
イライラする。
更に熱が相まって頭がクラクラする。
「ねえ、結以ちゃん。体調悪い時には悪いって言ってね。私、心配だから」
心配かけたくない。
私と一緒に住んでくれているだけでも十分なのにこれ以上由紀菜さんに心配も迷惑もかけたくない。
「大丈夫ですよ、由紀菜さん。少し寝たからだいぶ楽になりましたし。家に帰ってまた寝ればすぐ治りますよ」
そう、風邪なんてそんなもんだ。
どうせすぐに治る。
だから大丈夫だよ。
もう心配かけないからね……。
「ねえ、由紀菜さん。それよりなんで奏も大和も由紀菜さんもわたしの事を『結以』って呼ぶんですか?そういうあだ名?」
わたしが病院で目覚めてから不思議に思ってたことだ。
わたしの名前は『植村彼方』のはずなのにわたしを『結以』って呼ぶ人がいる。
なんだか聞き馴染みは良いし、ニックネームかなにかだろうと思って敢えて流していたことだけど今聞いてみよう。
質問の答えを期待して由紀菜さんの顔を見てみるとその顔は真っ青だった。
わたし何かまずいことを言っただろうか。焦って思い出そうとするけど何も思い当たらない。
「あ、あの由紀菜さん……」
何かまずいことをしてしまったのだろうか。
謝らなければいけない。
でも、何が悪かったのか分からないからどう謝っていいのかも分からない。
由紀菜さんは真っ青だった顔をいつもの笑顔に戻すと「……ええ、貴方のニックネームよ」と教えてくれた。
『結以』……。
なんで『結以』なんだろう……。
わたしの頭の中で何かが抗議をしている気がした。
紡ぐ想いとその彼方。 大和環奈 @sakana-kanayui
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