二、 私とわたし、二人の未来
第13話 私とわたし。
「私はあなたの事が大好きだわ」
声が聞こえる。
頭の中で私に話しかけてくる声。
その声はあの時
全てを知って理解の出来なかった涙を流していた時に響いたものと同じものだ。
暗闇の中、私は少女と二人向き合った。何を話すわけでもない。
なのに少女は楽しそうだった。
「何がそんなに楽しいの?」
私は問いかけてみる。
少女は楽しげに口を開く。
「これが楽しくないわけない!
あなたに会えたこと、あなたとこうして向き合って話が出来ること、こうしていられること。私は全てが嬉しいし楽しい」
とても楽しそうに話し始める少女。
なんだか私も楽しくなってくる。
「わたしとあなたは今までずっと一緒だった。わたしはあなただったし、あなたはわたしだった。それがいつの日かわたしはわたしになっていったしあなたもあなたになっていった。あなたの中で見た外の世界のこと、母親のこと。たくさんのことが知れて嬉しかった。大好きよ、わたしはあなたが大好き。これからもずっと一緒」
「……うん、私もだよ」
頭の中に少女の想いが浸透していく。嬉しさ、楽しさ、悲しさ、辛さ、寂しさ、切なさ、恨み、憎しみ、怒り、慈しみ、愛おしさ。
その感情に浸るにつれて同調された心が想いが涙を流す。
私はこの感情を知らない。
けれど私はこの少女のことを知っている。
そう思った。
そうこの少女の名前は……
「残念、もう時間みたい。また会いましょうね」
そう言うと彼女は私の身体に重なるようにして消えていった。
高校への合格が決まってはしゃいだまま寝た翌朝のこと。
なんだか分からない嬉しさに涙を流しながら彼方は目を覚ました。
寝覚めのいい朝だ。
立て鏡を見て頬を流れる涙を拭き着替えてから居間に向かう。
居間に降りてみるとそこには由紀菜しかいなかった。
そっか、清香さん達はもう出るんでしたね。
明日には清香さん達はこの家を発つのだそうだ。部屋の中にはたくさんのダンボールが積まれている。
そうなると少し寂しくなりそうですね。
そんなことを思いながら由紀菜に声を掛けた。
「おはようございます、由紀菜さん」
「…あら、おはよう」
少し顔をしかめてから挨拶を返してくれた。
「明日清香さん達が出ていったらこの家に住むのわたしと由紀菜さんの二人だけになっちゃいますね。少し寂しいです」
「そうね……」
ちょっと落ち込んだ声を出した由紀菜さんのことが心配になったわたしは由紀菜さんの方を見てみました。
由紀菜がムッとした顔で、いじけたような顔でわたしの方を軽く睨んでいた。
その表情は「私と二人じゃ不満なの?」とでも言いたげな……
「あ、違いますよ。別に由紀菜さんと二人だけになるのが不満な訳じゃないです。ただ、そう純粋に二人が居なくなるのが寂しいなって思っただけで…」
「……本当に?」
そう言ったら嬉しそうだけど不安そうな顔で聞いてくる。
この顔はズルいなあ……
はあ、今日も由紀菜さんが可愛すぎて辛い。
「もう、由紀菜さん可愛いすぎますよ……」
つい、本音が漏れてしまった。
「もう、彼方ったら茶化さないでください……」
なんだこの可愛い人。
……この人がわたしのお母さんになってくれて良かったなあ。
この人の娘になれてよかった……
そう思った時、ふと思う。
そういえばなんで旦那さんいないんだろ。康隆みたいに単身赴任なんだろうか。
それとも離婚なのだうか。
理想の奥さんだしお母さんだと思いますし、優良物件だと思うんですけど……。
「ねえ、由紀菜さん。これ聞いても大丈夫なのか分かんないですけど、旦那さんっているの?わたし、一度も見たことないから……」
「あー、そうでしたね。あの人が私の元を去ったのって愛が生まれる前だったから当然彼方も知りませんよね」
「去ったってことは離婚したんですか?」
「そう、離婚したの」
「どうして…?」
「不倫の問題ですね」
「不倫……」
こんな人を捨てて他の女に目移りしたなんて。
由紀菜さんは綺麗で優しくて、でも時折見せる子どもっぽいところが可愛くて、とっても素敵な人なのに。
……もったいない。
幼いわたしは綾香姉さんのような人になりたいと思っていた。
それは今でも変わらない。
だけど、由紀菜さんのように綺麗で素敵な優しい女性にもなりたいと思っている。
由紀菜さんは女としてのわたしの憧れの人だ。だからそんな由紀菜さんを見捨てた旦那さんには呆れざるをえない。
「もう、この話はやめにしましょう。いつまでもそんな顔をしていたら折角の可愛い顔が歪んじゃいますよ」
わたしの訝しげな顔を見て何かを察したように話しかけ、わたしの眉間を優しく撫でてくれた。
少しくすぐったいけど、気持ちが良くて嬉しかった。
「それより彼方、最近何かおかしな事なありませんでしたか?」
「え?別におかしなことなんてありませんよ?」
「そう……。ならいいんですけど……」
何かあったんだろうか。
おかしなことなんて何も……
そう考えた時、突然意識が途切れた。
意識を失った彼方とその事に驚き、慌てる由紀菜。
「彼方……!彼方……!!」
目が覚めた私が重々しい瞼を開けて最初に見たのは涙を流しながら顔を歪めた由紀菜さんだった。
これ、由紀菜さんに膝枕されてるのかな。
でもなんで膝枕されてるんだろう。
頭の中、記憶がこんがらがっている。
昨日は高校に合格できた喜びと共に眠りについた。
それから今までずっと寝ていたのだろうか。
どうにも記憶が曖昧だ。
「あ、そういえばまだ言ってなかったね。おはよう……由紀菜さん」
「……っ!やっぱり……」
「ん?どうかしたの?」
挨拶をしただけで驚かれてしまう。なんか変なこと言っただろうか。
「ねえ彼方、今日は私と一緒に病院に行きましょうか」
その日、私は由紀菜さんに連れられて由紀菜さんが務めている病院の精神科に来た。
ここに来るのは手術を受ける前以来だ。
受付を済ませ、何やら先生と由紀菜さんが話したあとで私の診察が始まる。
「時折、記憶が抜けてるように思うことはありませんか?」
「はい、最近少し…」
「それはどの程度の頻度で?」
「由紀菜さんには内緒にしてほしいんですけど、いいですか?」
「…本当に親子みたいですね。いいですよ。秘密にしましょう」
「最近、夢を見るんです。とても不思議な夢。夢の最後には必ず少女が私の中に入ってくるようにして終わるんです。そしてその夢を見た翌日に起きると起きた記憶がないまま学校にいたり部屋で倒れたりしています」
「……そうですか、分かりました。では由紀菜さん診察の結果を話したいと思いますのでお母さんを呼んできてください」
私は言われた通りに由紀菜さんを呼んで一緒に診察室に入り直した。
「彼方さんには辛いことかもしれませんし植村さんにも辛い話だとは思いますが、診断結果ですね。
植村さんの言った通りでした。
今の彼方さんは解離性同一性障害の兆候があります。いえ、兆候というのが正しいのかどうか……。
性適合手術を受けるまでは統合されていたはずの人格が解離してしまっている状態です。いえ、これが本来の状態だったと言ってもいいのですが、彼方さんの症例が珍しいものなのでなんとも…。
要因としてはこれが手術をしたことによって起こったことなのか、他にも要因があるのかは判別できません。
ただ、この状態が続くことで精神のバランスが取れなくなって鬱や自閉症に陥ることなどが考えられるので何らかの対処は必要になります」
診断結果はそういったものだった。
なんとなく納得はいった。
もしあの夢はあの時に出会った少女が私と一つだった結以だったとしたら夢の中での話やあの時の「わたしはあなた、あなたはわたしだった」って言葉の意味も分かる。
由紀菜さんがとても辛そうな顔をしてこちらを見ているけど、私はそうでもない。
だから笑って由紀菜さんに無事を告げようとしたところで意識が途切れた。
私の中にあった結以の存在を自覚したからだろうか。私は一人の少女とすれ違った。
そうして私は少女と入れ替わるように闇の中へと落ちていった。
突然、闇の中から引きずり出されるような感覚がした。
無理やり体を持っていかれるような。
そんな時に辛そうな顔をした彼方とすれ違った。
ごめんなさい。わたしはあなたにそんな顔をしてほしい訳じゃないのに……。
「彼方……、どうして。折角全てが上手くいき始めたばかりなのに…」
目を覚まし、上を見上げるとまた由紀菜さんが泣いていた。
本当はこんな顔見たくないのにな…
「二度目の『おはようございます』ですね、由紀菜さん」
わたしは由紀菜さんの涙を手で拭いながら挨拶をした。
わたしは体を起こして由紀菜さんの横に座った。由紀菜さんは泣き続ける。
わたしは泣き続ける由紀菜さんをあやしながら先生の方を向いた。
事前に由紀菜さんから話を聞いていたのだろう。先生も突然の事に驚きつつもなんとか姿勢を崩さずにいた。
「君が彼方さんの中にいたもう一人の少女…なのかな……?」
そんな先生が恐る恐るわたしに質問をしてきた。
「はい、わたしが『結以』です。多分」
「そうですか。では結以さんに伺いたいことがいくつかあります。まず、あまり焦りがないところを見ると…」
「はい、わたしはこの子の中から全て見ていました」
先生が言い終わるより先に答えた。
「今の状態はわたしがこの子の意識を一時的に奪ってしまっていると言っても過言じゃない状態なんです。わたしはあくまで彼方の中にいて彼方が見ているものを見るだけの存在であるべきなのに……」
「もし、わたしが彼方を精神的に追い込んでしまうようであればそれは許されることではないと思います。
わたしは彼方に幸せになって欲しいし由紀菜さんにだって心配や迷惑をかけたくない。
だからお願いします。
なにか対処する方法を教えてください」
「長期的な面で考えれば方法はいくつかあります。この方法はあまり焦らずに進めなければ失敗してしまうようなものです。
ですが、あなた方の場合、症例が特殊すぎて対処の方法が正しいのかどうか決め兼ねます。
一度脳の精密検査をしてみてもいいかもしれませんね」
このままじゃ彼方に辛い思いをさせるだけだ…。
なんとかしてあげたいのになんにもできない。それがとてつもなく辛い。
その日は泣きながら先生に頭を下げ続ける由紀菜さんと共に先生に挨拶をして病院を後にした。
わたしの中で眠っている彼方が心配だし、わたしや彼方の心配をして涙を流し続ける由紀菜さんのことも心配だった。
そして頭の中に過ぎる不安もある。
もし、このままわたしが彼方の全てを奪う結果になったらどうしよう。
そんなのは絶対に嫌だ。
わたしはこの子のことが大好きだし、愛している。本当に幸せになって欲しい。
もちろん苦しめたいわけでもなければ悲しませたいわけでもない。
家に帰りついたわたし達を迎えたのは清香さんや綾香姉さんじゃなくて大翔さんと剛さん、そして奏だった。
どうやら奏が高校受験に失敗したらしく二次試験枠の残っていたわたしや大和くんと同じ学校を受験するらしい。
県外に行きたがっていた奏は凄く落ち込んでいたらしい。
大翔さんはわたしを見るなり抱き着いてきたし、奏もわたしに泣きついてきた。
唯一、剛さんだけが由紀菜さんの様子に気づき、由紀菜さんを丁寧に家に上げていた。
わたしは家に上がり、由紀菜さんを寝かしつけた。
丁度いい機会だと思い、わたしは大翔さんや剛さん、奏に今日の診断結果のことやわたしと彼方のことを話した。
みんな驚いてたし、奏と大翔さんなんかわたしや彼方のことを心配してくれて泣きついてくれた。
剛さんはなんだか真剣に考えこんでいるようだった。
「そんなことがあったのか。それで、今彼方はどうしてる?」
「わたしの頭の中で眠っています。早く起きてくれないと不安で仕方ないんですけどね」
「彼方にそんなことがあったなんて……」
今日はみんな泊まっていくらしく、夜は奏に勉強を教えたりして過ごした。
大翔さんが寝て、奏が寝てわたしと剛さんの二人だけが起きている状態になった。
ふと剛さんがわたしの傍に来て肩を掴んだ。
「もう、我慢しなくていい。俺たちに話して聞かせてくれた時も奏に勉強を教えている時も尋常じゃないくらいに引きつった顔をしていたぞ」
そう言われてなにかが切れたように涙が溢れ始めた。
そう、わたしは不安だったのだ。
帰ってきてから今まで彼方が目覚めないのだ。いつもなら彼方が目覚める代わりにわたしは彼方の中に戻れていたはずなのにそれが無い。
このまま彼方が戻ってこなかったらどうしよう。どうすればいいのか分からない。そんな不安で頭がおかしくなりそうだった。
でも折角みんなが楽しそうにしているのにそんな不安をぶちまける訳ない。
そう思ってしまった。
剛さんが考えこんでいるように見えたのはわたしの我慢が見るに耐えなかったかららしい。
気づけばわたしは剛さんの膝の上で大泣きしていた。
「わたし、どうしたらいいんだろう…。彼方はこの晩のことなんて何も覚えてないままに明日を迎えるんです…。そんなの可哀想…」
「ごめんな。俺は何もしてあげられないからこんなことしか出来なくて。
でもきっと何か良い方法があるはずだ。なにか…そう…」
剛さんは何かを閃いたと言わんばかりに顔を明るくしてわたしの方を向いた。
「日記だよ…!お互いに日記を残すようにすればいい!
そうすれば記憶や実感はなくともお互いのことを伝えられる!」
「日記……」
「そうだ、日記だ。それにお互いであったことなんかを書き込んでいけばいい。そうすればきっと…」
そこまで聞いてわたしの意識が途絶えた。
ああ、良かった。彼方の全てを奪わなくて済んだ。
今日はこれで満足だなあ……
わたしは暗闇の中を歩く。
ちゃんと彼方とすれ違うことも出来た。
剛さん、あとはよろしくね。
暗闇の中から聞こえることのないお願いをする。
「彼方、わたしはあなたを愛してる」
そう告げ暗闇の中へと歩き続けた。
目を覚ましたら剛さんの膝の上で寝ていた。
涙をいっぱい流していたらしい。
ビショビショになったズボンを見てなんだか申し訳なくなってきた。
「おっ、起きたか。調子はどうだ?」
剛さんがそう聞いてきた。なんて答えればいいのやら。
「あの、今何時頃ですか?」
「今は24時を回ったとこだな」
やっぱりだ。
病院に行ってから帰ってきた記憶が無い。
病院で倒れて家に運び込まれたのだろうか。だから剛さんがここにいるのか?
まただ。
記憶が曖昧で朦朧としていて頭の仲がぐちゃぐちゃしている。
どうすればいいのか。
それすらも分からない。
とりあえずは今目を覚ますまでにどうしていたのかを聞くところから始めよう。
「私、病院から今までどうしてました?」
「んー、そのために聞いとかなきゃいけない事がある。
彼方はどこまで覚えている?病院に行ったことは覚えているか?」
「はい、病院で診察を受けて……
そこで意識が途切れた。
目が覚めると剛さんの顔があった。
なんで…?
「え、もう……?」
「どうした?」
まだわたしと彼方の切り替わりに気づいてないんだろうか。不思議そうな顔をする剛さん。
「剛さん、わたしだよ。結以だよ。
でもどうして……」
わたしがそう言うととても辛そうにして眉間を抑える。
思いつめたような表情で何かを考え込んでいるのだろうか。
「…っ!そうなのか……。
もしかしたら彼方はお前のことを思い出すとこうなるのかもしれないな…」
思いつめたような表情のままで辛そうにそう告げた。
「そんな……」
ならわたしと彼方は相容れない存在ということだ。さっき提案された日記だって彼方がわたしに宛てて文を書こうと思った時点で頓挫する。
こうなってしまったのも彼方がわたしのことを知ってしまったからなのだろうか。
もし知らずにいたなら……
そこでようやく気づいてしまった。
「……っ!!
待ってください剛さん、これはあなたのせいじゃないんです!!」
剛さんは自分を責めているのだ。
わたしの存在のことや過去のことを彼方に話してしまったことを……。
それは違う。
これはわたしと彼方の問題で他の人が気に病むようなことじゃないはずなのに……。
普段は泣かない剛さんが目を抑えながら泣き出した。
午前2時を回った頃だった。
由紀菜さんが目を覚まして居間に来た。
「いつまで起きているんですか?
早く寝ないと彼方が……」
そう言って剛さんの方を向いた。由紀菜さんはとても剛さんを心配した。
なぜ、そんな顔をして泣いているのかと。
由紀菜さんに事情を説明しようとした。
けれどそれがダメだと思った。
剛さんや大翔さんより先にわたし達に本当のことを教えてくれたのは由紀菜さんと清香さんだからだ。
きっと由紀菜さんだって自分を責めるだろう。
だからわたしは誤魔化した。
「ううん、少し昔話をしてもらっていただけなんですよ。
ごめんね、由紀菜さん」
「そう…」
呟いた由紀菜さんの顔はとても不安そうなものだった。
多分信じていないし、何かあったのだろうと疑っているのだろう。
ごめんなさい、由紀菜さん。
でも話してしまってみんなに責任を負って欲しくないから。
これはわたしと彼方がなんとかしないといけない問題だから。
剛さんがわたしの顔を見て何かを察したようにまた悔しそうな顔をした。
ごめんなさい、剛さん。
わたしは逃げるようにして寝ようと部屋に戻ろうと声をかけた。
「わたし、もう寝ますね。
おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
ぎこちない顔で言われる「おやすみ」は初めてだった。
この時のわたしはまだ知らなかった。
これが原因で壊れてしまう日々と人間関係のことを……。
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