第37話 聖女混乱
【王都アガディール・ハーディス辺境伯爵家・別邸】
日が傾き始め、風の肌寒さが気になり始める頃。
屋敷にある書斎、本棚に囲まれ、インク匂いが香る部屋で2人の少女が机に向かい合っていた。
「はぁ…」
ため息をこぼすのは、淡い紫のドレスに身を包んだハーディス家の養子であり【冥神の加護】を持つ人間国宝的な存在である聖女ニコ。
「ニコお姉さま?」
ニコの様子を心配するのは桃色のドレスに銀髪の髪を揺らすハーディス家の末っ子フィレット。
「ああ、ごめんなさいフィーちゃん気にしないで…」
フィレットに気づいたニコが薄く微笑む。
「いえ…それよりニコお姉さま体調が優れないのですか?」
「ううん、そんなことないよ」
「…ニコお姉様、ノーブルお兄様が来てからずっと変ですよ」
「そんなこと…はぁ…」
「ほら!やっぱり!いつも明るく!そして聡明なニコお姉様が…!」
「わわわ!大丈夫だから!…そのノーブルお兄様と久しぶりで何とお話ししたらいいか…上手く立ち回れなくて…」
「…それは何となく分かりますが…屋敷で初めてお迎えしたら、いきなりジャンテお兄様とケンカするし、お父様が止め無かったら庭が更地になってましたわ!非常識にも程があります!」
そう言って2人は窓から庭を見ると先日、ノーブルとジャンテがケンカ…というより、ノーブルが一方的に魔法でジャンテを追いかけ回した際に出来た穴だらけの庭がようやく埋め終わった様である。
「ノーブルお兄様の友人…を泣かせたジャンテお兄様が悪いと最終的に謝って解決したじゃない」
(友人…フィオ様のことなんだろうな…)
ニコは1年前のフィオとの出会いを思い出す。あれから社交ダンスに力を入れてみたが何か違う。筋が良いと褒められたが、あまり喜べなかった。
「それだけじゃありません!今日も朝食の後から行方不明ですよ!」
「書き置きがあったから行方不明というわけでは…」
ノーブルの部屋には【シベック夫妻の泊まってる宿に行って来ます。】とだけ書かれた紙が置いてあったという。
「付き人と護衛も無しですよ!?」
バンバンと机を叩くフィレット。
「う…うーん…ほら、ノーブルお兄様はお強いから」
「今日は兄弟でノーブルお兄様と親睦を深めようと舞台劇やお茶会のお誘いも断って屋敷に入るのに!?ジャンテお兄様なんか部屋で落ち込んでいますよ」
ノーブルと王都観光をしようと計画していたジャンテはシベック夫妻にその役目を奪われて部屋で落ち込んでいる。
「うん…確かに残念だったね…それにしても偉いねフィーちゃんは…この年でちゃんと勉強して」
フィレットはガルダ王国、ヒノ大陸で広く使われる言語の書き取りをしていた。
「もちろんです!学校に行っても【青い血】とバカになどされたくありません!」
フフンとドヤ顔をするフィレット。
「【青い血】か…」
ニコはフィレットが口にした単語に苦笑する。
貴族の【青い血】とは夜な夜な賭け事で遊び過ぎた貴族が顔を真っ青にすることが由来である。
物語では頭のキレる貴族の策略が上手くいった時に「青い血が流れている…」などとカッコ良く表現されたりもするが誹謗中傷の表現として扱われることが多い。
貴族学校っと言われているが、商会に近衛兵や秘書官など世襲貴族以外の職種の親を持つ子供は多くいる。
遊んでばかりで、特技といっても趣味で剣を嗜む程度の貴族の息子。刺繍やお茶会、夜会とお喋りばかりで動かない貴族の娘。そういった典型的なボンボンは学校で【青い血】と馬鹿にされるのだ。
もちろん貴族という環境を利用して、個を価値を高め国に貢献する者を存在するので全てが悪いとは言えないが、そういった傑物は少ない。
「そういうお姉さまも勉強してるではありませんか!」
ニコの前には古びた分厚い本が2冊。
「私?私のは勉強というより娯楽として読書だから、遊んでるのと変わらないよ」
「でも考古学や…えーと…よいしょ…地質学?の本って娯楽何ですか?」
分厚い本を重たそうに寄せて表紙の文字を読むフィレットは困った顔をする。
「うん、面白いよフィーちゃんも読んでみる?」
「うう…ま…また今度…でお願いします」
まだ母親に読んでもらう絵本が好きなフィレットは泣きそうな顔で断る。
そんな2人のいる書斎に声が響く。
「あら、2人ともここにいたの?フィレットちゃん、時間が空いたからこの前教えて欲しいって言ってた刺繍の縫い方教えてあげるわよ?」
書斎の入り口を通り過ぎようとしていた母ノルベから声がかかる。風通りを良くしようと出入り口のドアは開けっ放しにしていたのである。
「お母様!本当ですか!あっニコお姉様もご一緒にどうです?」
「うーん、私は本の続きが気になるからまた今度にするよ」
ニコは苦笑してフィレットの誘いを断る。
「そうですか…分かりました。ではお母様」
「あら、フィレットちゃんだけなの?」
「はい、お母様…私はまたの機会にでも…フィーちゃんが甘えたがっていたのでお譲りしますわ」
「ニコお姉様!?」
ニコからの思わぬ暴露に動揺するフィレットは顔を真っ赤にする。
「あらあら〜、そういえば私だけ【ノーブル捕獲作戦】に参加してたから先に王都に行ってたみんなには寂しい思いさせたわね…」
「【捕獲作戦】ってお母様が竜峰に行くのを止める代わりに【獣人族の村】で過ごしてただけじゃ…」
春の初めにノーブルが【獣人族の村】の手前である【春知らせの渓流】で見つかったという報告。
ハーディス家揃って【獣人族の村】に行きかけたが【冥王の爪】と【剣王】を放置する訳にも行かず、ノーブルの探索は無しになった。
それでもノルベは断固として諦めず、ストーンとシベック夫妻を護衛につけて【獣人族の村】に向かったのだった。
(私もお母様に着いて行きたかったけどなぁ)
「そうね、でも村で止めてなかったらまた何処にいるのか分からなくなってたから」
「本当に迷惑なお兄様ですね…今日だって書き置きだけで何処かに行ってしまったんですから」
「私兵団の諜報部隊からシベック夫妻と昼食の後にお茶をして観光しながら回ってると聞いているわ…羨ましい…」
ぐぬぬ…と悔しそうな顔をするノルベ。
「あっ…あのお母様、フィーちゃんとのせっかくの時間が…」
変な方向に意識が向かってるノルベを連れ戻すべくニコは声をかける。
「あっ、そうね、ではまたねニコちゃん」
「ニコお姉様また後で」
「はい、お母様もフィーちゃんもごゆっくり」
去っていく2人を笑顔で見送るニコ。
そして訪れる静寂。
「ふぅ」
ニコはハーディス家という身内でも自分を少し演じてしまうため疲れてしまう。
(シベックさんたちとお茶してたのかぁ…楽しそう)
実際はフィオにプロポーズされてお茶を殆ど吹き出していたのだが、ニコは知る由も無い。
(お茶会には行ったけど、同年代だけじゃなく、大人の女性もみんな私の顔を気味悪がって話にくそうなんだもんなぁ…)
【聖女】と公表してから令嬢からお茶会のお誘いは少なからずあった。しかし興味本意で一度見たら満足程度の扱いというもので、ニコにとって楽しいものでは無かった。
(初対面で普通に話しかけたのフィオ様くらいか…お母様も最初は驚いたけどノーブルのこと話してる内に打ち解けたんだっけ…)
フィオの価値観は閉鎖的な環境で育ったため【一般的】というものが抜けている。そのためニコの入れ墨を見ても「こんな子もいるんだ〜」くらいなのであった。それをフィオの優しさか器の大きさだと勘違いするニコ。
しばらく静寂の中でポケーとしていると何やら書斎の外から喧騒が聞こえてくる。
「ん?何だろう騒がしい」
ニコは本を閉じて書斎の出入り口に向かう。
「ノーブル様その格好は何ですか!?あっいやお似合いですが、何で炭だらけ!?一体何処に!」
「ノーブル様ぁ!?突然いなくなって召使い一同、顔面蒼白で首を斬られる覚悟をしたのですよ!」
「ノーブル様!お願いですからお世話を!?仕事なんです!手を動かしてない時の居心地の悪さ知ってます!?」
「分かったから!もう散って散って!…っと、おっ…ニコか」
多くの執事やメイドが阿鼻叫喚といった様子でズンズンと歩く眼鏡を掛けた商人風の少年の後を追っている。
「あっ…ノ…ノーブルお兄様?ですよね、御機嫌よう」
眼鏡と頭に巻いたターバンのせいで雰囲気がガラリと変わっているノーブルに驚きつつ声をかける。
「御機嫌よう?何その挨拶?まぁいいや、ほら!ニコと話をするから、その間に浴室使えるようにしといて」
そう言って手を振るノーブルに渋々といった様子で下がる執事やメイドたち。
「あの?何ですかその格好?眼鏡も…」
「うう…やっぱ似合わないかな?変装用にシベックの借りたんだけど」
「!?…いえ!大変お似合いです。印象が変わっていたので少し驚きましたが」
「そう?なら今後も使って行こうかな」
「え?…また、外に出る用事が?朝からいなくなっていて屋敷は大騒ぎでしたよ?」
「書き置きだけでは駄目だったみたいだな…夕食の時にでも事前に連絡するよ」
「はい、そうして頂けると」
「…ううーん…なんかニコの口調に違和感があるんだよなぁ、…まぁいいか?それより何読んでるの?」
「えっ…あの考古学と地質学に伝記なんかを少々」
「ふーん、地質学の本か…そういや沼地や湖の埋め立てとかどうするんだっけ…うん、面白そうだね?今度借りても良い?」
「あっ、はい!私の部屋にも置いてあるので取って来ますね」
「いや、急がなくて良いよ。先に【浴室】入ってくる。ニコも来る?話を聞かせてよ」
「えっ?あっ、はい」
「そ、じゃあ先に行ってる」
「はい……………………………………えっ?」
ノーブルは屋敷の奥へと消えていく。【浴室】のある【脱衣所】向かったのだろう。
「………………………………………………えっと【浴室】?」
(………えっ?)
ニコはただただポカンとノーブルの背中を視線で追うのだった。
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