第9講 これは詳細を省くが結論だけ言うと理性は死ぬ:残り五名

「織田さん! 織田さん! 早くして! ハリーハリーハリーアップ!」


来て早々、小雨は命の危機に瀕していた。

現在、彼は誰かの体温に包まれている。それはとても柔らかく、温かく、少し汗臭いながらもどこか安心する匂いがした。


そして、呼吸が激しい。興奮しているかのように息を吸っては吐いてを繰り返し、その吐息が首筋にかかるとゾクリと小雨の体が跳ねた。

その動きに反応し、体温の主が抱き着く力を少しだけ強くすると――


「ぎゃあああああ!」


ギシリとイヤな音を立てて、小雨の体中の骨や関節が悲鳴を上げた。下手をすれば柔軟なはずの筋線維まではじけ飛びそうだ。

そして、すぐにその力は緩む。先ほどからこれの繰り返しだ。


「霊院! やめてくれ! 頼むから抱き着くのをやめて……いや最悪の場合、抱き着くのは構わないんだけど、たまに万力みたいに力を強くするのはやめて! 本当に!」


この体温の正体は、滝だった。彼女は今、小雨に対して全力で抱き着いている。理由は恐怖感を薄めるためだ。

視界がほぼ遮られる真っ暗闇の中、竜子は疑問が滲んだ声を出す。


「……どういうこと?」

「ま、真っ暗闇です! 霊院は暗所恐怖症だから、視界が遮られるほどの暗闇に耐えられないんですよ!」

「いや、そっちも気になるのは確かなんだけども。どうして真っ暗闇になってるの?」


その問いに答えられる者はいない。

少なくとも、小雨と滝が通り過ぎたとき、この階層にはまだ明かりがあった。それが大穴から侵入してみれば、世界を真っ黒に塗りつぶしたような、歩くのにも苦労する暗黒。

侵入口である大穴からの光源は、そもそも外が夜なのでほとんど期待できない。


当然、暗がりを怖がる滝は小雨に抱き着き、一歩も動けなくなってしまった。それどころか小雨が少しでも自分から離れる素振りを見せようとすると、重機じみた力をかけてそれを阻む始末。

更に、さきほどから声を一言も発していない。息遣いは聞こえるのだが。


「あれー。参ったなー。カンテラって火を付けるのにこんなに手こずるんだなー」

「早く! 早く織田さん! 助けて! 助け……ぎゃあ!」

「あんまり急かさないでよ」


盗んできたカンテラに火を付けようとする光秀は、のんびりしている。まったく急いでいる様子がない。かなりマイペースだ。

だが、そんなことをしている間にも滝の抱き着きは小雨の体に甚大なダメージを与えていく。

どうにか彼女の恐怖心を、別の何かで気を逸らして和らげることはできないかと考え、必死に口を開く。


「れ、霊院! 当たってる! 当たってるから! ていうかお前見た目よりも凄いおっぱい! わーい!」

「クソ最低スケベ野郎。死ねば?」


この声は滝ではない。竜子のものだった。

彼女の不愉快に眉を潜めた顔が幻視できるような冷たい声だった。体の痛みと心の痛みのダブルパンチで泣きそうになる。


「ごめんなさいッ! 俺が軽率でしたァ! でも本当さっきから内臓が口からデロッと出そうなくらいの力だから、こっちも必死なんですよ!」

「……そういえばあなた名前で呼べって言われたのに、さっきから呼び方がさっきと同じね」

「え?」


話題が変わったことに面喰ったが、竜子は構わない。


「お願いなら名前で呼んだ上で、かみ砕いて言い含めるようにゆっくりと言ってみて。根気強く」

「あ、ああ?」

「あと悲鳴も抑えて。優しい声で。彼女の呼吸のリズムを意識して……」

「……え、えーっと……うぐっ」


また抱き着く力が強くなったが、ひとまず竜子の言う通り、口の中を噛んで声を出すことを最低限耐える。


「れいっ……滝。ちょっと落ち着いて……な?」


滝は無言だ。しかし、呼吸のリズムが先ほどとは微妙に違うことに気付く。耳を傾けているようだ。


「大丈夫。俺は離れないから。だから無理に拘束しなくってもいいからさ」

「……おう」


――あ、喋った。

竜子の言う通り、滝の呼吸音に注意していると、何故か小雨自身にも余裕が出てくる。抱き着く力の急激な増加もなくなったので、ひとまずもう大丈夫そうだ。

ただし、それは滝が小雨を壊す心配がなくなったというだけで、こうやって余裕が出てくると別の問題も出てくる。


「……はっずい」


手を繋ぐくらいなら妹相手で慣れているのだが、流石に家族ではない女性に抱き着かれるのは慣れも何もない。

段々と顔が熱くなってくるのを感じる。女性の体特有の柔らかさを意識すると、特に。

暗闇なので、視覚以外の五感が鋭敏になるのもよくない。彼女の鼓動までもがダイレクトに小雨の体に響いてくる。


「おっ、ついたついた」


カンテラにやっとのこと火が灯り、船室が明るくなる。

浮かび上がるのは無邪気に喜ぶ光秀の笑顔、腕を組んで少し呆れた顔になっている竜子、そして小雨に抱き着いている青い顔の滝だ。


「た、助かった……本当に怖かった……!」

「……もしかして、これ」


竜子がその様子を見て、何かに思い当たったように光秀に顔を向ける。彼は竜子が何に気付いたのかを察し、頷いた。


「間違いないな。あの参加者が、この階層のマジックアイテムを潰したとは思えないし」

「……どういうこと?」


小雨が訊くと、光秀は言いにくそうに頭を掻いた。


「いや……この階層の明かりを落としたのはキャプテンって可能性があるなって」

「えっ」

「今のアイツにとっての一番の脅威は、そこの嬢ちゃんだろう。彼女が暗闇の中ではまともに動けないってことに、どこかの時点で気付いたんだ」


竜子は悔しそうに歯噛みする。


「瞬間移動のアドバンテージを投げ捨ててまで……か。意外にクレバーね、あの船長」

「クソッタレ。完全に手の内が読まれてるってわけかよ」


そう言う滝は尚も小雨に抱き着いたままだ。身動きが取れないので、そろそろ放してくれるとありがたいのだが。

視線を滝の顔に向けていると、彼女は小雨のことをジロリと睨む。


「おい。今、さっさと離れてくれないかなーとか思ったか?」

「いや、思ったっていうかまさにそう言おうとしてたんだけど……」

「断る! この状態を維持できなくなったら私は死ぬぞ! 恐怖で! そうなったらお前責任取れんのかコラ! うちのパパとママの老後の面倒見てくれんのか、アアン!?」

「いやもうカンテラが点いてるから大丈夫じゃん!」

「あんな明かりで安心できるか! 八十万カンデラくらいになってから出直してこい!」

「灯台だそれはッ! 目が潰れるぞ!」

「……私だって恥ずかしいんだぞ。なんだよ、おっぱいがどうとかって……」

「それに関しては誠に申し訳ございませんでした!」


そんな二人の応酬を白い目で見ていた竜子は、唯一まだ話ができる光秀に再び視線を投げかける。


「どう思う? あの二人、まだ使い物になるかしら?」

「さてなぁ。オジサンにはどうとも……ただ相手が嬢ちゃんを警戒しきっていることは確かだ。裏を返すと……」

「制限時間を待たずに、真正面から私たちを殺しつくす気満々ってことでしょう?」


向こうからこちらにやってくる以上、制限時間に関しては考えなくても問題はない。懸念材料はこの時点で、実質『船長に殺されること』のみだ。


「冥砂サン心理学専攻でしょ? 催眠術とかで恐怖感を薄れさせることできない?」

「行動心理学。悪いけど、あれリラックスしている相手じゃないとまともに使えないし、使ったこともないのよね。第一、催眠療法で治るのなら世界中の特異的恐怖症患者は今ごろ消えてるわよ」

「それもそうだ。困ったなァ。このままだと、あの人質さんすぐに死んじゃうよ」


光秀の言葉を聞いた滝の呼吸が止まる。

今まで恐怖で記憶から消えていたようだが、光秀の言葉で思い出したようだ。

滝は小雨との会話を打ち切り、ゆっくりと体を放した。


「……行かなきゃ。私がやらないと、人が死ぬんだ……」


それはあまりにも悲壮な決意だった。見ている小雨の中に苦い感情が産まれるほどに。

唇は青白く、体は細かく震えていて、足は今にも崩れ落ちてしまいそうだ。


「甲板に叩き込めば全部終わりなんだ。ちょっとの間くらい恐怖感なんて我慢すれば……」


恐怖している滝本人はそう言うものの、傍目から見ても絶対に不可能だとすぐにわかる。

竜子と光秀が目を見合わせ、揃って肩を竦めるのも時間の問題だった。


「……オジサンたちがやる」

「あなたはよくやってくれたわ。船内に入る別ルートを作ってくれただけでも大金星よ。新規にしては上出来」

「えっ」


滝が何かを言う前に、二人はぐるりと踵を返し、船室の出口へと向かう。


「まあ、先輩たちに任せておきなって」

「あの骸骨野郎を徹底的に叩きのめしてやるわ」

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