Ⅱ.(3)事情
銀座には、優が以前働いていた店がある。
彼の師匠が、まだバーテンダーをしている。その師匠には蓮華もカクテルを習ったことがあり、『J moon』と似た、ジャズのライヴを週に数回行っている。
師匠が休みのうちに行こうと、蓮華が言い出した。奏汰も楽しみにしていた。
*
バー『
「待ち合わせですか?」
長い、赤茶色のストレート・へアが揺れ、女が顔を上げる。
「優さん……?」
私服姿ではあるが、人好きのする穏やかな笑顔で、手を上げたのは、『J moon』で見慣れているバーテンダーの優だった。
「今晩は、明日香さん」
紺色のシックなワンピースと、いつもよりも小振りなアクセサリーを身に付けた、蓮華の友人、脚本家の明日香であった。
「偶然ですね、お仕事の帰りですか?」
「ええ、まあ」
「ここ、僕の師匠のお店で」
「あら、そうだったの?」
「はい。師匠にというより、ここで働いてる友達に会いに来たんですが、休みだそうで」
「そう。待ち合わせじゃないのなら、隣、どうぞ。私もひとりだから」
明日香に促され、優は、彼女の隣に腰かけた。
「今日は、ダーリンはどうしたんですか?」
「マークは仕事でドイツに行ってて、しばらく日本には戻らないの」
「そうですか。だから、どこか元気がない感じがしたんですね」
「さすがね。バーテンダーの観察眼には見抜かれちゃったかしら?」
明日香は、『J moon』でのいつもの強気な態度ではなく、困ったように笑った。
「彼がいないのもあるけど、仕事でも嫌なことがあってね」
「差し出がましいようですが、僕で良かったらお聞きしますよ」
「優さん、今日はプライベートでしょう? 仕事させてるみたいで悪いわ」
「構いませんよ。明日香さんの友人として聞きますから」
明日香は、「ありがとう」と言って、控えめに微笑んだ。
『Limelight』を出た二人は、駅に向かう間も話を弾ませていた。
「今日は、ありがとう、愚痴聞いてくれて」
「あんまりたいしたことは、言ってあげられませんでしたけど」
「そんなことないわよ、助かったわ! 仕事で関わる人もプライベートでも男女関係なく、私のこと強い女だと思ってる人が多いのに」
優の目が、やさしくなる。
『J moon』での彼とは違う類いのやさしさだった。
「ただ強いだけの人間なんているわけないのに。そんなことも見抜けない人たちは、放っておいたらいいんです」
明日香が笑い出した。
「プライベートだと結構辛口なのね。ドライマティーニみたい」
「自称ギムレットなもので」
にっこり、優が笑った。
「ギムレットが出て来る小説は読んだことはあるけど、飲んだことはないわ。どんな感じなの?」
それは、カクテルにだけではなく、目の前の男に向けられた言葉だった。
「試してみますか?」
あたたかい視線から、明日香も目を反らさない。
長い指が、彼女の顎をやさしく持ち上げると同時に、瞳は閉じられていく。
明日香の腕が、優の背を抱えた。
*
バー『Limelight』に向かう途中の、奏汰と蓮華は立ち止まった。
「あれ? 優さん?」
女の方も見覚えがある。『J moon』常連客であり、蓮華の友人である脚本家だ。
奏汰にしてみれば、『魔性の女』と異名が付くのも頷けるほどのフェロモンを常に振りまいている印象が強い。
長身の男と赤茶色の長い髪の女が抱き合う姿が、外国映画のワンシーンのようでカッコいいと思った奏汰は見蕩れていたが、蓮華の方は特に反応はしなかった。
その後、『Limelight』で二杯だけ飲むと、奏汰と蓮華は、それぞれの自宅へと帰っていった。
翌日の仕事後に、優が切り出した。
「蓮ちゃん、今日、なんか変だよ。どうかしたの?」
優は、プライベートな会話の時は、蓮華のことを「蓮華さん」ではなく、「蓮ちゃん」と呼んでいる。
百合子から聞いた通り、付き合いの長い友人同士だというのは本当なのだろう。
片付けを装いながら、奏汰は二人の会話に耳をそばだてる。
「もうっ、相変わらず鋭いわね!」
蓮華は横目で優を見た。
「昨日、優ちゃん、銀座にいたでしょ? ある女性と、かなり親密だったようで」
面と向かって切り出した彼女に焦ったのは、奏汰の方だった。
優は、特に言い訳をする様子もない。
「ああ、明日香さんとね、たまたま『Limelight』で、一緒になったんだ」
「へー、明日香ちゃんがあたしの友達って知ってても、たまたまで、ああいうことするんだ?」
奏汰はヒヤヒヤするが、優は悪びれることもなく笑った。
「なんだ、見てたのか。声かけてくれれば良かったのに」
「こっ、声なんか、かけられるわけないでしょっ!」
「それで、それが、どうかしたの?」
「だって、明日香ちゃんにはマークってアメリカ人の彼がいるんだし、あたしとも友達だし……、優ちゃんは、あたしの仕事仲間でもあるんだから、その……」
言葉に詰まる蓮華を、優は表情も変えずに見る。
「そういうこと言うのって、蓮ちゃんらしくないよ。きみの恋愛観は、常識にはとらわれていなかったはずだよ?」
「そ、そうなんだけど……」
口の中で言葉を飲み込んだ蓮華は、そっぽを向いた。
「私のようなお嬢様には、優ちゃんのヘンな恋愛観なんか理解できないわっ!」
「えっ!? おじょう……!?」
優が目を丸くしている間に、蓮華はツンツンしてそこから離れていった。
奏汰と蓮華が二人になっても、どちらとも話を切り出すことはなかった。
蓮華が優とは十年間友人関係にあったと、百合子から聞いていたが、実は、友人以上のものがあるのではないかという百合子の説が、一気に浮上したように、奏汰には思えていた。
優は女性受けが良いばかりでなく、男の奏汰から見てもやさしく、貴公子のようであり、人間的な魅力があった。
その彼と、十年もの間、友人として付き合いのあった蓮華は、彼の良さを奏汰以上にわかっているはずだ。
蓮華は、これまでになかった感情に、戸惑いを感じているように、奏汰には見えた。
いったい、私は、どうしてしまったのかしら?
魔性の明日香ちゃんの奔放な恋愛も理解してたつもりだったし、今まで、優ちゃんの恋愛沙汰を見てきても、なんとも思わなかったのに……。
なぜ、今、自分は、こんなにも動揺しているのか。
――と。
やっぱり、本当は、優さんのことを……?
一番、認めたくない答えが返ってきそうで、訊くに訊けない。
自分など、彼女にしてみれば、一時的に可愛がられている存在なのではないだろうか。
またしても、自信を失いそうになった。
自分の思い過ごしであるようにと、願う。
そのうち、蓮華が、たあいのない話をするが、優のことには触れなかった。
「それにしても、優ちゃんの作る酒は美味いよなぁ!」
吉祥寺でのレッスンが終わると、橘が思い出したように言い出した。
ベースをケースにしまっていた奏汰が、すぐに顔を上げる。
「先生、優さんのことも知ってるんですか?」
「ああ、知ってるよ、もう十年以上経つかな」
「十年!?」
食い入るような目で、奏汰が、おおらかな中年である橘を見る。
「じゃ、じゃあ、蓮華ママと優さんのことも……」
「ああ、二人とも知ってるよ。俺がよくライヴに出てたジャズスポットでバイトしてたのが優ちゃんで、蓮ちゃんは、俺の教えてた音楽学校の生徒で、弟子だったんだ」
まさか、こんなところに、二人の事情を知る者がいたとは!
灯台下暗し!
「音大生だった優ちゃんが、ジャズに転向して学校中退して、カクテル作るバイトしながらジャズピアノ弾いててな。そのうち、俺にも習うようになってさ」
「先生、ベースもジャズオルガンも教えてて、ジャズピアノまで教えてたんですか?」
「蓮ちゃんもだけどボーカルも習いに来る子もいるし、まあ何でも屋だよ。ほら、理論は同じだから」
笑い飛ばす橘を、奏汰は尊敬の眼差しになって見ていた。
「ライヴで、優ちゃんのピアノに乗せて、蓮ちゃんが歌ってた時もあったんだぜ」
「優さんとママが?」
「俺のライヴに生徒たち呼んで、年近い優ちゃん紹介してさ。最初から気が合ってたから、『お前ら二人で店やれば? 俺がお客になってやるよ!』って言ったんだよ」
「先生が提案したんですか!?」
「そ!」
誇らし気に、橘が笑った。
「蓮ちゃんのおじいさんが、あのビルのオーナーってのは知ってるだろ? あらゆるジャズスポットとかバーに現れて、ジャズが好きな気のいい人でな、俺も仲良くさせてもらっててさ」
奏汰は、訊きたくなる気持ちを抑えられなかった。
「あ、あの……! ママと優さんて……付き合ってた……とかは……?」
「う〜ん……、ないな」
「ホントですか!?」
「俺が見たところ、あれはないな。あったら、一緒に店はやらないと思うぜ」
「そ、そうですか」
表情をそれ以上変えないよう奏汰が努力するのには構わず、橘が付け加えた。
「今後はわかんないけどな」
*
『J moon』では、閉店後、従業員たちが帰った後で、蓮華と、まだバーテンダー姿の優が、何気ない会話をしていた。
「今日のサックスの子、いいフレーズ吹くようになったよね」
「そうですね」
「優ちゃん」
「はい」
蓮華が、キッと、睨むように、彼を見上げた。
「あたし……、優ちゃんを、誰にも取られたくないわ」
はっきりとした、強い口調であった。
「蓮ちゃん……?」
目を丸くしていた優は、そのうち真面目な表情へと変わり、蓮華に向き直った。
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