葵の幽霊屋敷調査



「『中村邸』で幽霊を見た、ねぇ……」


 葵さんが缶ビールでごくりと喉を鳴らしながら言った。

 荒巻会長はテーブルから身を乗り出し本気の剣幕を葵さんに向け、


「まじなんだよ。おれだけじゃなくて美善や生野だって見てる。屋敷の右側の二階の真ん中の窓だ。そこに一瞬だけ人の顔が映ったんだよ。幽霊がこっちを見ていたんだよ!」


 己の感じた恐怖を包み隠さず荒巻会長は力説した。『中村邸』へ向かうことにした発端からその顛末までを。

 あの後、おれたちはすぐさま旅館に戻った。それから荒巻会長が白本さんたちに自分たちが見たものを吹聴し始め、葵さんが帰ってきてからも興奮が冷めないようである。


 葵さんは呆れたように嘆息し、


「お前、よく警察官に自分が不法侵入したことをそんなに力強く語れるな」

「美善と生野は俺が巻き込んだ。だから全面的に俺が悪い。そんなことより――」

「いえ、私です。私が会長と生野さんを無理やり敷地内に引き込んだんです。だから私の罪です」

「美善、気持ちはありがてえが、いまは不法侵入のことはどうでもいいんだ。そんなことより葵さんはこの前『中村邸』に関係がある何かしらをやったんだろ? その話を聞きてえ」

「いや、どうでもよくもそんなことでもないんだが、まあいいか」


 いいのか。

 缶ビールを飲みきった葵さんはつまみの焼きにんにく箸を伸ばし、


「確かに、あんたたちがきた前日の夜、私は『中村邸』に入ったわ。もちろん仕事でね。屋敷の右側の二階の真ん中の窓に人影が見えた、っていう通報があったからよ」

「え、それって……」


 白本さんが反応した。


「正宗たちが幽霊らしきものを見た部屋とおんなじ場所ね。やれやれ……幽霊なんて信じてないけど、流石にこうも相談が続くと幽霊いる派に傾きそうだわ」

「流石にこうも、ってことは他にも警察に幽霊の情報が入ってきてるの?」


 雪村さんが小首を傾げた。


「まあな。人影を見たって話や物音が聞こえてくるって通報が最近よくくるんだ」

「ほえぇ……お兄ちゃん、ひったくり目撃したり幽霊見たり色々と忙しいね」

「生野君呪われてる説が現実味を帯びてきたわね」

「自分でもちょっと認識し始めてるから言わなくていいよ二人とも」


 ため息を吐きながら妹と萩原さんにつっこんだ。果たしておれは、生きているうちにあと何回こういうできごとに巻き込まれるのだろうか。


「葵さん、『中村邸』に入ったときのことを話してくれよ」

「聞いてどうすんのよ」

「幽霊の話を聞くのに理由なんかねえよ。気になるから聞かずにはいれないんだよ」

「何よそれ。……でも、まあ、いいわよ。実は私も気になってたのよ、あの夜のこと。結構不可解なのよね。けど白本ちゃんに聞いてもらえれば何かわかるかもしれないし」

「わ、わたしですか」


 不意に活躍を期待されて驚いたのか白本さんから声が漏れた。


「一昨日の冴えを頼りにしてるわよ。それじゃ、初めから話していくわね」



 ◇◆◇



 葵が勤めている交番に通報があったのは夜の八時ごろだった。本来ならもう既に帰っている時間なのだが、連続ひったくり犯が捕まっていなかったため、所轄に今週の勤務時間を延ばされてしまったのだ。


 葵は傍迷惑なひったくり野郎だとか、とっとと犯人を捕まえろや所轄署がとか、心の中で悪態をつきながら先輩の緑川みどりかわと地理の授業で出てくる格好いい単語を言い合っていた。といっても、お互いタイガとフィヨルドを一個ずつ言っただけで弾が尽き、どうしたものかと悩んでいたときであった。


 デスクの上に置かれた電話が鳴り出したのである。


「またひったくりですかね」

「どうだろ。これまでは暗い時間帯に事件は起きてないけどな」


 緑川の受話器を取った。交番名を名乗り、事件か事故か尋ねた。


「どちらかというと事件、ですか。どうされましたか? ……『中村邸』、ですか。はい、存じております。……『中村邸』の窓に人影が映ったと。はい、わかりました。いつごろですか? ……いまですか。……屋敷を見張ってるから、早くきてほしいと?」


 警察官としてあまりこういうことを思っては駄目なのだろうが、葵は正直面倒なことになったと思っていた。

 緑川が受話器を戻した。


「また『中村邸』で幽霊騒ぎですか?」

「みたいだ。これで七、八件目だな」

「どうしますか? いくんですか?」

「そりゃ、いくしかないだろ」

「鍵はどうするんです? あそこって確か鍵かかってましたよね。私中学校のとき忍び込もうとしてがっかりした思い出があるんですよ」

「この近くに亡くなった中村さんの弟が住んでる。鍵は確かその弟が持ってるはずだ」

「じゃ、いってらっしゃい」


 緑川は目を剥いた。


「ええっ! 俺一人でいくのかよ」

「だって誰か交番にいなきゃいけないでしょ」

「そうだけどさあ。警察官は二人一組で行動するもんだろ」

「ただ単にドリさんが怖いだけじゃないでしょうね?」


 ちょっとからかってみた。


「なっ、そ、そんな、わけが、ありますかいな! こ、怖くなんかないもん!」


 存外面白い反応が返ってきた。図星らしい。

 ちょうどこのとき、緑川にとっては幸運なことに巡回に出ていた同僚二人が交番に戻ってきた。緑川はこれ幸いとばかりに、戻ってきた二人に『中村邸』に向かうことを伝え、無理やり葵を引っ張り出した。




 交番から徒歩五分ほどの場所に住んでいた『中村邸』の現在の保有者、中村あきらに事情を説明して鍵を借り、二人は急ぎ気味に『中村邸』へ向かった。


 通報者の中年女性、田中たなかともえは『中村邸』の正面玄関を監視できる電柱(先ほど亨たちが隠れていた場所)の裏で玄関を見張っていたようだった。


「遅いじゃないのぉ! 私一人ですっごく怖かったんだから」

「申し訳ありません。それで人影はどうなりました?」

「わからないわ。とりあえず玄関からは出ていっていないわ」


 巴は自分が人影を目撃した際のことを話始めた。近くのコンビニに飲み物を買いにいった帰り道、屋敷の右側を歩いていた巴は何の気なしに屋敷を眺めていた。すると、三つあるうちの真ん中の部屋で一瞬だけ人影が見えたのだという。最近の幽霊騒ぎを知っていた巴は内心恐怖を感じながらもその場で警察に連絡し、自らは電柱の裏に身を隠して玄関を監視していたらしい。


 葵と緑川はひとまず電柱に巴を残し、彼女が人影を見たという屋敷の右側へ回り込んだ。

 緑川は懐中電灯を握りしめた手を震わせながら屋敷の上部を照らす……のだが。手が小刻みに震えすぎて光が窓へ定まらない。


 それを見続けていても楽しそうだったが、これでは一向に進まないので、葵は緑川か懐中電灯を奪い取った。


 葵は下がれるだけ後ろに下がり、白い光を三つの窓に次々と向けていった。しかしいずれの窓にも闇以外のものは映らない。室内に光が届いていないのだろう。


「じゃあ中に入りますか」

「え、まじ?」

「そりゃまじでしょう。何のために鍵借りてきたんですか?」


 葵は門扉の前までとって返した。レバーを引くと、静謐に満ちていた周囲にギゴーという不快な音が響いた。

 葵が敷地内に入ると緑川もびくびくしつつその背中を追った。二人はともに屋敷の鍵の開いているところがないか、探りながら周囲を一周した。


「どうやら鍵の開いてるところはないっぽいですね。私の子供のときから開いてませんでしたけど」

「そ、そうだな。それから、塀を飛び越えて出入りした人物もいなさそうだ」

「どうしてわかるんですか?」

「塀際に雑草がたんと生えてるだろ? だけど踏まれた形跡のある雑草はなかったんだ」


 葵は懐中電灯を左右に交互に向けた。この屋敷の塀の傍には雑草が好き放題伸びている。雑草を踏まずに塀を上り下りするのは確かに無理そうである。


「けど、それがどうかしたんですか? 誰かが入るにしても門扉を乗り越えればいいだけの話じゃないの?」

「そうだよ。だけどさっきまで田中さんが玄関を見張っていたんだ。田中さんが見た人影が人間のものだったら、その人物はまだ屋敷の中にいるということさ。幽霊の場合は知らないけど」


 絶妙な冴えを発揮した緑川に葵は感嘆する。普段は割と頼りないし、いまもどちらかというと頼りない緑川の秘められた能力を垣間見た気がした。


「それじゃ、いきますか」

「ええ……。じ、じゃあ、俺は外で誰か出てこないか見張ってるから、柏木が一人でいっきてくれよ」

「警察の二人一組って言ってたのは誰でしたっけ」

「何を言う。コンビプレーじゃないか。俺は誰かが屋敷から出てこないか、この敷地内を回りながら見張ってるよ」


 葵はため息を吐いた。仮にも女性を誰が潜んでいるやもしれない屋敷に一人で送り出すというのは、男としてどうなのかと葵は思わないでもなかったが、ここで問答していても時間が経つだけであった。そもそも葵はさして恐怖を感じていない。


 緑川から鍵を受け取った葵は錆ついた鍵穴に差し込んだ。しっかりと開いてくれるだろうかと不安になったが、多少固くなっていただけで簡単に解錠することができた。


 目の前を懐中電灯で照らす。面積はあるが靴や傘立ての欠如により寂しい玄関と横幅あるの廊下が広がっていた。葵は扉を閉め、真っ暗闇に一筋の光を当てながら歩き出した。


 玄関で日本人の習慣のため靴を脱ぎかけたが、荒れ放題な廊下を靴下一枚で進むのは流石に危ないので、すぐに思いとどまる。


 靴を履いたまま廊下に足を乗せた。ギィっと木製の床が軋む。

 廊下の左右を明かりで照らした。右側に一つ、左側に二つ(うち一つは折れ戸)の扉があった。そして廊下の先には大きめの扉が一つ。


 葵は躊躇することなく一番手前にあった折れ戸を開いた。いまは何も入っていないが、どうやらシューズインクローゼットだったようだ。


 お次はその奥にあった扉を開ける。三畳ほどの面積の部屋があった。しかし何も置かれていないためどんな用途の部屋なのかはわからない。


 葵は懐中電灯を床から目の前に向ける。浴室扉があった。とするならば、ここは脱衣室なのだろう。


 葵は浴室の中も見てみた。床のタイルのいたるところにカビが生えていて不快だったが、とりあえず広い浴室やバスタブの中には誰もいなかった。


 今度は右側にある扉の前へ立った。葵はトイレだろうなあ、と思いながら扉を開ける。トイレだった。


 葵は廊下にある最後の大きな扉の中へ踏み入る。ただっ広い空間が広がっていた。家具が何もないので予想しかできないが、おそらくここは広さや位置から考えてリビングだろうと読んだ。懐中電灯をあちこち向けると、葵から見て部屋の左側にキッチンらしきものがあったので確信した。


 葵は扉を閉め、リビングの全体像を心許ない光で明かしていく。葵が出てきた扉の正面――すなわち部屋の奥――に扉があった。そして部屋の右側にも……。


「扉だらけかこの家は」


 と葵は思わず呟いてしまったが、よく考えれば旅館である我が家も扉だらけであったと思い至った。

 階段の左右には二階へ続く階段がある。


「どんだけ広い家なのよ」


 葵はそう呆れたが、よく考えてみるとこれまた旅館である彼女の家も大きいのであった。

 とりあえず各扉への散策は後回しにして、この部屋を詳しく調べることにした。


 懐中電灯で探してみた限り、ここに物影など人が隠れられそうな場所はなかった。キッチンへ向かう。戸棚という戸棚を開けてみたが特に何もない。


「やっぱりこんなとこには隠れないか。……というか幽霊も不法侵入者もいるとは思えないんだけど――」


 そのとき葵は背後から視線を感じた。

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