侵入者の正体【解決編】



「一つ確認しておきたいんだけど……」


 剣也が指を一本立てた。


「白本さんは、この事件のどの範囲までわかったんだ? 俺がさっき頼んだ範囲は――」

「たぶん全部解けたよ」


 白本さんの声が被さった。


「全部って……犯人から侵入した方法、動機すべてがわかったってことか?」

「うん。まあ、証拠とかはないんだけど、この不可解な現象を倫理的に説明することはできるよ」


 マジですか……。なぜあれだけでそこまでわかるのだろうか。トリックや動機はまだしも、犯人までわかるものなのだろうか。容疑者は何百人もいるというのに。


「まず事件の確認をするね。二人が部室にいくと本来は開いているはずの鍵が掛かっていた。朝集まったときは誰も鍵を掛けていかなかったにも関わらず。おかしいと思いながらも浅倉くんは職員室に走った。その間、生野くんは部室の前で待っていたけど、特に変わったことはなかった。ここまでは合ってるよね?」


 ふわふわした口調は変わらずとも、すらすらと淀みなく言葉を紡ぐ白本さんに、おれたちは呆気に取られつつも頷く。


「その後、浅倉くんが戻ってきた。貸し出し名簿に誰の名前も書いてなかったことを不審に思いつつ中に入るけれど、窓に三科さんのスマホが立てかけてあること以外に変わったところはなかった。二人が鍵のことについて検討していると、三科さんがスマホを回収しにやってきた。その彼女から、鍵は一時限目が終わった直後に事務員の小室さんが掛けたものだと聞いた。なあんだ、と思ったのも束の間、朝にはなかったボタンを発見して、誰かが忍び込んだのだと判明した」


 ここでいったん言葉を切ったが、白本さんの事件整理は尚も続いた。


「東棟四階は人がめったにこないから、生徒が授業を抜け出して侵入するとは考えにくい。しかし、その時間に犯行可能だった教師はいない。鍵も誰も持ち出していない。そしてそもそも、日本歴史研究会の部室に侵入する理由がわからない……こんな感じでいいかな?」


 おれと剣也は無言で頷いた。白本さんがこんなに喋るとは思わなかった。

 白本さんは白く細い指を一本立てる。


「この事件の中に一つだけ、決定的におかしなことがあるんだけど、わかる?」

「……いや、どこもかしこもおかしいことだらけなんだけど」


 剣也が頭を掻きながら困惑したように言った。白本さんは苦笑し、


「確かにそうだね。……ちょっとだけ訂正すると、決定的におかしな証言があるんだよ」

「おかしな証言……」


 おれは腕を組んで考える。そこまで大勢の人に聞き込みをしたわけではないから、すぐに思い当たった。おれが最初に聞いたとき変だと思ったことだ。


「三科さんのスマホの件かな? 朝に忘れたスマホを放課後取りにくるなんて、と思った。しかも、やっぱりここにあった、って言ってたから場所の見当もついてはずなのに……。スマホがないのにいまのいままで気づいていなかったっていうのは、流石に無理があると思うし」


 昼休みくらいにでも、スマホをいじろうと思うだろう。

 剣也も同意し、


「それから、スマホを窓に立てかける癖ってのも気になるな。まあ、奇癖なんて、大なり小なり誰にでもあるかもしれんが。うちの一番上の妹も、カレーをルーから食べるし、ラーメンもスープを飲み干してから食うからな」


 白本さんは微笑を浮かべる。


「確かにそこもおかしいところだね。けど、それ以上に、もっとおかしいことを言ってるんだよ。三科さんは部室に鍵が掛かってたことを知っていたんだよね?」

「そりゃあ、本人が言ってたからな」

「だとしたら、な?」


 はっとした。おれも剣也も息を詰める。そういえばそうだ。おかしいじゃないか。

 おれの思考はぐるぐると巡りに巡っていたが、剣也はやや冷静に口を開いた。


「いや、たぶん鍵を取りに職員室にいったんじゃないかな? けど鍵は俺が持ってたから借りられなかったんだよ」

「いや、それはおかしいぞ、剣也」

「へ?」


 剣也の反論に対して、おれは素早く言い放った。白本さんがおれを見て微笑む。


「そう、生野くん言う通り、それは変なんだよ。鍵を借りようとすれば、当然簿だよね? それなら、浅倉くんが鍵を借りているのがわかったはずなのに、三科さんは他の部員はおろか、浅倉くんもいないと思ったって発言をしてるんだよ? 彼女が鍵を借りようとしていればそんなこと言うはずがない」

「た、確かに……。いや、でも小室さんが鍵掛けてたことを忘れてたから、鍵を借りようとしなかったとも考えられるんじゃないか?」

「三科さん、そのことを忘れてた風だったの?」


 そう尋ねられた剣也は口ごもった。思い返すかのように腕を組んで天井を仰ぐ。


「忘れてた感じは……しなかったな」

「というか、剣也が変なことがあった、って言った直後に自分から言ってたからな。先回りしたみたいに」


 彼女のあの受け答えを鑑みるに、とても直前まで忘れていたとは思えない。

 白本さんは言う。


「忘れていたと仮定したらスマホの件の不自然さが残るんだよね。不自然なところに不自然なところが重なると、それはある意味自然と言えるけれど、自然なところに不自然が入り込むと、それは周囲から浮いて見えてしまう。浅倉くんの考えを取ると、スマホがこの件から浮いちゃうんだよ」

「じゃあ白本さんの推理ならスマホの謎も解消できるってこと?」


 おれの問いに白本さんは頷いた。彼女は再び推理を重ねていく。


「三科さんのこのおかしな言動から、彼女は部室の鍵が開いていることを知っていたということがわかるね。鍵が掛かっていたことを知っていたのに、鍵を借りようとしてないんだもん」

「じゃあ小室さんが鍵を掛けたって話は嘘なのか?」


 と剣也。


「そうだと思う。本当に小室さんが鍵を掛けていて、三科さんがこの事件と無関係ならば、貸し出し名簿を見て浅倉くんの来訪を知ったはずだから。その上で嘘をつく理由もないしね」

「でも実際に鍵は掛かってたわけだよ?」


 おれが疑問を挟むと白本さんは首肯し、


「そう、だから二人は三科さんの話を信じた。信じたのも無理はなくて、小室さん云々の話は部室に鍵が掛かっていたことを正当化させるための嘘になるわけだから。……つまり、三科さんは部室に鍵が掛かっていたことを知っていたんだよ。さっきの話と合わせると、三科さんはさっきまで鍵が掛かっていたけど、いまは開いていることを知っていたことになる。どうして彼女はそれを知ることができたのかな?」


 相変わらずというか、滑らか且つふわふわとした口調で尋ねられた。おれが言うより先に剣也が大げさに右手を挙げる。


「普通に考えれば、俺たちが鍵を使って部室に入るのを目撃したから」

「でも、それならどうして『部室に誰もいないと思った』なんて言ったんだよ」

「それもそうか……」


 おれの反証に剣也は唸る。唸り唸り、唸った末、


「どうやって知ったんだ? 掛かっていた鍵が開いているのを知ってるんなら、それイコール中に誰かがいるってことになるから、人がいるのはわかるはずなんだよな」

「いや、おれたちの前に誰かが一旦鍵を開けて、施錠せずに出ていったんなら、さっきまで掛かってたけどいまは開いている状態になる」

「確かにそうだが、それが何だよ。鍵は俺が最初に借りたんだからその線はないだろ」

「ああ、そうか。少し落ち着いて考えようぜ」


 さっき言ったことを頭の中でまとめる。おれたちが部室に赴く前に誰かが掛かっていた鍵を開け、その場を立ち去る。それを三科さんが目撃する。それから……おれたちがきたときには鍵が掛かってたわけだから、誰か――Xとしよう――は鍵を掛けて去ったということになる。三科さんはXが鍵を掛けるところを見ていなかったため、部室の鍵が開いているものだと思った。そこにおれたちがやってきて、剣也が職員室で鍵を借りて中に入る。三科さんはおれたちが入るところを見ていなかったため、こういう状態が出来上がった……。無理あるなあ。どういうシチュエーションだ。


 だいたい、Xはどうやって解錠と施錠をしたんだ? 正規の鍵では無理だからマスターキー。いや、マスターキーは一時限目が終わってから放課後までの間に誰も借りていないのだから可能性はない。そもそもXがきたとき、どうして鍵が掛かっていたんだ。それから三科さん。見たり見なかったりしすぎだよ。集中しろ。

 おれはこの考えを二人に話してみる。


「……これはないよね?」

「ないね」


 白本さんに一蹴された。わかってはいたが。


「何か意味不明だな。鍵が開いたことを確認するには、俺たちが中に入ったことを知らなきゃならねえんだ。それなのに、三科さんは誰もいないと思ってた。矛盾だぜ、矛盾」


 剣也が頭を掻き毟る。流石にこれ以上焦らすのは躊躇われたのか、白本さんが言葉を発した。


「鍵が開いたことを確認するには、二人が中に入ったことを確認するしかない……これは間違いないと思う。それなら、二人を知らないと言ったのは、それが嘘だったからと考えるしかない。なぜ嘘をついたのか。それは、後ろ暗いところがあったからと考えるのが妥当だと思うよ」

「つまり、おれたちが中に入ったことを知った状況が後ろ暗かったってこと?」


 白本さんは頷く。おれと剣也は顔を見合わせる。直感的に思ったことは盗聴、盗撮だったがその類のものはなかった。だとしたら、何だ。


「生野くんと浅倉くんは、三科さんがどこから自分たちを確認したと思う?」


 不意の問い。


「廊下かな。現実的に」

「そうだわな。じゃあ三科さんは廊下で後ろ暗いことをしてたってことか……」


 しかし白本さんはふるふると首を横に振るう。


「廊下じゃないよ。だって三科さんは忘れたスマホを回収しにきたんだから」

「どうしてそれが廊下目撃説を却下する理由になるの?」

「三科さんが現れたのは、二人が部室に異変があるかを一通り探し終わった直後だったんでしょ? 廊下にいたんなら、嘘をついてでも回収したかったスマホがある部屋に人が入ったのを、悠長に放置しておくわけがない。急いで駆けつけて、二人が部室に入った直後に登場したはずだよ」

「そう、か……」


 おれは白本さんの頭の回りように舌を巻いた。何でそんなことに思い至るのだろうか。眠っている間にこれらが解ったというのは本当なのだろうか。

 剣也はおれのようなことを考えてはいないのか、純粋に白本さんに疑問をぶつける。


「じゃあ、どこで俺たちのことを知ったんだ? 他に場所はないと思うんだが……」

「あるよ。二人はそもそも、どうしてわたしに会いにきたの?」

「え? それは、部室に忍び込んだのが誰なのか――」

「それか!」


 つい大きい声を出してしまった。おれの頭の上にはおそらく豆電球が輝いていることだろう。剣也も遅れて気がついたのか、恰好をつけて指ぱっちんをした。鳴らなかったが。


「三科さんは部室の中から二人の会話を聞いてたんだね。部室に侵入して鍵を掛けたのは、彼女だよ」


 小室さん云々の話は嘘だったのだから、部室には普通に入れるのである。


「スマホの疑問の一つがここで回収できるよ。朝忘れたスマホを放課後取りにきたのは不自然だけど、さっき忘れたスマホを慌てて取りにきたのなら、自然と言えるよね?」


 おれたちは無言で勢いよく首を縦に振った。


「三科さんが部室で何をしていたのかはとりあえず置いておくよ。彼女は部室の前に二人がきて、しかも浅倉くんが鍵を借りにいって焦ったと思う。でも廊下には生野くんがいるから出られない。そこで、ベランダを経由して隣の空き教室に滑り込んだ。相当慌てたのか、そのときスマホを忘れちゃったんだね。そして生野くんたちが部室に入ったのを音や会話から確認すると、引き戸から外へ出た」

「ストォォォップ!」


 白本さんの華麗且つ滑らか、そしてふわふわと柔らかい弁舌を、剣也の強い声が遮った。


「忘れてもらっちゃ困るぜ、白本さん。空き教室の引き戸と窓には鍵が掛かってたんだ。引き戸から出ていったんじゃ、こんな状況にはならねえ」

「鍵を掛ければいいんだよ」

「鍵は紛失してるから、それは無理なのさ」

「そっちの鍵じゃなくて、マスターキーを使えば可能でしょ?」

「いや、マスターキーは生徒には――」

「生徒じゃない人もいたとしたら? 二人が事務室に聞き込みにいったとき、マスターキーを借りていたのは、誰?」

「小室、さん……」


 剣也はその名を呆然と口にした。口を半開きにして、目から鱗を放出している。だがおれはその滑稽な表情を笑う気になれなかった。なぜならば、おれも同じような顔をしていると思うからである。


「三科さんが小室さんの名前を使って嘘をついたのは、ちゃんと計算してのことだったんだと思う。口裏を合わせておけば、もし借りに二人が小室さんに聞き込みにいっても安全だからね。……もしかしたら、小室は本当に部室に鍵を掛けたかもしれない。マスターキーがあれば鍵が掛かっていようが開いていようが関係はない。けど、どっちにしろわたしの結論は変わらないけどね」


 いきなり提出された真相におれはまだついていけていない。


「侵入者の正体は三科さんと小室さん。鍵が掛かっていたのは二人が内側から閉めたから。ボタンは三科さんが落としたんだと思う。たぶんブレザーで隠れてる袖口のボタンだね」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って!」


 すらすらふわふわと放たれる彼女の推理にようやっと追いついたおれは言う。


「動機がわからないよ。何で二人はそんなことしたの?」


 初めて、白本さんが言葉に詰まった。ここまできてわからないということはないだろう。彼女は先ほど、事件のすべてが解ったと言ったのだ。

 けれど彼女は目を伏せて口を開かない。なぜなのか、と訝っていると、あることに気がついた。白本さんの雪のように白い頬が僅かに赤くなっていた。

 その姿を見て、おれは思い当たった。


 ――密室。

 ――男と女。

 ――人がきて慌てた。


「ま、つまるところ、部室でいちゃついてたってわけだな」


 おれよりも先に動機を察していたらしい(変態的だからだろう)剣也が締めた。

 うん。まあ、そういうことになるのか……。あの階は学校で最も人気がない地帯である。鍵も掛かって廊下側の窓がないあの部屋は、そういうことをするのにうってつけというわけだ。


 余りにもしょうもない真相に、心が空虚になっていくのを感じる。こんなことにシリアスになっていたのが恥ずかしい。

 頭を抱えかけたおれだったが、まだ疑問が残っていることに気がついた。


「どうして、三科さんのスマホは窓に立てかけてあったの?」


 その問いにも、白本さんはやはり黙ってしまった。意味を自分で考えようとするおれの肩に、剣也の手が乗った。


「わかんねえのか、亨? そういうプレイだよ」


 言葉の意味を考える。おそらく俗っぽいことなのだろう。

 

「プレイ……ってことはまさか……!」


 剣也はにやりと笑う。


「自分たちがいちゃついているところを録画してたんだろ。あのスマホ、裏向いてたしな。たぶん、俺たちが発見したときもまだ録画モードだったんだろうな。見られて最初から再生されたら終わるから、慌てて回収しにきたんだろう」


 彼女はスマホを窓に立てかけるのを癖だと言った。おれたちに沢山の嘘をついていた三科さんだったが、このことだけは本当だったのだろう。ただし、正確にはそれは性癖と言うのだが。

 ため息が漏れた。知れば知るほどバカらしい。おれたちは一体全体、何を調べていたのやら。


 事件をまとめてみよう。三科さんと小室さんは部室にくると鍵を掛けた。三科さんはスマホを録画モードにして窓に立てかける。お互い椅子に座って存分にいちゃいちゃする。このとき三科さんのボタンが取れたのだろう。しかし二人の幸せの時間は突然の闖入者によって崩れ去る。その闖入者……おれと剣也は部室に鍵が掛かっていることに疑問を持ち、剣也が鍵を借りに走った。その間に二人はベランダから隣の空き教室のベランダへと渡る。引き戸か窓(おそらくこういうときのために予め鍵を開けておいたのだろう)から空き教室に入る。おれたちが部室に入ったのを見計らい、引き戸から廊下に出る。マスターキーで施錠して、二人は静かに東棟四階を後にした。が、録画モードにしたスマホを忘れてしまったため、三科さんは部室に戻ってきたと、こういうことか。


 何だこの喜劇は。


「このことは他言無用だね。おれたちだけの秘密にしよう」

「それがいいね」

「だな。ってかまあ、こんな話、誰も信じそうにねえけど」



 ◇◆◇



「あっ、友だちからLINEきた。ごめん、わたしそろそろ帰るね」


 すべての謎が明かされ、手持ち無沙汰になっていたおれたちだったが、ポケットに入っていたスマホを見た白本さんが慌てて立ち上がった。黒いリュックサックを背負うと、おれたちを振り返る。


「二人はまだここにいる?」


 剣也と何となく顔を見合わせる。まあ、考えるまでもないことなのだが。


「帰るぜ」

「昇降口まで一緒にいこうか」


 立ち上がりながらそう言うと、白本さんは無邪気な子どものような、満面の笑みを浮かべた。



 ◇◆◇



 白本さんとは少しの言葉を交わした後、校門で別れた。部活が終わったらしい友だちと帰るようだが、その人物はまだきていなかったからだ。


 おれと剣也は夕焼けに染まった神々しい空を下、静かに家路についていた。いつもはどうでもいいことを話しながら帰るのだが、今日は隣の車道を通る車の走行音しか聞こえてこない。今日だけで、こいつとの一生分の沈黙を消費したような気がする。ただ、いま現在のそれは、先ほどの考え込んでいた故の沈黙だったり、徒労感故の沈黙でもなかった。


「白本さんって、凄かったんだな」


 おれは何気なく呟いた。白本さんへの感嘆が、おれたちの沈黙を作っていたのだ。


「そうだな。まさか三科さんがそんなことしてるとは思わんかったぜ」


 そういや、こいつは彼女目当てで部活に入ったんだっけか。


「ショックか?」

「いいや。寧ろ逆にそそる。しかも、俺はあなたの秘密を知ってるんだぜ、という背徳感も湧いてきた」

「変態め……」


 にやにやと笑う男に冷ややかなつっこみを加えた。

 それにしても、今日はいままで一番大変だった。剣也に手伝いを求められて部室にいったらあんなことに…………あっ。思わず立ち止まった。


「なあ、剣也」

「ん? どした?」

「資料、持っていかなくてよかったのか?」


 一瞬、彼は「なんすかそれ」とでも言いたげな表情を浮かべたが、すぐに思い当たったようで、あっ、と声を漏らした。きた道を振り返り、


「完全に忘れてたわ」

「どうする?」

「……また今度でいいや」


 そういうことになった。

 おれと剣也の家はけっこう離れているため、この後すぐに別れた。

 交差点の赤信号に立ち止まりつつ、おれは今日のことを振り返る。


 さっきも思ったことだが、今日は過去最高に大変だった。それと同時に、過去最高に楽しかったのではないか? とも思っている。なぜ疑問形なのかというと、おれ自信、これが楽しいという感情なのかどうかわからないからだ。こう言うとおれがアンドロイドみたく思われてしまうから言い換えると、これが楽しいという感情に含まれるのかわからない。


 いままで楽しいことは色々あった。しかしこの感覚は抱いたことがない。興奮や高揚にも似たこの気持ちは何だ?


 おれはこれまで、何かに情熱を向けたことがなかった。常に何となく目の前のことをやってきただけだった。今日のは違ったのか?


 いいや、と思う。謎解きに情熱を燃やしていたのではない。もしそうなら安易に白本さんに頼ったりしないだろうし、謎が解けたときにもっとすっきりとしただろう。おれはあまりのしょうもなさに虚しさすら感じた。あれはただ気になっただけだろう。おれがこの感情を自覚したのはいつだ?


 おそらく……白本さんと校門で別れる前に交わした、あの会話の直後だろう。


 彼女は校門を出ていくおれたちを呼び止め、ふわふわとした口調でこう言ったのだ。


「今日は楽しかったよ。もしまた何かあったら、わたしにも手伝わせてね!」


 この言葉に、おれはおそらく期待したのだ。未来のことなんて殆ど考えず、なんとなくいまを生きていただけだったから、こんな感情を持ったことすらなかった。


 ただ、何を期待しているのからおれにもわからない。でも彼女なら、おれをどこか未開の地に連れていってくれるのではないか、という無責任なことを思っている。


 できれば、彼女の言う「また何か」が起きてほしいと願う。出来事によっては不謹慎な意味合いになるだろうけれど、白本さんが推論を述べる姿をもう一度見たいからだ。そうしたら、情熱を向けられる何かを見つけられるかもしれない……。


「何考えてんだか……」


 おれは苦笑いを浮かべた。本当に無責任な期待である。たぶんこれは、密室という非日常的な体験と、白本さんの持つ形容しがたい独特の雰囲気の相乗効果によってもたらされた一時的な感情だろう。そう思うことにしよう。


 おれは黄昏た空を見上げ、青信号となった横断歩道を渡り始めた。

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