侵入者の痕跡



 おれが通っている県立谷津川やつがわ高校は鳥瞰すると、本棟、東棟、北棟の三つが合わさりL字型になる。剣也の所属する日本歴史研究会は東棟の四階にあるという。


 入学直後に校舎をぶらぶらと探検したことあるため、当然そのエリアにも行ったことがあるはずだ。しかしまったくと言っていいほど記憶にない。


「東棟の四階ってどんなところだ?」


 剣也に訊いてみた。現在地は東棟の三階で、このエリアは部活に使われている教室が多いのか、喧騒と言っても差し支えがないほどの音が耳に入ってくる。


「四階は秘境だよ。たぶん、この学校で一番人気がない場所だ。誰もいない誰もこない。授業に使われるのは被服室だけで、あとは空き教室。部活がけっこう多いこの学校だが、部室に使われてる部屋は二部屋だけ。被服室を手芸部が、用途不明の部屋を日本歴史研究会おれらが使ってる」

「ふぅん……。用途不明の部屋って何だよ」

「知らねえから用途不明なんだよ。顧問の先生もわからんとさ。けど、いまは使われてないんだから、大して重要な部屋でもなかったんだろ」


 おれたちはいよいよ、秘境へと続く階段に足を踏み入れた。一段ずつ上がっていく度に三階の喧騒から離れていき、どこか異空間へと近づいている感じがした。ただの学校の階段なのに、なぜこんな感覚を抱いているのだろうか。自分がバカらしくなったが、おそらくあらかじめ秘境とか言われていたからそんなことを思ってしまったのだろう。上から漂ってくる沈黙も、妄想に拍車を掛けてきた。


 四階へ到達した。階下からは僅かに人の声が響いていたが、階段から離れると呆気なく沈黙に飲み込まれてしまった。

 廊下に出て、ぽつりと呟く。


「確かに、こりゃ秘境だな。人の気配をまったく感じない」


 すぐ左は被服室のようだが、中から物音一つ聞こえてこない。今日は部活をやっていないのだろう。

 こっちだ、と剣也が廊下の一番奥を指さした。おれたちは廊下の端から端までを歩くことになる。


「そういや、鍵とか掛かってないのか? あっ、他の部員の人がきてるからいいのか」

「いや、今日は放課後の部活はないから誰もきてないと思う。鍵は常に開けてあるんだよ」

「不用心だな……」

「盗まれても困るようなもんはねえんだ。パソコンは持って帰ってるし、資料はそのパソコンに入ってるから盗まれても復元可能だ。オーケー?」

「オーケー」

「ま、一番の理由は、面倒だからなんだけどな」


 そう言って、剣也は廊下の隅っこにあった引き戸に手を掛けた。そこだったのか。歩きながら壁しかねーじゃんと思っていたが、普通の教室と違って廊下側の窓がなく、引き戸も一つしかないから気づかなかった。残りの廊下の長さと隣の空き教室の面積から考えると、普通の教室の半分ほどの大きさしかないのだろう。

 と、勝手に予想しているのだが、一向に引き戸が開かない。


「早く開けろよ」

「いや、開かねえんだ。鍵が掛かってる」

「話と違うじゃねえかよ」


 おれはついため息を吐いた。

 剣也は何度も引き戸を開けようと頑張っているが、数ミリ開くだけですぐにとまってしまう。これは確実に鍵が掛かっているな。

 剣也は首を捻った。


「かっしーな……。朝集まったときは誰も鍵なんて持ってなかったし、出てくときにも鍵掛けてなかったぞ」

「朝に部活があったのか?」

「たまにあるんだよ、そういうこと」


 おれは適当な解答を考える。


「誰かが朝から放課後までの間に出入りしたんだよ、きっと。そのときに気まぐれで鍵を掛けた」


 おれのこのベストアンサーと言って差し支えない答えに、剣也はしかし納得していないようだ。


「朝、今日は部活なしって決めたんだぞ? そんなことしないだろ」

「するだろ。気まぐれなら」


 おれのこの知的な答えに、剣也はしかし得心していないようだ。ひとしきり唸り声を上げ、


「しゃあねえ。職員室まで鍵取ってくるわ。ここで待っててくれ」


 と言って階段へと走っていった。

 一人になった。そして気がついた。この階、静かすぎて気味が悪い。人が一人もいない校舎というのは、こんなにも物寂しいのか。あんまり学校に長居した経験がないから、こういう雰囲気を知らなかった。


 おれは廊下の窓からグラウンドを眺める。野球部の面々がノックを行っている。部員たちがコーチが打つ球に食らいついていく。……取り損ねた。きっと彼にはきつい叱責が飛んだことだろう。


 彼らは野球に真剣に打ち込んでいるのだろうか? 考えるまでもないか。遊び半分であんな大変そうな練習はできまい。しかも一年生は球拾いだろう。好きじゃなかったらやってられんよなあ……。


 こんな具合に野球部を応援していると廊下に足音が響いてきた。音のしている方向に目を向けると、ぜぇはぁと息を切らした剣也が走ってきていた。


「どんだけ急いでんだよ」


 目の前で苦しそうに喘ぐ剣也に言った。彼は息を切らしたまま言う。


「なあに、友人を、はぁ、こんな人気がなくて、不気味なところに、ぜぇ、長時間も、ほったらかしていけるかよ……」

「剣也、お前、一人でここにくるのが怖かったからおれを誘ったなんてことないよな?」

「そ、そんなわけあるか!」


 図星だな、これは。しかし剣也は、それはどうでもいい、とばかりに真面目な表情になった。呼吸も幾分か整ったようである。


「そんなことより、やっぱ変だぜ亨」

「何がだよ?」

「今日……というか、少なくともこの一ヶ月の間に、日史研の部室の鍵を借りた奴はいない」

「どうして、わかるんだよ?」

「この学校では鍵を借りるとき、まず貸し出し名簿に名前と借りる鍵の部屋名を書くんだ。それを教師に見せて、持ってきてもらうわけだ。で、」


 剣也は右手に握っていた鍵を見せてくる。黄色いタグがついている。


「こいつを借りるとき、名簿を読みあさってみたんだよ。鍵を借りたのは、いま現在の俺だけだ」


 どくり、と心臓が一瞬だけ胸の内側を激しく叩いた。じゃあ、どうやってこの部屋に鍵を掛けるんだ? というか、誰だか知らないがなぜ鍵を掛けた? 意味ないだろう。


「とりあえず、入ってみよう」


 おれの提案に剣也は頷いた。素早く鍵を穴に差し込み捻る。カチャ、と解錠された音が鳴る。

 顔を見合わせ、おれたちは無言で頷く。剣也はゆっくりと引き戸に手を掛けた。おれはごくりと唾を飲んだ。中がどうなっているのかわからないからである。緊張感が立ちこめる。


 剣也が勢いよく引き戸を開けた。


「なっ……!」


 おれは絶句してしまった。これは酷い……。部屋は荒らされていた。歴史の資料と思われる紙が床に好き勝手に散らばり、真ん中に置かれた長テーブルの上にも雑然とばらまかれている。

 思わず剣也を見やった。彼は神妙な面もちで口を開いた。


「部屋の様子は、今朝から変化なしか……」


 ガクッと芸人みたく倒れかけた。


「これがデフォかよ!」

「ああ。汚いだろ?」


 慣れているからか、剣也は足の踏み場に迷いそうなこの部屋に、躊躇なく入った。本当に躊躇がなく、床に落ちている資料を踏んづけている。

 部外者のおれがそれをやるのは流石に気が咎める。爪先立ちをして、床の見えているポイントに足を置いた。後ろ手で引き戸を閉める。

 剣也は室内をくまなく見回すと、


「盗まれたり荒らされたりした形跡はなさそうだな。ま、盗まれるもんなんざないけどな」

「これ以上荒らしようもないしな……。というか、泥棒だったら鍵なんて掛けてかないだろ」

「そりゃそうか。というかそもそも、鍵を掛けることができねえんだからよ……って、ん?」


 剣也はおれの足元に視線を置いた。


「何やってんだよ。紙くらい思いっきり踏んづけてもいいぞ。部員全員そうしてるし」

「そ、そうか……」


 正直、足がぷるぷるし出していたため助かった。おれはゆっくりと踵を下ろす。

 改めてこの部室を見てみる。面積はおれの想像通り、通常の教室の半分ほどだ。中央に長テーブルがあり、出入り口から見て右の側に椅子が二脚、左に三脚置かれている。黒板などはなく、その代わりかホワイトボードがあった。部屋の壁際にダンボールがいくつか置いてある。奥にはベランダもあるようだ。とそこで、おれは変なものを発見した。紙を踏んづけながら窓辺へ寄る。窓のへりにスマホが乗せられ、窓ガラスに立て掛けられていたいたのだ。カメラレンズのある裏側がこちらを向いている。


「なあ剣也、このスマホは何だ?」

「ん? ……そいつは、確か部員の三科みしなさんのだな。何でこんなとこにあるのかは知らんが」

「朝きたときはあったか?」


 剣也は記憶を掘り起こそうとしてか腕を組んだ。視線が天井を仰ぐ。


「きた直後はなかったと思うけど、出てくときは憶えてねえな」

「そうか……。まあ、人のスマホをいじるわけにはいかないからほっとこうぜ」

「だな」


 剣也は頭を掻きながら部屋中に視線を走らせる。特に何も見いだせなかったのかため息を吐いた。


「室内に変わったとこはなし。鍵が掛かってただけか……」

「現象としてはそれだけだけど、鍵を使わずにだからな。そんなの無理だろ」

「そうだよな……。もしかしたら、何かの拍子で掛かっちまったのかもしれねえ」


 そう考えるのが一番現実的なのだが、胸のつっかえが取れない。おれは十五年間、今年で十六年目を向かえるが、いままで一度も「何かの拍子で鍵が掛かってしまった」ところを見たことがない。発言者である剣也もおれと同じく消化不良のようで、渋面を作っている。


 おれたち二人が時がとまったかのように黙り込んでいると、廊下からぱたぱたと足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくると思ったら、引き戸が勢いよく開かれて、女子生徒が現れた。


「三科さん」


 驚いたらしい剣也が目を丸くして呟いた。三科という彼女はポニーテールが異様に似合っており、どこか優等生っぽい雰囲気をまとっている。更に顔立ちも整っている。なるほど、剣也の目当ての先輩はこの人か。


 おれたち――というか剣也か――を見た三科さんは笑顔を作り、


「浅倉くん、いたんだ。びっくりしたぁ。誰もいないと思ってたから……。今日、部活休みだよ?」

「知ってますって、今朝した話なんですから。流石に資料が多いと思ったんで、それ家に持って帰ろうかと」


 それからおれに親指を向け、


「友だちの生野亨です。こいつに手伝ってもらってましてね」

「どうも」


 おれは何となく頭を下げる。彼女は朗らかに、「うん。よろしく」と言った。


「で、三科さんこそどうしてここに……って、あそこのスマホを取りにきたんすね」


 剣也は窓に立て掛けられているスマホを指し示した。それを見た三科さんはほっとしたかのように深い息を吐き、窓に駆け寄った。


「やっぱりここにあったんだ」


 スマホを手に取ると、素早くポケットに閉まった。

 おれはやや遠慮しながらも尋ねてみることにする。


「あの、どうしてそんなとこにスマホを?」


 彼女は恥ずかしそうに頬を赤く染め、照れながら打ち明けた。


「うん、ちょっと癖でね……。窓に何か立て掛けたくなっちゃうんだ」

「どんな癖っすか……」


 剣也が呆れ混じりにつっこんだ。あはは、と三科さんは明るく笑うと踵を返した。


「じゃ、浅倉くん、また明日ね」

「了解す……じゃないんだ。ちょっと待ってください」


 部室から去っていこうとする三科さんを、剣也は慌てて呼びとめた。彼女はきょとんと振り向く。


「どうしたの?」

「実はちょっと変なことがありまして……」

「鍵が掛かってたこと?」


 先回りされて、剣也はぽかんとした表情になる。


「え、知ってたんすか?」

「うん。事務員の小室こむろさんって人が掛けたんだよ。マスターキーでカチャッて」

「何で知ってるんすか?」

「一時限目が家庭科だったから、被服室にいたんだよね。で、授業が終わって被服室から出てくとき、その光景を見たの。何してるんですかって聞いたら、引き戸が少し開いてて不用心だと思ったから掛けたんだって。善意でしてくれたことだから、結構です、って言いづらくてね……」


 そういうことか。わかってみれば大したことはない。剣也も似たようなことを思ったのか、つまらなそうに息を吐き出し、


「でもその人、何しにこんなとこにきたんですか?」

「倉庫に使えそうな部屋がないか探してたみたいだよ」

「そうすか……。すいません、引きとめちゃって」

「ううん。気にしないで。じゃあね」


 三科さんは颯爽と部室から出ていった。

 おれたちは顔を見合わせる。おれは言った。


「つまんないことで時間を取られたな」

「だな。さっさと帰るか」


 剣也が壁際のダンボールに歩んでいく。おれもそこに向かおうと右足を出した。が、踏んづけた紙が滑り、バランスを崩してしまった。そのまま床に倒れ込んでしまう。


「何やってんだよ……」


 剣也に呆れたような表情で言われた。おれは少しむっとする。


「紙が悪いんだよ。もっと言えば紙を散らかしているお前たち部員が悪い」

「残念だったな。俺が入部した時点で既にこんなだったから、俺に責任はない」


 ったく……。若干の悔しさを胸に立ち上がろうと腕に力を加えようとした。しかしその直前、床に落ちている異物に気がついた。白い円形の物体だ。小指の爪ほどの大きさしかない。おれは二脚の椅子の中間にあるそれを拾い上げた。


「ボタンか……」


 どの服にでもついてそうなありふれたものである。部員の誰かの服から取れてしまったのだろう。


「何してんだ亨」


 後ろから尋ねられたので、おれは立ち上がって振り返る。


「いや、ボタンが落ちてたってだけだ」


 手のひらの中央にあるそれを見せる。おれはどうってことのないことのつもりで言ったのだが、予想に反して剣也は大きくを目を見開いた。


「どうしたんだよ、何でそんなに驚いてるんだ?」

「なあ、亨よ。それは、そこにあったのか?」


 そう言って、剣也は椅子と椅子の中間を指さした。おれは無言で頷く。

 紙の上に落ちていたら色に溶け込んで見逃してしまったかもしれない。しかし幸いというのも大げさだが、ボタンは茶色い床の上にあったため目に入ったのだ。

 剣也は顎に手を添えて、真剣な表情で何かを思案している。しばらくすると彼は、うん、と一つ頷いた。


「やっぱりというか、どうやら侵入者はいたみたいだぜ」

「は? 何でそうなるんだ?」

「朝、俺もここでこけたんだよ」

「お前もかよ。人のことバカにしといて」

「話を聞け。こけたとき、そこにボタンなんてなかったんだ」


 え?

 おれは反射的にボタンを拾った場所を見た。


「しかも、だ。さっきはただ鍵が掛かってただけだったが、今回はちと違う。一時限目が終わった直後、ここには鍵が掛けられた。つまり、侵入者は密室に忍び込んだ可能性が高いんだ」


 剣也が拳を強く握りしめ、力強く言った。おれはそれに少しだけ呆気に取られつつ、現実的なことを言う。


「それなら、一時限目の最中に忍び込んだんじゃないか?」

「何でそんな時間に侵入する必要がある? 休み時間でいいじゃねえか。どうせこの階には誰もこないんだからよ」

「いや、一時限目終了直後に鍵が掛かるから……ってそうか、誰もこの部屋に鍵が掛かることは予想できないのか」

「そういうことだ」


 無意識のうちに、おれも顎に右手を添えてしまう。いや、しかし、考える必要もないんじゃないか?


「鍵を掛けた事務員の小室さんのものじゃないか? ほら、引き戸がちょっと開いてたから鍵を掛けたんだろ? そのときに中の様子を見て、汚かったから思わず入っちゃったんだよ」

「俺もそう思ったんだが、違うんだよ。小室さんって、けっこうイケメンでな……。俺は個人的に彼のことを敵視しているわけだが、今日の朝見かけたとき、小室さんは茶色いボタンのワイシャツを着ていたんだよ」

「それは……本当なのか?」

「ああ。間違いない」


 そう断言されてしまったら黙るしかない。

 おれは少し考え、ちょっとした提案をする。


「もしかしたら、おれたちのシャツのボタンかもしれない。先に確認しとこうぜ」


 剣也は頷いた。

 おれたちは学ランを脱いで、下に着ていたシャツのボタンを確認してみた。結果、どのボタンと取れていなかったことが判明した。

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