第9話 逃避航路
グラチネの船着き場。
フラルに指示された通りに船の出港準備を済ませ、船員たちが一息ついていると――彼らの方へ、急いだ様子で近づいてくる人影が二つ。
「すぐに出港するわ。準備はもうできているの?」
「も、もちろんでさぁ。……何かあったんですかい?」
船長がそう答える時にも、フラルが足を止めることはなく。いつもとは違う様子に彼が疑問を感じたところに、その後に付いていたクルーデが声を上げる。
「おい! また新しいのが来たぞ!」
――ゆらりと湧き出てくる影。
黒い翼、黒い爪、黒い尾。
「オイオイ……ここにも出てくるのかよ……!」
先日の襲撃と同様の黒い影に、船員たちがざわつく。街の影という影から湧き出てくるようなその姿は、海上で襲ってきたそれよりも船員たちの危機感を煽ってくる。
「急いで錨を上げろ! すぐにここまで来るぞ!」
「おい、兄ちゃんも早くこっちに――」
「いいえ、このまま船を出して」
「っ!? お連れさんはどうするんで!?」
陸から船が離れていく。今ならばまだ、跳べば引き上げられる距離――追いつかれない最後のチャンス。にも関わらずのフラルの発言に、船長は耳を疑ったのだった。
「――彼には時間を稼いでもらうわ。分かってるわね?」
「また無茶なことを――!」
クルーデは非難の声を上げながらも立ち止まり、向かってくる
「本当に大丈夫なんですかい!?」
「あの子なら後から来るわ、いいからもっと速度を出しなさい」
戸惑いながらも、言われた通りに船を動かす船長。
となれば当然のこと、船は陸からぐんぐんと離れ始めていた。
「……そろそろかしら。全員、船首に集まってなさい。――クルーデ!」
「フラル――?」
――久しく呼ばれた自分の名に、クルーデが向くと。船の後部デッキにフラルが一人で毅然と立っていた。それ以上何も言わない彼女の、そのたった一言だけでクルーデは、彼女の意図を――糸を理解する。
「――そういうことかよっ」
目の前の一頭を切り捨て、クルーデは鎧を纏ったままに走り出す。真っ直ぐに海の方向へ、フラルたちの乗っている船へ向かって。
「お、おい! どうするつもりだ!」
――距離としては既に船一隻分以上。
野生の獣ならまだしも、ヒトの脚力では跳んだところで到底渡れるものではない。いくら他の金属に比べて軽いとはいえ、鎧は鎧。跳んで海を渡ろうなどとは、暴挙にも等しい行為とも言えた。
「いくらなんでも無茶――おぉ?」
船員たちが揃ったことを確認して、フラルの様子を見に来た船長が驚きに声を上げる。それもそうだろう。まるでこの世の理から外れたかのように――地を蹴ったクルーデの身体は重力に導かれる様子もなく、高度を維持したままに船と距離を詰めていたのだから。
「――くっ、糸で引くのなら先に言え!」
「嫌ね、声を荒げちゃって。本気で置いて行かれると思ったのかしら」
船に降り立つなり責め立てるクルーデだったが、フラルはそんなことも構わずに
「まだだ! あいつ等、こっちに飛んできますぜ!」
「……貴方もさっさと船首の方に行ってなさい。網が張れないでしょう?」
「…………!」
靄竜たちを誘導するように、クルーデはフラルの真後ろへと移動する。
クルーデ目がけて猛スピードで飛んでくる靄竜たちは、辺りに張り巡らされた極細の鋼線に気づく筈もなく。たとえ気づいたとしても、それを避ける知能がある筈もない。
――これによって導き出される結果は、火を見るよりも明らかで。まるで見えない刃に触れたかのように切断され、分割され。細切れの肉片から靄となって消え失せたのだった。
「……もう来ないようだな。お前ら持ち場に戻れ!」
「貴方も中で休んでおきなさいな」
「……あぁ」
ようやく船の上に静けさが戻り、船員たちがぞろぞろと各場所へと戻っていく。クルーデもフラルに言われたように船室へと戻っていき、後部デッキにはフラルと船長だけが残された。
「さて、お次はどちらに向かうんで?」
「とりあえず、リナードから距離をとるわ。ここから遥か東――ヴィネーグルが次の目的地ね」
ファリネからグラチネまでの距離など、たかが知れている。あの靄竜が飛んで渡ってきたと言うならば、それすらも難しいほどの距離を置いてしまうまでのこと。そう考えた彼女は――ここから遠く東にあたる大陸、その港町であるコンポートへと進路を取らせたのだった。
「――あら。地図なんて眺めちゃってどうしたの」
あとのことを船長に任せ、フラルも一息つこうと船室へと戻ると――クルーデが机の上に広げてあった地図を眺めていた。彼女の姿に気が付くなり、クルーデは地図上では右上に位置する大陸を指さす。
「ファリネから離れるのなら、こっちのクルスティアンとやらに向かった方がいいんじゃないか?」
見たところ単純そうな構造をしていた靄竜たち。恐らく、途中で休息を取るだなんて概念はなく。それならば素直に距離を離すべきではないかというのが、クルーデの意見だった。
「そっちの大陸の方が離れているのは確かなのだけれどね。そこの中心となっているエルミセルがいろいろと面倒な場所なのよ」
「エルミセル?」
――魔法都市エルミセル。この世界で扱われる魔法技術の中心。
工業技術の中心である、
「閉鎖的というか、誰にでも敵意を向けるというか――他の大陸で魔法をあまり魔法を見かけないのも、ここが外からの接触を嫌っているのが原因ね」
もともとの素質が重要だったり、特別な道具が必要だったり。ナヴァランの工業技術が‟他者と共有する力”だとすれば、エルミセルの魔法は“選ばれた者のみに許された力”。
「“素材”を求めるか、“性質”を求めるか。外か内か。一つの物があっても、見る場所が違う。見ている世界が違う。相容れないところまで分化してしまった結果がこの世界よ」
だからこそ、互いの道から外れたものを疎み合い、争い合っているのだとフラルは説明する。発展していく工業は、魔法に取っても魔物にとっても毒でしかない。どちらかと言えば、ヒトでありながら魔物に、魔に近づく方法、故に魔法なのだと。
「たとえクルスティアンから上陸したとしても、前方からは外部からのものを良しとしない魔法使いたちが。後方からは際限なく追ってくる靄竜が。……そんな場面は、貴方も想像するだけで嫌になってくるでしょう?」
『ま、その靄竜たちですらも、彼らにとっては“いい研究材料”程度にしか思わないでしょうけどね』と吐き捨てるように言うフラル。――彼女もまた、その“研究材料”として狙われたことが一度や二度では無かった。
今は竜の姿を隠しているため、そんなことは遠い過去となっているものの、何かの拍子でまた狙われるのもそう愉快なことではない。
故に、近寄りたがらないのも当然のことで。クルーデはフラルの選択したコンポートへの進路に、納得の意を示して頷くのだった。
「――とにかく、ヴィネーグルなら私の別荘もいくつかあるわ。当分の間はゆっくりできるでしょう」
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