第2話 運命の赤い糸
真っ逆さまに底へと落ちていく青年を追って、フラルは飛び出していた。
地面を蹴り身体が宙に投げ出されているころには、さっきまでの人の姿など影も形もなく。ただそこにあったのは、煌びやかに反射光を撒き散らす、赤金の姿をした一頭の竜。
飛ぶ、というよりも滑空。ただ真っ直ぐに地面へと突っ込んでいく速度は、自由落下など遥かに凌ぎ――先に落下していった青年の下へと一瞬で追いついた。
「――ねぇ、ちょっと!」
「――――」
落下中の衝撃か、青年は既に気を失っているようで。そもそも壁ギリギリに飛んでいて、背中で受け止めるような余裕などない。第一に、この身体ではかえって青年を傷つけてしまう可能性すらあった。
それならばと、フラルが前足から放出したのは金属の糸で。それは瞬時に
受け止める対象を傷つけないよう、太さを調整されたそれで――フラルはなんとか青年を捉えることができたのだった。
「ヒヤヒヤさせてくれるわ……」
再び訪れた大渓谷の底。フラルは着地できる場所を探して、青年を下ろした。さっきまでキビィが居たであろう場所を見上げてみるも、底からでは距離があり過ぎて上手く確認することができない。
「いったい上で何が……」
青年から香ってくるのは、確かにキビィの匂いである。一緒にいたことによる移り香だとか、そんな程度の低いものではなく。その匂いの濃さは――宿主として身体の中にキビィがいないと付かないものだった。
「ふぅん。
「ぐ……うぅ……!」
青年が呻き声を上げる。
「――っ」
青年が体を
「まずはこの子を休ませる場所が先かしらね……」
意識の戻らない青年を見下ろしながら、フラルは深くため息を吐いた。
青年を拾ったフラルは――大渓谷の北側にある街エストラにある別荘に、そのまま彼を運び込んだ。
彼女が人化して得たのは、この世界の全ての美しさを集めたような美貌を持ったこの姿で――そんなフラルによって来る男など数知れず、それらを手玉に取ってきたとなれば、資産は十二分に貯まるのは当然のこと。こういった別荘は世界各地に散らばって、それは一つや二つではなかった。
そもそも赤金竜の姿でさえ、土地によっては神格化されているほどで。決して人の目から見ても決して醜くはないのだが――人の姿を取るようになってからは、とんと竜の姿を人目に晒すことを嫌っているのだった。
「なんなのかしらね……この子。外身も中身も酷くボロボロで。どんな人生を送ればこんな風になるのかしら……」
フラルはベッドに寝かせた青年の頬に手を添えて、顔を覗き込む。
本来ならば起きている時、瞳を覗き込む方が心の内側を覗きやすいのだが――眠っている以上、目蓋を無理矢理開くわけにもいかず。それでも彼がキビィに繋がる何かを知っているのかを確かめるために、彼がどんな人物でどんな人生を送ってきたのかを知るために、フラルは意識を集中する。
「――あらあら。これは少し面倒なことになってるわね……」
あの時の一瞬だけ、まさに垣間見ることができたどす黒い記憶、感情は断片的にしか残っておらず。今では殆どが、真っ白に染まっていた。
白。空白。
まさに抜け殻のように、あるべきものがそこにない。
それはきっと、寄生していたキビィがいないからだとか、そういうものではなく。もっと根本的なものだとフラルは考える。
「……記憶喪失……」
彼女にとっても、話に聞いたことはあるけれど、こうして実際に出会うのは初めてで。そんな人の中身を覗くなんてことは初めてで。生まれたばかりのばかりの子供も、中の空白度合いといえば同じぐらいなのだけれど、器の大きさがはっきりと違う。割合は同じでも、そこから感じる空虚さが違う。
これはどうしたものかと困惑するフラルの目の前で、青年は目を覚ました。
「……? ここは……うっ!?」
ボロボロの外見の割には、致命傷となる傷は奇跡的に無かった。それでも体力は殆ど残っていないようで、青年は満足に起き上がることもできない様子だった。
「……ここはエストラの近くにある私の別荘よ。あなたが傷ついて倒れていたところを、私が助けたの」
エストラ――薬草の街と呼ばれたこの街ならば、ある程度の怪我や病気は医者にかからなくても、個人で治すことができる。……さすがに薬草では治しようもない記憶喪失になっていることは、フラルにも予想外だった。
「あなた、自分の名前は? どこから来たのか覚えてる?」
答えの分かっている問いを、答えの出ないことを分かっている問いを、フラルは青年に投げかける。
「……クルーデ。来たのは……どこ……から……、…………!? 俺は……!?」
「やっぱり記憶がないのね……。無理に思い出そうとしない方がいいわ。身体が治るにつれ、きっと記憶の方も元に戻るでしょう。確証はないけどね。……まずはおとなしく、身体を休めておきなさい」
「……すまない」
「いいのよ、別に。私が気に入ったから連れて帰っただけだもの」
それから数日間、数週間。致命傷はなくとも、当然骨の一本や二本は折れていて。ベッドから身動きを取ることも十分にできないクルーデを、フラルは看病し続けた。そうしてその結果――
「これで完治かしら、お疲れ様。あとはクルーデ、
――そう、ここからがフラルの目的。自分の好みである青年の世話を甲斐甲斐しく続け、彼の全てが自身に委ねられている。というのも、フラルにとっては中々に悪くはない日常だったけども。
「……いい。俺には記憶なんて必要ない」
「“私が”貴方の記憶を欲しているの。命を助けたのが私の意思なら、記憶を取り戻すのも私の意思。貴方に拒否権は無いわ」
そこで当人が、記憶を取り戻すことに難色を示しているのだから、フラルとしては止めないわけにはいかない。あれだけの黒い感情を、本来ならば取り戻さない方がクルーデにとっては幸せなのだろうけれど、そんな中途半端なことをフラルは許さない。
「それに――そんな状態になって、一人で生きていけるとでも?」
「それでも俺は、一人で生きていくと決めた。それがいつのことだったかは思い出せないが――」
座っていたベッドから降り、クルーデは『世話になった、礼はいつか必ず返す』と言いながらフラルの別荘から立ち去ろうとする。
「仕方ないわね……」
――次の瞬間、クルーデは全身の自由を奪われ倒れ込んだ。
両腕が、両足が、赤金の枷によって塞がれていた。そして首にも、鮮やかな赤金の首輪が。その首輪からはジャラジャラと同色の鎖が伸びており、フラルの手の中に納まっている。
「……っ!? お前今どうやって――」
「それは乙女の秘密よ。あなたの記憶が、キビィにも繋がっている。こうなったら、無理矢理にでも一緒に行動してもらうわ」
そこまで悪い外見をしているわけじゃないし。どうにかして私のものにしたい。この美貌に惹かれない人も珍しいけど、なにより
フラルは、それが楽しみで仕方なかった。
「ねぇ、クルーデ。私思うのだけれど、この鎖って――」
倒れながらも何とか起き上がろうと、身体を捩るクルーデ。そんな彼を踏みつけるようにして、彼を地面に縛りつける。ジャラリと鎖を鳴らして――強すぎず、弱すぎず、身動きできないよう絶妙な力加減で引っ張りながら、熱の籠った声でこう言ったのだった。
「――こうして見ると、運命の赤い糸みたいじゃない?」
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