Episode 8 Journey Through the Past ―― 過去への旅路

Ep.8 HARUNA 1

 ローレンスの身体はドンッと強い衝撃を受け、跳ね上がるようにのけぞるとそのままソファに深く倒れ込んだ。

 あっという間の出来事で、あたしはピクリとも動けなかった。


「ロ、ローレンス!」

 やっと叫び声を上げたけど、そのときには拳銃をかまえたミス・ランドルフが数歩のところまで迫ってきてあたしを牽制した。


「もとはといえば、おまえが母親探しなんてくだらないことを始めたことがすべてのきっかけだった。ローレンスがくたばってしまっては、それももうかなわぬ願いね。あたしが天国へ送ってあげるから、そこでお聞き。もっとも、こいつは地獄に行っちゃうだろうけど――」

 言いながら、ミス・ランドルフはローレンスのほうへ満足げに余裕の視線を投げる。


 その一瞬の隙に、あたしはポケットから〝魔法の杖〟を取り出した。

「助けて、ヤス!」

 叫んだとたん、バシュッと音がして先端がコードを引きながら飛び出した。

 ミス・ランドルフはたちまち身体を棒のように硬直させ、ブルブルと激しく痙攣した。

 ヤスジロー特製のスタンガンだ。合言葉を呪文のように唱えないと発射できないという凝った仕掛けだったのだ。


 でも、動けなくなるのは数十秒間だけ。あたしはすぐさま手錠代わりの結束バンドで倒れたミス・ランドルフの手と足首を拘束しておき、ローレンスに駆け寄った。


「ローレンス! ローレンス!」

 気を失いかけているローレンスの頬を叩き、大声で呼びかけた。

「ああ、ハルナ……」

 ローレンスがうっすらと眼を開き、力のない声で応える。


「死んじゃダメだよ。あたしはまだ聞きたいことがあるんだ。しっかりして! 今すぐ救急車を呼んでもらうから!」

 あたしが耳から超小型通信機をはずして緊急アラームを押そうとすると、ローレンスの手がスッと伸びてきてスイッチを切った。

「いい。無駄だ。私はもうダメだ」

 あたしの手に重ねられた手が、大量の血でゾッとするほど真っ赤に濡れている。


「最後に頼みが……ある」

「な、何だ?」

「こないだみたいに、キス……してほしいんだ」

 あたしは一瞬ためらったけど、すぐにうなずき、それで意識をつなぎとめられればと、無我夢中でローレンスの震える唇に口づけた。


 そのとたんだった――

 クラリ、とまたあの感覚が襲った。

 だけど、ちがう。こんどは、フワリと透明な薄布に包まれるような、なんとも言えない心地よさに満たされていく。

 そして意識は、未知の空間へとさらわれるように溶けていった……。



 すうっと唇が離れていく。

 ポッカリ浮かび上がるように、あたしにまた意識がもどってきた。

「気がついたかな? 白雪姫」

 あたしから身体を離しながら言ったのは、やわらかな笑みを浮かべたローレンスだった。


「エッ、気を失ってたの?」

 あたしはあわてて身体を起こした。

 揺れるロウソクの炎、荒れ果てた壁……ここは、気を失う前にいたローレンスの隠れ家。元のままの『絵画の間』だ。

 でも、あたしが縛り上げたはずのミス・ランドルフの姿がどこにもない。

 しかも……

「あ、あんた、傷がないよ。どうして?」

 ローレンスのボタンダウンのシャツを赤く染めていた血が、きれいに消えている!


「言ったろ。私は不死身のようなものだって」

「そ、そうだっけ……?」

「ああ。銃弾くらいじゃ殺せやしないのさ。きみのキスのおかげで生き返ったと言ってあげたほうがよかったかな」

 冗談のようにあたしを煙に巻き、すいっと身軽に立ち上がる。負傷したどころか、前よりピンピンしているようにさえ見えた。


「シャツは新しいのに着替えたし、あの女も目障りだから見えないところへ閉じ込めたんだ。いちいち気にしなくていいよ。それより、きみに見せたいものがある」

 ローレンスはあたしの手を取って立ち上がらせ、フェルメールの絵の反対側にある壁のほうへ連れていく。そこには食堂に降りるのとは別のもう一つのドアがあった。

(こんなところにドアなんかあったっけ……)


 ふと気になって、座っていたソファをふり返ってみた。中身がはみ出した見かけは同じなのに、奇妙なことにローレンスの血でベッタリ汚れたはずの跡さえまったくない……。


 だけど、ドアを出たところにはもっと驚くべきことが待っていた。そこは豪華な装飾がほどこされた、お城のような場所だったのだ!

 しかも、突き当たりまで何十メートルもの距離がある。身長の何倍もある天井には、キラキラ光る巨大なシャンデリアがいったいいくつ下がっていることだろう。

(聖エルザの地下にこんな……まさか、ありえない!)


「驚いたかい? たしかに〝まさか〟だよね。もうここは聖エルザじゃない。パリのヴェルサイユ宮殿にある有名な『鏡の間』という場所さ」

 あたしが思い浮かべたことがまるで聞こえたかのように、ローレンスが得々として言う。


「ど、どうしていきなりそんな場所に来てるんだ?」

「〝記憶の宮殿〟というのを聞いたことはないか? 記憶術の一種で、たくさんの部屋がある宮殿を思い浮かべ、この回廊を進んで左手の何番めのドアを開けるとあそこへ行き着ける……あの人物と会える……あの場面をまた見られる、という風に、たくさんのことを憶えてしまう方法のことだよ」


「じゃあ……ここは、あんたの記憶の中だっていうの!」

「そういうこと。私は人の何倍、何十倍もの人生を生き、好んで印象的な場面や人物と出会うようにしてきた。その膨大な情報をわかりやすく整理するには、ヴェルサイユ規模の広大な殿堂が必要なんだよ。しかも、よく馴じんでいて使い勝手のいい場所でないといけなかった」

「そうか。あんたは、こんな場所にもしょっちゅう出入りしてたんだね」

 記憶の宮殿というのがどんなものか、あたしにもだんだんのみ込めてきた。ここはローレンスの記憶のすべてにアクセスできる結び目のようなものらしい。


 壁をおおっている大きな鏡に眼をやると、あたしは奇妙なことに気づいた。

「あたしたちの姿がない……ていうか、ぜんぜん別の男の人が立ってる!」

「当然さ。これは私の記憶だからね。あそこに映っている姿も、当然その当時の自分のものだ。ああ、あのとき私はジャコモ・カサノヴァだったんだ。カサノヴァを知ってるかい?」

 あたしは首を振った。世界史なんて、中学生じゃササッとなぞる程度にしか習ってない。


「ヨーロッパ一の色男って言われた人物さ。生涯に一〇〇〇人の女性と関係を持ったと自叙伝に書いているそうだけど、ほんとかな? 私は数年間彼に転移していただけだから」

 でも、ローレンスの声にはまんざらでもなさそうな笑いが含まれていた。


「そうだ。まず手始めに、この宮殿で世界史上に輝く絶世の美女と会っていこうか」

 ローレンスは長い回廊を進み、とある豪奢な部屋のドアを開いた。

 入ったところは、まるで雰囲気の違う別の大広間だった。着飾った男女が何百人と集い、今まさに舞踏会の真っ最中だ。

 ローレンスが宿るカサノヴァが、人波をかき分けて一人の美しい女性の前に進み出た。色っぽいだけでなく、華やかで知的なムードを漂わせ、たしかに周りの女たちとは輝きがダントツに違っている。


「ポンパドール伯爵夫人。フランス国王ルイ一五世の公式の愛人だ」

 だれにも日本語がわかるはずがないのに、ローレンスはあたしに小声で教えてくれた。

「公式の愛人? なんだ、それ」

「国家の役職みたいに地位や財産まで認められてるってことだよ。この数年後には、彼女は国王に代わって政治を牛耳って、『ベッドの上の権力者』と呼ばれることになるんだ」


 だけど、そんなしたたかな女性の割には、こちらを見ると恥ずかしそうに頬を染め、もっと近くへ寄るようにと差し招いた。すると、彼女に優雅な響きのフランス語で耳元にいたずらっぽく何かささやきかけられ、あたしは飛び上がるほどビックリした。

 そうか。あたしは当時のローレンスの眼を通してとらえられた光景を見ているわけだから、この場にいるカサノヴァはあたし自身ってことになる。横にいるローレンスの姿は、彼があたしにだけ見せている虚像みたいなものにちがいない。他人の記憶をたどるってことの意味と仕組みが、ようやくわかりかけてきた。


「こ、この人、なんだかやけになれなれしいぞ。何て言ってるんだ?」

 あたしは、助けを求めるようにローレンスに尋ねた。

「……いや、訳さないほうがいいな。この前夜、私は彼女の寝室に忍び込んだのだったよ」

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